azzurriのショッピングレビュー

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僕が買ったもの、観に行った映画・ライヴなど、要は金を払ったものに対して言いたい放題感想を言わせてもらおうというブログです。オチとかはないです。※ネタバレありまくりなので、注意!

「ROMA/ローマ」ネタバレ有り感想。俺わっかんねぇなぁ、この映画。

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「ROMA/ローマ」という映画を観たんですけどね。

舞台はメキシコなんですけど、なのに何故「ROMA」なのだろうか?と思ったら、メキシコシティのローマ地区ということらしいです。「ローマの休日」のローマ、中田英寿が一頃所属して優勝したローマではないそうです。アルフォンソ・キュアロン監督が生まれ育った町らしく、半自伝的映画ということらしいです。

なんでも、ヴェネツィアで金獅子賞を獲り、ゴールデングローブ賞でも外国語映画賞と監督賞を受賞し、オスカーでも外国語映画賞、監督賞、撮影賞の栄誉に輝いた名作中の名作との誉も高い作品です。

なんですが、正直よくわからなかったですw

 
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愛があるようで愛がない

話としては愛があるようで愛のない家族の話、と感じたかなぁ。

主役は家政婦・クレアなんですけど、この人は誠実! とても良い子に思えました。真面目に働いてる感じだし。

それに比べて、周りの人はみーんな、不誠実に見えました(^^;; まぁ、みなさん、それなりにはやさしいんですけどね。

妊娠をしたクレアを、クビにはしなかった夫人も、自分の不機嫌をクレアに不当にぶつけてみたり、クレアが破水した時に親身になって病院に連れて行った祖母も病院ではクレアの年齢も誕生日すらも知らない。

その時代、使用人なんて雇い主からすれば、所詮そんなものかもしれないのかなー、とも思っちゃうんですけど、それにしても人情がねぇよなぁ、と。

やはり、愛があるようでないと感じてしまいます。

うんこちんちん

愛がないと言えば、この作品に出てくる男は皆揃いも揃ってクソばかりでしたねぇ(^^;; 不倫はするは、妊娠させたら捨てるは、もうサイテー。同じ男として悲しくなってしまいます。

クソと言えば、クレアの働く家の車庫は、斜めの市松模様で非常にスタイリッシュなんですけど、常時、犬のウンコがありました。常にです。ええ。いつもウンコがあるんですよ。

そんなに犬のウンコを出さなくてはいけないものなんでしょうかねぇ?

ウンコと言えば、クレアをやり逃げした男がいるんですけど、情事の後、その彼の全裸が無修正のまま割と長いこと映されていたんですね。チンコぶらんぶらんさせてました。チンコです。ええ。ぶらんぶらんさせてるんですよ。

ウンコとチンコをまんま出せばオスカーで評価されることになってるんでしょうか?

なんか、これは俺の勝手なイメージなんですけど、向こうの映画って、汚い物や、人前で晒すのはどうかなー?というものをそのまんま出すと「真実を描いている」とか評価しがちなイメージがあるですけど、如何でしょうか?

子供は愛に溢れてる

また、愛がないと言えば、クレアの妊娠が死産に終わってしまうシーンは本当に悲しいシーンだったんですけど、後の海のシーンでクレアが、本当は子供を産みたくなかった、と言っていたのが少しショックでありつつ、あの男のことを思うとわかるような気もしましたが、なんとなく、やはりここでも愛はなかったように感じましたねぇ。

で、その海のシーンで、末の男の子が「僕が大人だった頃は、」と語り出すんですが、どうもその子、前世の記憶がある、という設定のようなんですね。そこはなんだかすごく興味深かったです。そこもっと掘り下げて欲しかったかなー。そっちの話の方がすごく興味ある。

ちなみに、出てくる子供達はみんなホント可愛くて、また皆クレアのことが大好きっぽかったですね。

この映画の中で、子供達だけは、愛に溢れていたように思います。

映像は確かにカッコいい!

そんな感じで、内容的には何が言いたいのかよくわからなかったんですけど、全編白黒の映像が映し出す建物や部屋は非常に美しくて、久々に絵画的映画を観た感じですね。

冒頭の斜めの市松模様の車庫なんかは、めちゃめちゃカッコよかったです!(ウンコまみれだけど)

ただまぁ…それだけですね。

この映画、どこらへんが面白いですか?

というわけで、色々調べてみたんですけど、なるほどなぁ、と一定の理解はできました。

ざっくり言うと、この映画は生と死という大きなテーマを扱いつつ、監督の半生を描いたプライベートフィルムとしての側面があるそうです。

つまり、壮大なテーマを扱いつつ、内省的である、という。そういった意味では非常なダイナミズムのある映画であるらしかったんです。

しかし、それを理解するには非常に広範な知識がないとわからないと思うし、映画を観る「目」というものも非常に肥えたものが必要とされる。また、その当時のメキシコの情勢についても詳しくなければいけない。

