azzurriのショッピングレビュー

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僕が買ったもの、観に行った映画・ライヴなど、要は金を払ったものに対して言いたい放題感想を言わせてもらおうというブログです。オチとかはないです。※ネタバレありまくりなので、注意!

「鬼太郎誕生 ゲゲゲの謎」ネタバレ有り感想。日本という地獄を描いた超骨極太アニメ映画!!

 

「鬼太郎誕生 ゲゲゲの謎」を観に行きましたー! もう一月の話になりますがw

結構周りの評判も良くて、個人的にも行きたいと思っていた映画なのですが、いや良かった! 素晴らしかった!

なんだか、なんとなく、腐女子どもが自分たちのくだらない欲求を満たすコンテンツみたいになっちゃってますが、全然そんな作品じゃないですからね! 頭おかしいのは腐女子ですから!

もっと硬派な、超骨極太な戦後から現代まで続く「日本という地獄」を描き切った、ある意味での歴史絵巻! それが、この「鬼太郎誕生 ゲゲゲの謎」なんです!

 

 

予告編

youtu.be

 

冒頭、若干の不安点

ただですねー、冒頭にね、ちょっと不安になった点が散見されまして。

結構説明セリフが多かったり、猫娘のキャラデザが萌えキャラになっていたり…、ちょっと不安w

ただ、それらは最近の流れだと思ったし、特に説明セリフについては全体を観終わって振り返ると、その冒頭シーンの瑣末なところだけでしたね。それに冒頭だから、むしろ必要だったように思います。

で、本編に入ってからは割と肝心なことはセリフは使うことなく、状況なり「セリフ回し」なりで表現していたと思います。

これは「鬼滅の刃」も同様で、割とどうでもいいようなところは最近のトレンドに従って仕方なしに(笑)説明するけど、肝心要のところは「表現」する。なかなか頭の良いやり方だと思うし、それに対応できる上手さも必要だと思います。

伝統的日本的ミステリー

話の要素的には、閉ざされた村だったり、そこの名家だったり、村ぐるみで犯罪を犯していたり、事情に深く関わる者が異形を利用したりされたり、人身御供があったり、という、割とよくある要素だったように思います。

例えば、横光正史の「犬神家の一族」だったり、小野不由美の「屍鬼」だったり、最近の作品でいうと「サマータイムレンダ」だったり、あとは昔多分ヤンジャン(ウロ覚え)かなんかでも村の祭りが猟奇的なもので、村ぐるみで犯罪犯してて、最後は主人公の女性が供物にされた…みたいな漫画が短期集中的に連載されていたように思います。

そういった意味ではミステリー要素も強かったですね。外連味に満ちていて、面白い要素だったと思います。

日本という地獄

ただ、この物語の根本的テーマは日本という地獄だと思うのです。

それは日本を世界と置き換えてもいい。

あと、今回の事件は、結局は経済に絡むことのように思うので、ここ数年よく聞かれる資本主義の限界とか、ポスト資本主義という言葉も頭をよぎりました(まるで詳しくはない…というより、全然知らないですが)。

しかし、よく考えれば、資本主義とは各企業がそれぞれに社会主義をやっているようなものだとも思うんですよねぇ。逆に言うと、そういった資本家の支配からの脱脚を目指した共産主義、その途中過程である社会主義は企業が行なっていた支配の構造を、富の分配というお題目の下に、国という単位で実行したもののようにも思います。

王侯貴族→資本家→国家(→失敗してまた資本家、今は世界企業)という風に形を変えただけで、支配と被支配という構造は延々と繰り返されているに過ぎないのではないか。そのことをこの映画は暗に語っているようにも感じましたねぇ。

大義のすり替え

そしてまた、そういった(特に日本の)権力構造の性質にも言及していると思います。

それは、権力を握った人間は大義を自分の保身にすり替えるということだと思うんです。

この物語の主人公(だと思う)の水木は戦場では上官、哭倉村では龍賀の長女や当主によって、その大義のすり替えの犠牲になった(或いはなりそうになった)と思うんです。

特に、戦場での上官の、部下を犠牲にして自らは逃げるというシーンは、水木しげるが見てきた光景そのものだったのかもしれません。そういった水木しげるイズムといったものも、この映画では脈々と受け継がれていると思います。

