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僕が買ったもの、観に行った映画・ライヴなど、要は金を払ったものに対して言いたい放題感想を言わせてもらおうというブログです。オチとかはないです。※ネタバレありまくりなので、注意!

「鬼滅の刃」第十七巻ネタバレ有り感想。今回は色々と考えさせられる巻!!


鬼滅の刃」全巻感想というこのマラソン企画。今回は第17巻です。

今回遂に、第150話に到達! これもね、第100話に次ぐマイルストーンではないでしょうか。

そしていよいよ物語も更に佳境に入っていく感があります。

鬼殺隊と鬼との戦いが同時多発で展開され、それが鬼舞辻との戦いへと集約されていくようであります。

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やっぱりしのぶさんは…

前巻の感想で予想した通り、胡蝶しのぶは上弦の鬼の第2位の奴にやられてしまいます。

フラグが立ちまくっていたとはいえ、あのいけすかないイケメン鬼、しかも姉の仇である鬼に、まるで歯が立たず、あまつさえ、最後は鬼の中に取り込まれてしまう、という屈辱以外の何ものでもない結末を迎えてしまいます。

ある意味、朝日が昇ったので食われることは免れたお姉さん以上に無残にやられてしまったと言っても過言ではありません。

仇を討つどころか、返り討ち以上の仕打ちを受けてしまったのです。

いやー、なんというか、性格悪いなぁ、吾峠呼世晴(苦笑)

ただ、ですね。多分、いやほぼ大方、いや十中八九、いや確実に、絶対、この上弦の第2位はカナヲにやられると思います。

どういう風に倒すのか。それは勝つのか、相打ちなのか、わかりません。

しかし、間違いなくカナヲはこのいけすかないイケメン鬼をやっつけます。

なぜなら、フラグは立っているからです。

先ず、カナヲはしのぶさんの継子である。柱が勝つのであれば、継子の存在は必要ありません。

そして、しのぶさんはカナヲにあの鬼の倒し方を伝授しています。

そして何より、しのぶさんはカナヲさんに何やら手でサインを送りました。多分、鬼を倒すための重大なヒントでしょう。

更に言ってしまえば、カナヲ以外に胡蝶姉妹の仇を討つべき人はいません。

これはもう、絶対に、絶対に、カナヲが勝ち名乗りを上げます! つーか、上げてくれ。

善逸の話

前巻で何やら秘めたる動きのあった善逸ですが、その秘密が明らかになります。

善逸の育手の一番弟子、善逸の兄弟子でもある獪岳という鬼殺隊員が、こともあろうに鬼になってしまったんですね。しかも、自ら望んで。鬼に土下座までして。

まぁ、この獪岳の話をすると、結局自己顕示欲の塊みたいな子だったようです。そして、元々の属性としても悪というか。

というのも、悲鳴嶼さんが鬼殺隊に入ったきっかけとなった事件の張本人、つまり、悲鳴嶼さんの寺に鬼を招き入れた子供がこの獪岳だったのです。

しかも、悲鳴嶼さんの禁を破り夜外に出歩いたのは、他の子供達に追い出されたからです(悲鳴嶼さんはそのことを知りません)。何でかって言うと、お金を盗んだから。……。

ね?悪でしょ?

鬼と共闘して悲鳴嶼さんや子供たちを殺そうとし、挙句強さを手に入れるため自ら進んで鬼になる。そして泥棒である。もう最悪ですね。

そんな、鬼と因縁というか繋がりのある獪岳がなぜ鬼殺隊に入ったのか、ちょっとわからないのですが、多分、彼の自己顕示欲の強さ故だと思います。

強くなってみんなに認めてもらいたい。その一心で、強さを求めて、強くなるべく鬼殺隊に入った。そう考えると納得できます。

事実、鬼になって善悪の判断もつかなくなったか?と善逸に問われた時、「自分を認める者が善、認めない者が悪」と即答していました。まさに自己顕示欲の塊。彼の所業からすると、それは鬼になる前からそうだったと考えるのが自然です。