要は、とにかくわかりにくいんである。

言い訳がましいが、俺がわからなかったのも無理はないと思います。

でも、中島かずきとか、いとうせいこうとか、すごい人はみんな誉めてんだよなぁ。つまり、「わかってる」んですよね。やっぱすごい人はすげぇなぁ。

「もし僕らのことばがウィスキーであったなら」ネタバレ有り読書感想。本としてかわいい。


村上春樹のエッセイ「もし僕らのことばがウィスキーであったなら」という文庫本があるのですが、村上春樹の本の中では一番好きな本ですね。

前回感想を書いた「やがて哀しき外国語」はアメリカでの生活を綴ったエッセイで、それも良かったのですが、こちらは旅行記

共通しているのは、普段行けないところを知ることができることです。ちょっと行った気分にもなれるのが好きです。

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とてもかわいらしい本

冒頭でも言ったように、村上春樹の本は好きで、結構読んでるんですけど、これ一番好きかもしれませんね。

村上春樹と言えば、「ノルウェイの森」とか(初めて読んだ村上春樹本なんですけど、これ全然ピンと来なかったんだよなー)、「ねじまき鳥クロニクル」とか「1Q84」とか(いずれも未読ですが)、有名なのいっぱいあるけど、そんな中でこの本は、彼の著作の中では抜群に地味です。

でも好きなんですよねー。

文章というよりは、「本」として好きですね。

なんというか、かわいらしい本だと思います。ウイスキーについての本だけどw

先ず短い。すぐに読み終わってしまいました。そういったところも、先ずかわいらしいという評が当たっているように思います。

そして、タイトルがオシャレ。「もし僕らのことばがウィスキーであったなら」ですもん。俺なら「ウイスキー大冒険」にしてる。

あと、村上春樹の奥様の写真が添えてあるんですけど、これがなかなか良い。ちなみに、「やがて哀しき外国語」で、奥様は村上春樹旅行記の写真を撮ったことがあり、それが縁で彼女の写真がたまに雑誌などに掲載される、とあるのですが、おそらくこの本のことを言っているのでしょう。

スコットランドアイルランドの、緑を基調とした美しい自然、そしてカラフルな街並み。その風景もまた、とてもかわいらしい。

ただ、この「かわいらしさ」は元々の風景がかわいらしいというのも、もちろんあるとは思うけど、村上春樹の奥様の目の付け所、そして写真への切り取り方がかわいらしいというのも多分にあると思います。

やはり、そういった、女性ならではの視点、センスと言ってもいいかな、そういうのって、絶対あると思う。

でまた、この、文庫に写真が挿入されてる感じがまた良いんですよね。ちょっとした写真集のような。中学か高校の頃に読んだ片岡義男の「彼らがまだ幸せだった頃」を思い出しました。こちらも、挿入される写真の感じが好きでした。

あと、文字の配置なんかも、すごく良くて。大抵の小説とかの文庫本は上から下までダーッと文字が連なってるじゃないですか。それがこの本では上と下のスペースが、ちょっと多めに取ってあるんです。そのバランスというか、余白がいいんですよね。

まぁ、文字数が少ないから本一冊の体裁を整えるために水増ししてるという事情もあるとは思うのですがw 結果、それが良いデザインとなってると思います。

そういった、本トータルとして、すごくかわいらしい作りになっていて、そういうとこがすごく好きなんですよね。

パブのおじさんへの愛情

もちろん、エッセイとしても、地元の人のシングルモルトに対する愛情がよく描かれていて、それも素晴らしい。それを見つめる村上春樹の、尊敬にも似た視点が、すごく良いんですよね。読んでると、ウイスキー飲みたくなる。

それと、村上春樹の文章によく見られるスノッブ的な、一種皮肉めいた、ナルシスティックで鼻に着くようなところが、このエッセイではほぼ見かけることがありません。そういったとこも、僕がこの本を特に好きな理由かもしれません。

で、この本にはそんな感じで、蒸留所で働くおじさんとか、魅力的な人がたくさん出てくるけど、特に心に残るのが、パブのおじさんです。

村上春樹が飲んでいたパブに、一人の老人がひょっこりやって来るんですけど、この老人について、村上春樹が色々と想像を膨らませるのですが、その描写がすごく印象深い。

村上春樹は、こういう、他人に自分の、ややもすると恣意的な印象を乗せるのがすごく上手いと思います。

そこにいる人が、あたかも村上春樹の小説の登場人物のようになってしまうんです。

孤独そうに見えるけど、それでいて、何というか、実に満ち足りた感じでウィスキーを一杯だけ飲む。

その感じがですねー、実に良いんですね。

その人物に対する村上春樹の持った好意的な、ややもすると憧れにも似た感情が、おそらくは何の変哲も無いおっさんに「価値」(と書くとえらい上から目線ですが、他に良い表現が思い付かないので、こう書いときます)を与えています。

もちろん、おっさん的にはどこ吹く風で、これはあくまで村上春樹の内部でのことなんですけど。この人はこうなのかな、ああなのかな、と思いをふくらませるのは楽しいことでもあります。

基本的に、村上春樹は「人好き」なんでしょうね。その感じが、文章を魅力的なものにしているように思います。

 

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「ジュラシック・パーク」原作小説下巻ネタバレ有り読書感想。描いたのは恐竜ではなく科学信仰批判?!