ちなみに、似たようなシーンは「いだてん」でも見られました。やはり「いだてん」は骨太な作品だったですねぇ。

元凶とわずかな希望

そして、そういったこの物語の骨子となるものを語っている、それこそ、この物語の肝とでも言うべきシーンがありました。

それは、龍賀の次期当主候補となってしまった幼いトキオという男の子とゲゲ郎が話すシーン。

川上哲治の活躍や、東京タワー建造計画に目を輝かせるトキオに対し、ゲゲ郎は、新しく変えていくことを阻む、保守を望む勢力がいる、そういったせめぎ合いでなかなか前には進まない、しかし、頑張れば大丈夫(ウロ覚え)といって励ます。

これはまさに戦中から現在にまで続く、そして日本という国がここまで傾いた元凶である、日本の権力構造だと思います。

ここのセリフを製作者は一番言いたかった本音ではないだろうか。なぜなら、よく考えれば幽霊族であるゲゲ郎がそんなことを語るのは不自然であるからです。そしてトキオはそんな現状へのわずかな希望であったはずです。

日本を良くすることができなかった悔恨

しかし、その希望であるトキオは、既得権益の象徴である龍賀の当主の妖術にかかって、地獄に落とされてしまいます。

そして、ラストシーン、現代(おそらく、作中のセリフから推定すると2026年)のシーンで、最後に残った狂骨がこのトキオであることがわかります。そして目玉のオヤジ(ゲゲ郎)は、現在の日本は結局良くはならなかった、あの時のままだ、とトキオに謝るのです。

よく考えれば、やはり妖怪の類である目玉のオヤジが人間に対して謝る義理などありません。これはやはり、製作者の言葉なのだと思います。ラストにこの言葉を持ってくる、ということは、やはりこの思想こそが、この映画が作られた動機だったのでしょう。

覆すことのできない上下関係

結局、今の日本は更に勝ち組と負け組、そして上級国民と下級国民に分けられ、戦後の時代よりもむしろ分断は進んでいるかもしれません。

主人公・水木はその象徴として描かれたのかもしれません。なぜなら彼は最後まで、いいように他人に利用されていたからです。戦時中は上官に、戦後は会社に、村に入ってからは娘婿の社長に、果ては沙代にまで、結局は利用されていたのです。

ただ一人、相棒と呼べたのは幽霊族のゲゲ郎だけでした。そのゲゲ郎にしても、龍賀の「M」という麻薬めいた血液製剤に利用されそうになります。妻を探すために必死に桜の木の下の血溜まりに這いつくばる姿は、高台から見物している当主・時貞との構図もあって、まさに支配者に酷使される被支配者といった絵でした。

胸のすく言葉

また、この映画の中で一貫して純粋であったのは幽霊族であるゲゲ郎とその妻だけでした。この二人だけはお互いへの純粋な気持ちを貫いていたのです。

人間族は主人公の水木ですら、ゲゲ郎を騙したり、不純な存在でありました。なんとなく、「ガリバー旅行記」のヤフーを思い出してしまいました。

こういう妖怪モノは大抵の場合、妖怪退治なんて言葉もある通り、悪をなす妖怪を人間が倒す、という構造だと思うんですけど、この映画の場合は真逆なんですね。

黒幕は当主・時貞であり、被害者は幽霊族。その幽霊族に、人間の半端者となった(見えない者が見えるようになった時点で水木は人からはズレた存在になったように思います)水木が加担して、「人間を」倒す話になっています。

この構造は、戦争で人間に失望した(そういう部分もあったかもしれない)水木しげるイズムが、ここでも受け継がれているもののように思います。

しかし、そんな人間に対して、鬼太郎は寄り添うんです。人間のために戦ったりもする。

それはおそらく、そんな暗澹たる状況の中でも、一筋の光を見たい、という心のような気がするんです。

水木を懐柔すべく物質主義を滔々と述べる時貞に、水木が言い放った「あんた、つまんねぇな」は胸のすく言葉でした。


 

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