マジでクズです。この獪岳自身に関しては特にドラマもありません。この漫画って、なんか鬼によってその扱い方が全然違いますよね。

心ならずも鬼になってしまった、違う人生を歩んでいれば鬼にならずに済んだ、そんな同情の余地のある鬼、「人としての」鬼も数多くいました。

一方で、同情の余地を一切拒むかのような、生まれながらにしての「鬼としての」人、なるべくして鬼になった、という鬼もいます。

なんか、この違いの容赦のなさは、まぁやっぱり女性作家ならではの感じがします。

女性って、もう受け付けない時は全く受け付けないじゃないですか。「私、あの人ダメなの」とか言って。理由を問うても、これといった明確な理由はない場合もあります。

受け付けないものは受け付けない。ダメなものは一切ダメ。そういった女性の残酷性っていうんですかね、そういうのが如実に表れている感じがします。

そして、その獪岳のせいで、鬼を倒さなければならない鬼殺隊から、よりにもよって鬼を出してしまったことにより、師匠である育手の爺ちゃんは責任を取るため、介錯もつけずに腹を切って自害してしまいます。

そしてその爺ちゃんは善逸の師匠でもあるわけです。

善逸が怒ったのは自分のためじゃない。人のためだったんですね。

なにかこの善逸という人も不思議な人で、普段は割とエゴ丸出しの、自分が可愛くて仕方がない感じの人なんだけど(この人の場合は、むしろその感じが面白いし、愛らしい)、そのくせどこか自分が希薄な印象があります。

本気で怒る時は人のためだし、鬼殺隊で頑張っているのも、どうも育手の爺ちゃんのためのような気がします。

鬼殺隊なんて、命がいくつあっても足りないようなところですからね。それなのに、爺ちゃんのために頑張ってるように見える。

そんな善逸なんですけど、めちゃ強いです。

急遽の穴埋めのためとはいえ、上弦になった獪岳相手に、苦戦する場面もあるものの、実力的には圧倒している感がありました。

速さに関しては上弦が全くついてこれないくらいの速さです。

最後は自分で開発した七番目の型で一刀のもと鬼の首を斬ります。

そう、壱ノ型しか使えなかった善逸は密かに開発していたんですね。

それも獪岳と肩並べて戦うためです。善逸は一番弟子の獪岳に並べるように、技を開発していたんですね。実はめちゃ努力家なのです。

この「肩を並べる」というのがポイントで。「追い抜く」ではないんです。「並べる」んです。

実は善逸は、こんなクズな獪岳ではありますが、心から尊敬していたんですね。努力もしてるし、ひたむきでもある。

ところが、その獪岳は師匠の仇になってしまったわけです。師匠の仇を討つために尊敬していた兄弟子を倒す。

善逸の心根はいかばかりだったでしょうか。

善逸は強いです。確かに強くなりました。でも、ひょっとしたら人間、自分の強さに気付かない方が幸せな人生なのかもしれません。

産屋敷のお館様も言ってましたが、鬼がいたから強くならざるを得なかった。強くなるためには悲しい理由があります。悲鳴嶼さんなんかはその典型だし、そもそも炭治郎がそうです。