ジュラシック・パーク」の下巻なんですけど、いよいよパーク内サバイバルが始まった感じです。

なんせ恐竜、脱走しちゃいましたからねぇ(^^;; しかもその中には当然の如く、最強との呼び声も高いティラノサウルスも含まれています。これはヤバいです。

恐竜だ!と思うとワクワクしますが、危険だ!と思うとヒヤヒヤします。シャチは好きだけど、海中では遭遇したくない、というのに似ています。

そんな感じで、アクション要素が上巻と比べるとグッと増してくるのが、この下巻なのです。

それと同時に、おそらくは作者であるマイクル・クライトンのメッセージ性も、より強く出てくるのが下巻でもあります。

ここらへん、非常に読み応えあります。

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専門用語は小道具

上巻でパークのシステムが産業スパイにブッ壊されてしまいましたから、その復旧が急務ということで、下巻ではプログラムの技術的な話が多くなっています。

ソースまで載っけちゃってねw しかもそれを元に話が進んでいく。もう、久しくソースとか見ていないので、このコマンド見たことあった気がすんなー、程度で、ほぼ忘れてしまったので訳がわかりませんでしたw

そんな感じで、かなり専門的な話が結構な枚数を割かれてまして。そんなもん見せられても、多分ほとんどの読者がわからないと思うんで、割と退屈なシーンが延々続いてしまいますw

しかしですねー、個人的にはここすごい大事だと思うんです。わかってもらえなくも、とにかく詳細に記述する。これが大事だと思うんですね。

プログラムのソースを詳しく描写することで、それが一つの小道具となっているからです。

科学的な裏付けを基に恐竜を描く、っていうのがこの小説の根幹ですので、こうして長々とソースを記述し、説明することによって、物語にリアリティを含ませ、迫真性を与えることができるんです。

だからこういうシーンは非常に退屈なんですけど、非常に重要だし、やはり雰囲気出るんですよね。そしてそれに成功しているとも思います。うわーなるほど(わかんないけど)大変だなーってw

冒険小説

また「ジュラシック・パーク」は冒険小説でもあるので(何せ現代に甦った恐竜と人間との戦いですからね)、アクションシーンにも多くページが割かれています。

恐竜に追いかけられる描写は非常に迫力があって、手に汗握ります。

でも…俺としては退屈なんですよねw

なんせ、追いかけっこが延々続くわけですから、その間、ストーリーは一向に進まない。なかなか物語が前に進まず、早く次の展開にならねーかなー、と正直思ってしまいます。

ただ、描写自体はよく描かれていて、そこは非常に秀逸でもあるんですよね。

フィジカルなアクション描写も良いんですが、未知の動物・恐竜との対決ってのがすごくよく考えられている。なんせ、恐竜なんて誰も見たことないんですから、想像で書かなくちゃならない。

その未知の生物の身のこなしが非常にそれっぽく、「あぁ、こういう感じだったんだろうなぁ」という描写は非常に説得力がありました。多分、現生の動物たちを細かく観察して参考にしたんじゃないかなぁ、と思います。

また、恐竜とのフィジカルな対決だけでなく、果てはコンピュータを復旧させるための操作をもスリリングに描いています。ここはむしろ人間対機械の対決、といったところでしょうか。

ここら辺の筆力はさすがで、物語に緩急を与え、読者を飽きさせない作りになっています(さっき、退屈って言ったばかりですが)。

科学者は業績が大好物!

しかし何と言っても、イアン・マルカムの科学者に対する評価がですねー、すごかったw 個人的にはこれがこの物語の最も根幹を成すところだと思っています。

もう、ホンット、ディスりまくり! そしてまたそれが、非常に説得力があるんですねー。

まぁー、とにかくすごいです。マルカム曰く、

1 科学者は見せかけの知能しか持っておらず、全体を見通す力はない。
2 科学は西洋史観的なものの考えであり、それ以外の世界では、そのような見方はうんざりしている。
3 科学者は自然の理から外れた存在で、新しい発見をする度に環境を破壊していく。

更には、進歩など何もなかった、とまで言い放ちます。そして、そろそろ何がためになり、何がためにならないか見極め、変革しないといけない、と締めます。

なるほどなー、と思ってしまいます。よくよく最近のニュースとか思い返してみれば、思い当たることが割と幾つか浮かんでしまいます。

で、上記のことが、すごいページ数を割かれて、細かい専門的な知識も交えて語られるのです。すごい読み応えあって、非常に面白いです。

細かく見ていくと、先ずマルコムが指摘した1のことは、これまたマルカムが指摘した次のことが原因になっているように思います。

・科学者が最も大事にしているのは真実の探究ではなく業績である。

初めは確かに真実の探求を求めていたのかもしれません。しかし、研究を続けるには金が必要です。資金を調達するためには業績があった方が有利です。だから、科学者は業績を求めるようになるのではないでしょうか。

ただ、もし自分がすげえ頭良くて、何かすごい発明や発見できそうで、資金を調達できるところにまで手が届きそうだったら、そりゃやっぱりお金は欲しいでしょう。その魅力に抗えるかと問われたならば、俺は難しいなぁ。

そうやって、よくよく考えてみるに、お金とか名声(それもお金ですが)の吸引力ってすごいですよね。ただまぁ、そうやって拝金主義に陥ると、視野狭窄となってしまい、後々大変なことになってしまうのはわかりきったことなんですけどね。

マルカムが指摘した1のことはこれが原因となっているように思います。

まぁこれ、90年代の小説なんですけどね。この段階で、既にこのような視点があったんですよねぇ。最近よく言われているプラスチックのゴミ問題なんかは、この30年間、何も変わらなかったことの象徴なのかもしれないないですねぇ。

科学者は二世気質満載?!

