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僕が買ったもの、観に行った映画・ライヴなど、要は金を払ったものに対して言いたい放題感想を言わせてもらおうというブログです。オチとかはないです。※ネタバレありまくりなので、注意!

「華氏451度」ネタバレ有り読書感想。異質なディストピア小説?!


ディストピアを描いた作品が好きです。

映画とか小説とか、漫画とかでもですね、結構観たり読んだりしてるんですけども。

その中で、「華氏451度」という、名作との誉も高い小説があります。

フランソワ・トリュフォーによって映画化もされ(その時のタイトルは「華氏451」)、おそらくは有川浩の「図書館戦争」にも多大なる影響を与えたと思われます。

でもこの作品、ディストピア小説としては割と異質な小説なのではないか、と思います。

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全体を説明しない

この小説で行われている「出来事」に関しては、割とわかりやすくはあると思います。話の筋としては単純だし、人間関係も割と単純。

でも、具体的な状況の説明がほとんどないんですね。

ディストピア小説って、割と設定が重要じゃないですか。

時代は現在よりも過去か未来か(だいたい未来なんですけど)、場所はどこなのか。そして最も重要なのは、どのような社会形態でどのような暮らしが営まれているのか。

そういうのが、割と長い尺を取られて説明されたりします。設定厨の僕としては、そういうの読むのが大好きなんですけど、人によっては「説明が長い」と敬遠したりもして、まぁ、そこらへんは賛否両論なのですが。まぁ、ディストピア小説の醍醐味の一つではあると思います。

ところがこの小説では、舞台となる国の社会状況の詳細、全体像はほぼ語られていません。

大統領選挙があるらしいことは、会話の中からわかるのですが、その大統領がどれくらいの権力を持っているのか、どういう政治体制なのか、ハッキリと語られませんし、正確にはわかりません。

戦時中であるらしいのですが、どこの国と交戦中で、今現在どういう戦況なのかもわかりません。徴兵制があるのかどうかは、もちろんわかりません。

とにかく、どういう社会なのか、その詳細は語られていないんです。

というのもですねー、三人称小説ではあるのですが、小説全体を通して主人公・モンターグ個人の目線を徹底して追っているから、というのがその主な理由の一つであると思います。

個人の目線でしか描写しないから、全体的な状況がわからないんですね。

三人称小説だったら、パッと視点が変わって、例えば政府高官たちの会議の場面になって、今現在どんな状況か、彼らの思惑はどうか、などなど全体的な状況を説明することできるじゃないですか。

でもこの小説は、それしないんです。三人称でありながら、徹底してモンターグの周囲のことしか描かないんですね。

この「全体を描かない」という点で、ディストピア小説としては異質だと思うんです。

ディストピアものって、その主人公が置かれている状況、全体が、先ずは何よりも大事じゃないですか。でも、この「華氏451度」では個人を延々とフォーカスしていくっていうのが、非常に特徴的だと思います。

なぜそんな作りをしたのかっていうと、個人的な予想としましては、この作品のテーマの一つが「本」だからだと思うんです。

本を読む、ってすごい個人的な行為じゃないですか。例えば、テレビとかだと家族とか友達とかと一緒に見れますよね。でも、本は…やってできないことはないですけど(笑)結構厳しいですよね、同時間的にシェアするの。

だから作品の形態としても個をひたすら追っていくというスタイルを取ったのかな、と。

あとは知識と思考ですね。知識と思考を取り戻す、ってのもこの作品のテーマの一つだと思うんですけど、これらも個人的なことですよね。だからやっぱり、個を追っていくスタイルじゃないと成立し得ない作品だったのかな、と思ってしまいます。

強力な管理がない

ディストピアものって、大体徹底的な管理体制があって、その息苦しさ、出口の見えなさから、主人公が逃げ出したい、っていうのが醍醐味だと思うんです。

でも、「華氏451度」では、そこまで強力な管理はされていないみたいなんですね(なんせ全体がわからないので「みたい」としか言えない)。

確かに、本を持ってると、徹底的に家探しされて、本を燃やされて、逮捕されてしまいます。

でも、それ以外は、特段管理されている感じはありません。現在の民主国家とあまり変わりがないように見えます。

でも、ゆるーく管理されてるんですね。これが怖い。

学校は詰め込み式の記憶させる科目ばかりで、思考力を伸ばすものはないみたいです。

「余暇」の時間がなくなっているようです。仕事後の時間はあるのですが、プライベートな時間ではゲームをしたり、「壁」と呼ばれている(多分)テレビを見たり、とにかく自ら思考するような時間を持たなくなっています。

家の建築には、ポーチがいつのまにかなくなり、庭もどんどん狭くなっていっているようです。なぜなら、ポーチに座ってると、色々考えるじゃないですか。同じように広い庭で佇んでると、やっぱり考え事に耽るじゃないですか。

てなことを、モンターグが出会う登場人物たちが言うんですね。要するに、人々から考える力、考える習慣を奪ってしまおう、という、多分「政策」らしいんですね。

これらの政策って、別に特段強要してるわけでもないですよね。管理されてるといえばそうですけど、割とゆるいですよね。

でも、これが怖いんですよね。なぜなら、ゆるいから自分たちが管理されてることがわからないんでしょうね。

ここが、他のディストピア小説と違うところで、他のディストピア小説と比べて怖いところだと思います。

だから、みんな知らず知らずのうちに、自分たちを縛っていくように行動していってるんです。夫と話をするより「壁」(多分テレビ)を見たり、一生懸命詰め込みの勉強してみたり。

あとは密告ですね。モンターグが本を持ってる、ってことを密告したのは妻なんですね。

多分これは、お互いがお互いを監視してるんでしょうね。信頼していたはずの人間が実は政府の手先として振舞ってしまうという。

ゆるーく支配されて、人々も知らず知らずのうちに自ら支配されることを望んでいくという。

非常に怖いですね。

昇火士隊長が不可解

主人公・モンターグの上司のベイティーという人がいるんですけどね。この人が不可解で。

先ず、焚書を行う昇火士のくせに、やたら本に詳しい。実は本を読みたがっている、本を所持しているモンターグなんかよりも全然詳しい。まさに博覧強記という感じ。

そのくせ「本なんて下らないし、悪だ」みたいなことを言うのですが、本は素晴らしいと言っているように聞こえてしまうんです。

また、政府の政策をかいつまんで説明したりもするのですが、これは相当ヤベー政策してやがんな、ということがわかる感じなんです。

作者の言いたいことを悪役に言わせる、という手法は割と王道だと思うのですが、このベイティーもまさにそんな感じなんですね。

ただ不可解なのは、ベイティーが言ってることは主人公が薄ぼんやりと思ってる本の魅力について、明確な形を与えるようなことなんです。つまり、昇火士という立場の人間が言ってはいけないような内容なんですね。もちろん、本を否定してはいるのですが、取ってつけたように否定しているというか。

思うんですけど、ベイティーは実はモンターグになりたかった人だったのではないかと。

本当は本を焼きたくはなくて、本の読める社会にしたい。でも、それを諦めてしまって、その思いをモンターグに託したのではないかと。

モンターグは逃げるためにベイティーを焼き殺してしまうのですが、後になってモンターグは、ベイティーが自分に焼き殺させようとしたのではないか、と気付くんです。

ベイティーはこの世界に絶望し、そしてモンターグを逃すために焼き殺させたのではないかと。

ひいてはベイティーはモンターグのように逃げて、本をつなげていきたかったのではないかと、思うのです。


 

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