だとしたら、自分の強さに気づくことなく過ごせる方が幸せな人生であると言えるような気がします。

あとですねー、さんざん獪岳のことをこき下ろしましたが、この人、誰に似てるかと言ったら俺なんですね。

他人に認めてもらいたくてしょうがない、ってのは、割と誰しもあるんじゃないでしょうか。御多分に洩れず、僕もそういう傾向は、まぁ割と強めだと思います。

なんで獪岳見てイライラするのかっていうと、自分に似ているからかもしれません。

自分の、ダメで醜いところを見せつけられているよう、というか。

ただ、認めてもらうために鬼相手に土下座までする気概があるだけ、獪岳の方がマシかもしれません。

まぁ、そんなこともあって愈史郎の、欲しがってばかりいる奴は自分では何も生み出せないから何も持っていないのと同じ、という言葉は割とキツいですね。

時折、「鬼滅の刃」って、こういう教訓めいた名ゼリフが牽制球のように来ますよね。

義勇さん急激成長はスポーツのよう

また、この巻では義勇さんの戦いもあるのですが、超強敵である上弦の第3位を前にして急激に成長するんですね。そのことを本人も自覚して。

これ、なんかに似てるなー、って思ったら、スポーツ選手のインタビューとかドキュメンタリーとか見ていて、たまに出てくることなんです。

例えば、日本シリーズなんかそうみたいですね。

ああいう、その年の優勝を決める大一番ってのは、各リーグのチャンピオン同士のぶつかり合いじゃないですか。当然相手も強い。

そういう短期決戦の強敵を相手にすると、選手がその試合中に急成長することはよくあることらしいです。

だから、戦いの中で成長していく描写は、なるほどなぁ、って思いながら読んでいました。

弱者は悪、という思想は相変わらず

でも、この義勇さん。弱者は悪である、という思想は相変わらずです。

強くなった炭治郎を見て、出会った頃を思い出すんですね。あの時はただ俺に土下座するしかなかったお前がよくぞこここまで云々、って感じで。

やはり弱いということは悪である、という思想が垣間見れます。

そして、その後のシーンで煉獄さんの弟である千寿郎くんが仏壇に向かって必死になって祈っています。義勇さんの考えだと、この千寿郎くんの態度も悪となってしまうのでしょう。

逆に、そんな千寿郎くんもいずれは強くなって戦うようになるのでしょうか。

人の決定は自分の意思ではなく、脳が既に行なっている

上限第3位の鬼との戦いの中で、炭治郎と義勇さんは徐々に窮地に陥っていくんですね。で、その最中、炭治郎は炭治郎の親父さんとの会話を思い出すんです。

炭治郎の親父さんはヒノカミ神楽を踊る時の極意のようなものを教えてくれます。

ヒノカミ神楽は日没から夜明けまで踊り続けるという大変過酷なものです。これを踊る時、覚えたての頃は、なんせ色んなことを覚えなくてはいけないので、動きや感覚の全てを拾わなければならないそうです。

それこそ、体の血管ひとつひとつまで認識するくらい自分の体を意識するそうです。

それが、一通り覚えて吸収した後、必要でないものは削ぎ落とすそうです。

多分、炭治郎の親父さんが言うところの「透明な世界」とは、この必要なものだけを使っている状態であると言えると思います。

思うに、「意識」というのが問題なのかもしれません。

以前、NHKで放送していた織田裕二司会の身体についての番組があったんですけど、その中で、人は自分の意思で行動していると思いがちだけど本当は意思の前に脳が決定しているらしい、ということを言ってました。

自分の意思で決めているのは錯覚らしいのです。脳にそう思い込まさせられているというか。

で、その際面白いことを、誰だか博士が言ってたんですけど、人間意識している時は大抵上手くいっていない時だ、っていうんですね。

自然な、無駄のない行動というのは、よくよく考えたら意識なんてしていません。

例えば、朝起きたら、気付いたら歯を磨いて顔を洗っていた、なんて経験はないでしょうか。習慣化、というやつですね。

習慣化した動き、って無駄な動きなくないですか?

よく考えれば、「意識しなくちゃできない」ってことは、結局その人のモノになっていない、とも言えるわけで。

だから、ヒノカミ神楽でいうと、意識して動いているうちは無駄な動きも多い、ということなのだと思います。

そして、その習慣化された状態を「意識的に」開いたり閉じたりできるのが「透明な世界」であるのかもしれません。

無意識の領域を意識的にコントロールする、という、とんでもない神業なのかもしれません。

回り道が最短距離

そんな神業の領域なんですけど、炭治郎の親父さん曰く、力の限り?いて苦しんだからこそ届くのだそうです。

なんとなく、以前見たイチローのインタビューを思い出してしまいました。

インタビュアーの稲葉が、最近は知識も多いので最短距離で辿り着ける可能性はあるのではないか、と問うたところイチローは即答で「無理ですね」と返しました。

そして、(辿り着けないけど、仮に)全くミスなく辿り着いたとしても、深みは出ないですよね、と続けます。

イチロー曰く、遠回りはすごく大事、無駄なことは結局無駄じゃないっていう考え方はすごく大好き。

もちろん、無駄なものに飛びつくのではなく、その時は最善だと思って取り組んでたけど後から考えたら無駄だった、ということなのですが。

思うに、炭治郎の親父さんが言った「力の限り?いて苦しんだ」というのは、この無駄な遠回りのことなのかもしれません。

そして、そうして辿り着いた場所が「透明な世界」なのかもしれません。

それはイチローの言った「深み」と、何か相通ずるようなものがある気がするのです。

炭治郎の石頭

それにしても、この巻で特筆すべきはやはり炭治郎の石頭でしょう。

生身の人間が、上限の鬼、しかも第3位の奴にヘッドバットかまし、「いい頭突きだ」と言わしめます。

とても人間業のヘッドバットとは思えない!

炭治郎、頭の硬さではワールドクラスですね。色んな意味で。


 

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