また、マルカムはこういったことも言っています。

力を得る人は、その力を得るために様々な努力と研鑽に励み、多大な犠牲を払わなくてはならない。そして、力を手に入れた過程で、自己抑制力を得ることができる。

なんかわかりますねぇ。本当に物知りな人って、あんまりその知識をひけらかさない印象。逆に「俺ギター弾けるゼ」って人にギター持たせたら、ハッタリギターしか弾けなくて、いざスタジオ入ったら化けの皮はがれるってやつ。

ところが、科学者にはこのことが当てはまってしまうらしいんです。悪い意味で。

曰く、科学は相続財産に似ているんだそうです。割と簡単に先人の知識を流用できるから、というのがその理由。

確かに、科学に限らず、学問って、それまでの知識を書物や、最近だったらネットで調べて吸収して、更にその上に積み重ねるものですからね。

しかもポイントは、それら先人の知識を手に入れるのが、かなり若いうち、というところなんです。だから、傲岸不遜になる。たまにいますよね。若手のうちに売れて、調子こいて、干される芸人w 増長するってのは、若い人の特性なんでしょうね(たまに若くなくてもいるけど)。

そんな感じなので、自然など、様々なものへの畏敬の念がなく、あるのは名声を得たいという欲だけ、ということになってしまうらしい。だから、世俗的な悪徳をしてもやむなし、と考える、というのです。業績を得るためには背に腹は代えられぬ、ということですかね。

これも、マルカムが指摘した1に通じることになってしまうのでしょう。

科学は宗教?!

マルカムの指摘した2のことはマルカムが後に語る次のような「科学は信仰」ということなのかもしれません。

科学ってのは、中世的システム、つまり宗教ですね、それを払拭して、新しい、絶対的な価値観念になったわけですが、それもマルカムが言うには、そういった中世的システムが、その頃出現しつつあった新しい社会に適合しなくなったから、ということらしいです。

そして科学は今や500年に及ぶ「信仰」となってしまい、現代の世界に合わなくなった、と言うんです。

しかも、科学は不確定性原理ゲーデルの原理などで知的正当性すらも勝ち得なくなってしまったらしく、科学はその力を自らで制御できなくなってしまった、と言います。

最後の「制御できない」というのが、非常に未来予測的で怖いですね。思い当たることは幾つもあります。

でも確かに、科学的であることは正しさの象徴として広く流布してて、それが常識となっています。でも、よくよく考えれば、科学の知識で以前言われていたことは実は間違いでした、てなことはそれほど珍しくありません。

恐竜で言えば、僕が子供の頃はティラノサウルスなんかは尻尾引きずって歩いて、鈍重な生物、って感じでしたもん。それが実は間違っていて、今じゃ尻尾立てて、俊敏な動きしてた、ってなってますからね。

結局科学って「今はこうなっています」ってことで、それを「信じる」ことでしかないような気もします。これって、信仰ですよね。

科学者は反自然?!

また、3のことの言い換えかな、と思うのが次の点です。

マルカムは、人間が自然をコントロールしようとした時、その時点から深刻な問題を抱える、なぜならそれは不可能だからだ、と言うんです。

これは、当り前のことなんでしょうけど、刺さりますねぇ。これはここ数年の状況を鑑みると、特に刺さります。

自然に祈りを捧げるのは、自然をコントロールできないことがわかっているからだ、というような台詞もあって、これもなかなか深いですよね。「科学以前」の人の方がむしろ自然というものをわかっていた、とも取れますよね。そう考えると、人間は科学の力を手に入れたことによって、むしろ退化してしまった、とも言える。

科学は自然の理から外れた存在、というのは、自然をコントロールする、ということと同義のように思えます。というのも、コントロールするためには、一旦その外に出なくてはできないからです。

そうかぁ、やはり人間は地球を滅ぼす愚かな生物なのかー、と、よくあるペシミスティックな一言も漏らしたくなるのが人情というやつですが、その瞬間、マルカムは更に指摘します。

人間には地球を滅ぼすこともできなければ、救うこともできない、と言うんですね。

地球が滅びる、というのは、あくまで人間中心の考え方で、地球規模となると、もっとスケールがデカい。滅びるのは人間と、その巻き添えを食らう生物で、地球本体は別に滅びない、というのです。また、救うなんてことは当然スケールがデカすぎてできない、というのです。なるほど!と思いました。

とはいえ、人間にとっては、人間が滅びる、というのはそのまま地球が滅びるとほぼ同義なのですがね。

それでも、まだまだ科学

これを読むと、確かに科学は信仰で、これを指摘した30年前から何の進歩もないなぁ、と思ってしまうんですが、その間に科学に代わる新しい強力な価値観念の転換が起こり得るようなものが出てこなかったのもまた事実。

しかし、「やがて哀しき外国語」で村上春樹が、アメリカに取って代わる明確且つ強力な価値観を持つ国はなかった、と言った30年後に中国が台頭してきました。これと同じように、これから何年か先にそれらしい価値観念が出てくるかもしれない。

ただ、科学信仰は500年続いたので、たかだか30年かそこらでは、代わり得るものが出てくるのは難しいかもしれないですけどね。

ちなみに上記のイアン・マルカムの発言は、主にジョン・ハモンドに対して言う台詞なんですが、思うに、ハモンドは多くの科学者、もっと言ってしまうと人々の象徴で、マルカムは作者マイクル・クライトンの代弁者なのだと思います。

ただ、チーフエンジニアのアーノルドが、マルカムのは机上の空論で俺たちのは実践だ、みたいなことを言うんですけど、その実践にあぐらを組んで、かえって盲目的になってしまっている点が逆説的な論や展開で、結構皮肉が効いていて面白いです。

大抵の場合、机上の空論、ってのは役にも立たないことの喩えなのですが、ただやってるだけで思考停止になるってのもまたよくあることで、これは自戒の念も込めて、考え直してみる価値はあるかもしれません。

そしてこうやって改めて科学のことを考え、自分の暮らしぶりを振り返っていくと、やはり科学の恩恵に浴しまくっているなぁ、という結論に辿り着かざるをえないわけです。うーん、科学。

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グラントは果たして『正義の』主人公だったか?

で、ですね、最後のクライマックスシーンのラプトルの営巣地のシーンでは、おそらく、グラント博士のエゴが出てしまった場面でもあると思うんです。

グラント博士もマルカム言うところの科学者です。自身が研究してきた、そして見ることはできないと思っていたラプトルの営巣地を見ることに抗い切れなかったのでしょう。

ラプトルの営巣地にことについて、色々それっぽい言い訳は言うものの、よく考えると、必然性はありません。解決の手段としては、駆除は軍に任せればいいだけの話で、そしてそれが最上の手段でもあると思います。これはジェロームの主張する通りでです。

ちなみにこのジェロームという人は、マルドゥーンを手伝い、不慣れで危険なことにも、ある種積極的に手伝い、且つハモンドの妄想である、危険なパークの閉鎖を強く心に決めていました。言わば、物語的には「正義」の役回りなんです(ちょっと違うかもしれないけど)。

しかし、グラントはエゴを全開にしてしまいます。そのジェロームを危険に晒してまで、自らのエゴを優先させたグラントは、やはりマルカム言うところの悪徳科学者でしかなかったように思います。

ただ、映画版では、ラストでハモンドに、このパークは承認できません、と言う。ハモンドハモンドで「当然だ」と切り替えす。こんな感じで、登場人物の人物造形が映画と原作で少しずつ違うのも、面白い点で、スピルバーグの方がより、どの登場人物も善属性多めに描かれています。

ラストは映画と違って詩的

そして、この物語のラストなんですけども、映画版とはかなり違っていますね。

夕闇の中、ヴェロキラプトルの群れが、遠くを横切る船を見つめるんですけど、このシーンは詩的ですらあります。それを見たグラント博士曰く、彼らは「渡り」をしたいんだとか。鶴とかツバメとかがやるあれですよ。

なんせ、恐竜は鳥の先祖ですからね(現時点での学説。諸説あり)。彼らも渡りをしたがっているのではないかと。

でも、人間によって強引に甦らされ、島に捉われたラプトルたちは、遠くに航行する船を見つめ、何を思うのでしょうか? という詩的な感じ。これ、いいよなぁ。最後の最後にこれを持ってくるんだから、さすがはマイクル・クライトン(でも実は本当の最後の最後、後日譚的なものがあって、そっちは陰謀論的に結構ブラックな感じで終わりますが)。

ただまぁ、結構地味っちゃあ地味な絵柄なので、詩的ではあるけど映画的ではないですね。だから、スピルバーグもこのシーンは使わなかったのでしょう。まぁ映画のラスト、ティラノサウルスが一発吠えてそれ終わりってのは非常にカッコ良かったですけどね。あれは、「この映画の主役はティラノサウルスだ、ってことに気付いたから」らしいです。うーん、さすがスピルバーグ

ただ、そんな感じでですね、ジュラシック・パークの原作は、読んでみると「パークを作ることは、自然の摂理に反する愚かな行為」ということで、決して完成させてはいけないもの、と定義されていることがわかります。

ところが、映画の新シリーズの「ジュラシック・ワールド」は無邪気にそれを作ってしまいました。つまり、ジュラシック・ワールドは原作者のテーマをないがしろにした、三流の映画である、と言って過言ではないと思います。

 

 

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「ジュラシック・パーク」原作小説上巻ネタバレ有り読書感想。ある意味映画より面白い!


ジュラシック・パーク」の小説を実に久々に読み直してみました。

そしたら、これがまた面白い!

読んだ当時も面白いと思ったのですが、改めて読むと更に面白かったような気がします。ある面では、この小説を原作とした、あの名作実写化映画よりも面白いかもしれません。

で、これ読み直したのが夏だったんですよね。舞台が南国やら砂漠の荒野やら暑い場所ばかりなので、暑い日が続く夏に読むにはこれがまた非常にハマりました。

それにしても、マジで今年の夏の暑さは参った…。ホント勘弁してもらいたい。

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科学的な根拠風のリアルな設定

やはりこの小説一番の肝は、科学的な根拠(正確に言うと『科学的な根拠風』ですが)に基づいた非常にリアルな恐竜の設定でしょう。

今となってはやはりちょっと古くなってしまったし、ちょいちょい間違っている箇所もあるらしいのですが、当時の最新の知識を基にして、実に細かい設定が施されています。

ジュラシック・パーク以前・以後」と言えるくらい、この小説でガラリと一般の恐竜観が変わりましたからねぇ。それくらい、革新的な作品でした。

ただ、それらの細かい説明パート、パークの説明や、いかに恐竜を現代に蘇らせたか、の説明なんかは技術的な難しい話なので、かなり退屈でした。

しかも、色々くっちゃべってはいるんですけど、現実ではありえない話で、あくまでフィクションの、物語を作るためだけの技術の話なんですねw

だから、ぶっちゃけ、読み飛ばして構わない部分なんです。

でも、小説的には重要な部分で、科学的な裏付けがある、という演出の、大事な小道具なんです。これがあるのとないのとでは、臨場感が全然違うと思います。

逆に言うと、よくこれだけありもしない技術をそれっぽく、しかも長々と書いたもんだなぁ、と思いますw でも、これが筆力というやつかもしれないですね。

恐竜描写の不満と迫力

とはいえ、恐竜の描写に関しては不満点もあります。

この物語の主人公であるグラント博士が初めて恐竜(アパトサウルス)を目撃するシーンがあるんです。ここがですねぇ、割とあっさりなんですね。ひょっこり現れて、あっさり見る感じ。ひょっこりあっさりです。

パークの案内が本格的に進んできて、いよいよティラノサウルスが出てるぞゾ、って時も、やはり如何せん、どの恐竜もヌボーッとした感じの登場。あまりセンセーショナルではありません。

ここらへんは映画の方が上手いですねぇ。そこはさすがにハリウッド、スピルバーグといったところでしょうか。映像を使って観客を驚かせる、楽しませる、という点ではそりゃもう超が幾つも付くくらいの一流の世界ですからね。

また、逆に、映像だから迫力がある、とも言えるかもしれません。やはり文章で登場の驚きを表現するのは難しいかもしれません。そこは映像の強さかなと。

リアルで臨場感溢れる描写

また、ドキュメンタリーのような「然もありなん」なストーリーも秀逸ですねぇ。

なぜ、どうやって、恐竜を復活させることができ、恐竜の動物園を作るに至ったか、非常な迫真性を持って物語が進んでいきます。

そこには製薬会社や遺伝子を専門とする科学者の置かれた状況など、むしろ考古学以外のフィールドから恐竜、そしてパークに対するアプローチが行われます。ここらへんが非常にスリリングなんですよね。

で、パークを作ろうとしているInGen社が謎の行動を繰り返し、政府から目を付けられている、ってのもまた陰謀論サスペンスとでも言える展開で胸熱です。

更に、ジュラシック・パークのライバル企業が出てきたり、そこが産業スパイを潜り込ませたり、ここらへんはまるでビジネス小説のようですらあります。

恐竜の動物園を作るだけでも面白いのに、そこに絡んでくる敵役を作り、物語に奥行きを与え、トラブルの種を更に作っていきます。

こういうリアルで細かい描写は物語世界に入りやすく、現実感があって実に読みごたえがありますね。

リアルで臨場感溢れる描写、という点ではコップクラフトもそんな感じでしたね。こちらはラノベなのですが、何か共通するものを感じます。

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構成力がすごい

で、そういうのをテンポ良くパーッと見せちゃうんじゃなくて、小出しにするんですよね。

ジュラシック・パーク計画が徐々に明らかになっていくのは、ライバル社の会議の中なんです。だから、外堀はなんとなく調べはついているんだけど、その中身、詳細が今ひとつ霧を透かしてみるような、この感じ!w

読者はもういい加減、恐竜を蘇らせることに成功したことに気付いているんですけど、作者もそのことをわかりつつ、あえてじらしている。この感じが実に上手い。

しかもそういうストーリーを、細かい描写、物語世界の「事実」を丹念に、効果的に積み重ねていく、その構成がすごいです。

翻訳が素晴らしい

また、これだけ素晴らしい原作なのですが、これを日本語にしてくれた翻訳が素晴らしい。

実に読みやすい日本語で、「翻訳的表現」がほぼ見当たらなかったです。あったとしても、それは「現地感」を出すための、敢えての表現であると思うし、実際効果的だとも思います。

この翻訳でなければ、これだけ楽しめなかったかもしれません。

そして本書の名翻訳は酒井昭伸さんによるもの。酒井昭伸さん、素晴らしい翻訳をありがとうございますm(_ _)m

やはり翻訳って、重要ですね。

マイクル・クライトンの子供嫌い

あと、マイクル・クライトン、子供嫌いですねーw

恐竜の餌食に遭うのは、前半は大体全て子供、或いは十代と思しき若者なんです。それらの犠牲者がですねー、またかなり残虐にやられるんですね。そこまでするぅー?!ってなくらい、結構残虐にやられるんです。

これは子供が嫌いであることの表れであるように思うんですけど、どうでしょう?

あとはですねー、レックスっていう小学生の、3、4年生くらいの女の子が出てくるんですけど、これが壊滅的に可愛くないw もう、ホンット、クソ生意気なクソガキって感じで。しかも、開いた口が塞がらないくらいに頭が悪い。空気も読めない。足を引っ張る。もう、最低。

で、このクソガキにはティムというお兄さんがいるのですが、この子良い子! 本当に聡明で優しくて、もう天使のような子ですね。ちなみに下巻で大活躍します。そしてその間、クソの妹は足を引っ張りますw

実際、このクソ妹は案の定評判が悪かったらしくて、映画化される時は「ティムの可愛いお姉さん」というキャラクターに変更されています。ここら辺のバランス感覚はさすがスピルバーグといったところですね。

映画版のレックスは、超大好きです。

日本企業がまだ元気な頃

あと、隔世の感が強くあったのは、日本企業の役どころですかねー。

パークなどの出資者にちょいちょい日本企業が出てるくるんですよ。というのも、企業の体力的に莫大な金を支出できるのはアメリカの企業では無理、それができるのは日本企業くらい、という理由で。

時代を感じますねぇーw

今なら中国企業になるんでしょうね。昔の日本は元気だったのだなぁ、とこんなところでも痛感させられてしまいます。

ジョン・ハモンドという男

ジュラシックパークを作ろう!とそもそも言い出したのはInGen社の会長であるジョン・ハモンドというお爺さんです。この人が個人的にはなかなか興味深い人で。

このジョン・ハモンド、非常に夢見がちな男で、ホントに財閥の長なのか?と思うくらい夢見る翁です。

もう、やる事なす事夢先行で、あまりにもずさんすぎます。そこが、このパークが破綻することを濃厚に予期させる作りでもあるんですけど。

また一方、旗振り役は夢見がちなくらいでないとダメなのかもしれない、とも思いました。細かいことはナンバー2に任せれば良いかと。そう考えると、恐竜の動物園作る奴はこんな奴、っていう人物造形もしっかりしているとも言えるかもしれません。

ハモンドはやはり、ある面では愚鈍なトップ、といった印象ですねぇ。危険を修正できる場面は何度かあったんですけど、その全てを自らの理想や夢のためにゴリ押しで拒否。避けられるリスクを全て受け入れてしまった感じです。

こうだといいなぁ、と思うことをそのまま自分の中の現実にすりかえてしまう性向があるのでしょう。

おそらく、ハモンドはカリスマ的経営者なんだろうと思います。

多分、普通に接する分には魅力的で、専門知識はないながら、弁舌は巧みで、行動力がある。しかしながら、全ては自分のためで、人を道具としてしか見ることができない。そういった孤独な人なのかもしれない。だから、自分の夢に固執する。

言ってみれば、カリスマ気質満載な人、っていう感じかもしれません。

次巻、いよいよ恐竜が本格稼働!

物語の方はですね、後半も最後の方になると、いよいよ産業スパイが動き出したり、卵を産まないはずのパークの恐竜が実は繁殖していたり、ヴェロキラプトルが船に密航して島の外に出そうになったりと、急激に動き出していきます。

設定の細かな説明など、停滞しているところは停滞するけど、動き出す時は様々なものが一気に動き出す。これが緩急というやつなのでしょう。くぅー! 来たぁー!って感じでテンションも上がります。

そして、パークは本格的に破綻し始め、恐竜が野に放たれます。主役とも言えるティラノサウルスが檻を破ってからのシーンは非常に迫力がありました。

映画並みに手に汗握ってしまいます。ここらへんの描写力はさすがですね。

最初の、ヌボーッとした感じと違い、いよいよ本域といった感じ。やはり囲を破って野生に戻ったからなのか、イキの良さが違う感じです。一気に物語の勢いに加速がついて、こうご期待!といった感じで次巻に続いていくのです。

ただ、最後のグロシーンは本当やめてもらいたかった。



 

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「火花」ネタバレ有り読書感想。史上初の「笑える純文学」?!

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ピース・又吉直樹の「火花」を読んだんですけどね。

いやこれ、素晴らしかった! さすが芥川賞獲っただけのことはある!

史上初の芸人の受賞は、ひょっとしたら史上初の「笑える純文学」なのかもしれません。

ところで、綾部はいつ日本の芸能界に復帰するんでしょうか? そもそも、NYに行く必要あったのか?

描写が良い

先ず思ったのは、描写が良いですねぇ。やはり、小説にとって描写力ってのは、改めてホント大事ですね。

本作の場合、又吉直樹がよく訪れているであろう、吉祥寺の町や、冒頭の熱海の花火大会の描写などは特によく雰囲気が出ていましたねぇ。熱海にもよく行ってるのかな?

描写というのは読者に、そこがどんな場所なのかを視覚的に想像させ、物語世界に引き摺り込む重要な役割があると思います。だから、ここが良いと、スッと小説世界に入れるし、そこから、各登場人物に感情移入させることに繋がります。

感情移入することができなければ、どんなによく出来たストーリー、構成があっても、興味を持つことはなかなか難しいですからね。

でもたまに、映画とかでも、そういうこと関係なく、ひたすら構成とかストーリーを追うだけの人っていますけど、読んだり観たりして、楽しいのかな?

人物造形

また、登場人物といえば、主人公の師匠となる神谷さんの造形が素晴らしい。かなり異色な人なんですけど、芸人の世界には、いかにも実在しそうな人でもあります。

また、おそらくは又吉の分身であろう、主人公の、現状を必死になって打破しようとしつつも、どこかモラトリアムな感じのあるところがまた、主人公として魅力的でしたねぇ。

この主人公・徳永の、よく見知らぬ人とどう接していいかわからない感じや、そんな見知らぬ人たちを無条件で下に見てしまう高慢な気持ちや、それでいて自分のそういうとこに非常なコンプレックスを感じてしまうところなんかは、果たして僕そっくりで、非常に共感が持ててしまいました。

実体験のアドバンテージ

そして、芸人世界の殺伐としつつギラギラしたサバイバルの感じは、実際にそこを生き抜いてきた又吉直樹ならではの迫力で描かれています。

この圧倒的な迫真性は実体験ならではですね。そいういった自分の持つ強みを最大限に活かした設定だけでも、この小説は勝ったも同然だったのかもしれません。

また、芸人ならではの笑える描写も随所にあって、ここがまた面白かったです。読んでて吹き出してしまったりして、焦って周りを見回したりして。

史上初かもしれない「笑える純文学」という感じで、やっぱ芸人ってすごいなぁ、と思ってしまいます。

ちなみに僕は純文学とは、波乱万丈な内容や気になる展開など、ストーリー性で読ませるものではなく、登場人物たちの内面を描くことにより「人とは何か」を問いかけるようなものを純文学である、と勝手に定義しています。

人生の、もっとも輝かしい頃

でも、僕がこの小説で一番グッときたところは、実に些細なところだったかもしれません。

主人公たちが吉祥寺近辺を飲み歩くモラトリアムな感じ。これがホント、いい感じ


その様は冴えないw 圧倒的に冴えないんですけど、ひょっとしたら人生の中で実は最も幸福で、輝かしく大切な時間を過ごしてるようで。

そこも、自分の若い頃を思い出させて、グッときてしまいますねぇ。

師匠と弟子の歩む道

そんな主人公と足並みを揃えるように、師匠の方も、冴えないながらも、ある種幸せな時間帯を過ごしたんですけどね。

でも、その時間は同じように共有しつつも、その中で動いていることは真逆の方に向かっていて。そこがまた、人生の甘さ控えめなところを表していて。

主人公の方は事務所に大手からの移籍組が来たことによって、お笑い生存競争の窮地に立たされ、いよいよ本気で焦ってきます。と同時に、銀髪にして垢抜ける、という外見的な変化も出てくるんです。

逆に師匠は仕事でも特にこれといった変化はなく、そして更に同棲相手とも別れ、暗雲が垂れ込めてきます。

同じようで、その内的な変化は逆のベクトルへと急激に動いているようで。それを叙情的な筆致で急ぐことなく、淡々と、それでいて感情的に描いているですね。この感じが非常に上手かったと思うし、グッと作品世界に埋没していった感じです。

解散ライブ最高

スパークスは深夜の若手お笑い番組でプチブレイクするんですが、残念ながらそこが限界でした。そして、相方の結婚を機に解散。

で、解散ライブをするのですが、ここが泣けた。

思っていることと逆のことを言って感謝を述べることによって、泣き笑いを引き出す、というのはひょっとしたらベタかもしれないけど、やはり泣いてしまいます。

全部で172ページという短いながらも、主人公の青春が濃密に、丁寧に凝縮されていたから、というのがやはりもちろん大きいです。

また、このプチブレイクの一方で、彼女と別れた師匠がどんどん落ちぶれていくのがまた印象的。この、師匠を追い抜き、師匠が落ちぶれる、というのもパターンかもしれないですが。

ただ、こ師匠はスパークスが解散した後も芸人を続けるんですね。売れないながらも、辞めない。

主人公に比べて、師匠は非常に破天荒な人で、行動的にも精神的にも不安定に見えます。でも実は、どんなに売れなくても変わらず芸人を続けていっている、という意味では、安定していたのは師匠の方だったのかもしれません。

笑いとは破壊である

ただ、物語の最後の方で師匠が豊胸手術を受けるのですが、これはあまりにも突拍子もないエピソードで、これによって又吉直樹が何を言いたいのか、ちょっとよくわかりませんでした。

師匠の異常性を浮き彫りにしたかったのかもしれないけど、多分、この物語そのものの破壊というのもあったのかもしれません。

やはり、笑いとは破壊という側面もあるので、芸人としての本能みたいなものが出てきたのかもしれないですね。

この「笑いとは破壊である」ということを考えてみるに、そういった意味で、最近のお笑いは、実はあまりお笑いではないのではないか、と思ってしまいます。

特に、最近ではバラエティ番組と言えばトーク中心ですが、それは「楽しい雑談」でしかないように見えます。

それもお笑いだ、と言われればそれまでで、確かに最近の芸人のトーク技術のレベルは極めて高いと思います。笑えればいい、というのもわかります。

ただ破壊こそが、連綿と続いてきた笑いの真骨頂だと思うので、最近の潮流との齟齬がどうにもあるんです。

時代が変わった、と言われればそれもまたそうだとも思います。ただ、最近隆盛のユーチューバーたちを見ると、その多くが何らかの破壊をしているように見えるんです。

一方、楽しい雑談に終始しているテレビはオワコンと言われて久しい。

それを思うと、笑いは破壊である、というのはあながち間違いとは言い切れないのではないかと。

ちなみに、現在ゴールデンを席巻しているクイズ番組に芸人が多く出演しているけど、あれはバラエティ番組としては最も安易な番組で、その意味では最下層であると個人的には思っています。

ついでにテレビという点で言わせてもらうと、メディアの主役の座はネットに奪われましたが、テレビ全体で考えると、まだまだオワコンではないと思っています。

ネット中傷批判

また、物語後半、そしてあとがきも含めて、ネットなどでの誹謗中傷に又吉自身、思うところを叩きつけている感がありました。

個人的には、この話の主人公・徳永の戦いを見た後、何も知らない部外者が心ない一言でスパークスの解散を切って捨ててしまっているのは、やはり非常なグロテスクさを感じてしまいました。

そしてそれは自分の中にもあるものであるんです。思わぬブーメランが返ってきた感じです。

そして思ったのは、やはりこれからの表現者は、受け手側がネットで簡単に誹謗中傷を「発表」できてしまう状況をいかに生き延びるか、というのも大きなテーマであるように思いました。

まぁ、この文章もそうしたネットで簡単に「発表」できてしまっているものの一つなんですけどね。