待望の新海誠監督作品「すずめの戸締まり」が公開されて、観たくて観たくてしょうがない、と行ってる割には、まぁ随分時間が立ってしまったそんなある日。
来場特典に新海誠書き下ろし小説が付いてくるというじゃありませんか。
それは是非とも欲しい。
だって、それって、多分、その時の劇場じゃないともらえないし、新海誠書き下ろしってことは、映画と地続きってことだし、下手したら、それ読まないと本当の意味では映画完結しないじゃん、ってことになって、急いで観に行って参りました。
急いで、と言う割にはそれからまたそこそこ時間が経ってしまいまして、行こうとしていた映画館では既に配布終了の情報が…。更に調べたら続々と配布終了してる。
こりゃヤバい、ってんで、映画館に電話かけまくって、まだ配ってる映画館を調べて、ようやっと行って参りました、「すずめの戸締まり」。
いやもう、素晴らしかった。さすがですね、新海監督。
- 予告編
- 絵が綺麗
- 作りが丁寧
- あなたの人生の物語
- 新海誠が言いたかったこと
- 他に言いたかったこと
- 空に向かって伸びるもの
- よくわからなかったこと
- 要石
- その他雑感
- マクドナルドの絵本「すずめといす」
- 小説 すずめの戸締まり ~環さんのものがたり~
- 小説 すずめの戸締まり ~芹澤のものがたり~
予告編
絵が綺麗
先ずはですねー、やっぱり絵が綺麗! 美麗な絵こそが新海誠の真骨頂ですからね。これを劇場で観るだけでも価値はあると思います。
彼にかかると現実的な街並みも、何かこう、異世界のような美しい世界に切り替わる。
そしてまた不思議なことに、映画という新海誠のフィルターを通して観た後、映画と同じ街並み、例えば新宿とか行くじゃないですか。するとですねぇ、現実の世界まで「あの世界」のように綺麗に見えてしまうんですねー。これこそ新海誠の魔術でしょう!
今回も特に雨とかの自然現象がいちいち綺麗! 雨の雫なんかもう、一粒一粒に虹色を混ぜてきていましたからねぇ。
あと特筆すべきは埃! なぜ埃?と思う方も多いと思いますが、例えば、朝とか窓から射した日の光に布団の埃が反射して、それが案外綺麗だな、って思うことありません? あれです(笑) ああいうところに目が行くのが新海誠の美的センス、そして観察眼、そして表現力ですよね。
そして全体を見渡しても、非常に美しいロードムービーとなっていますよね。特に廃墟を巡る、というのも新海誠はなんだかわかっているというか、オタク気質あるなあと思いますw
なぜなら、そういう廃墟マニアみたいな輩も結構多くいますからね。僕も割とそうだったりしますw 廃墟には何かしら魅力のようなものがありますよね。
おそらくは色々と理由があると思うのですが、多分「隣の異世界」を感じるというところに集約されるように思います。
そこはかつて人が住んでいたところだけど、もうその時代の町とは違う。人が住む場所のようであって違う場所というか。あと、思い出だけが残っている場所というか。うまく言えないけど。
そしてまた、今回は東日本大震災がテーマなので、廃墟となってしまった被災地を想起させるというか、「人の思い」みたいなものは残るという点で共通しているというか。
「廃墟巡り」にはそんな意図があるような気がします。
作りが丁寧
そんな感じで、今回二回観たんですけどね。二回観ると、やはり丁寧に作られているなー、とわかりますね。
特に冒頭からの流れがそうだったと思います。
先ずは幼い頃のすずめが荒野を歩く。そこはビルの上に船が乗り上げていたりして、震災後の世界であることがわかります。そしてこれは東日本大震災の映画であることを観客に宣言しています。
そしてまた、二度目だからわかるのですが、幼いすずめが出会うのは未来の自分であったんですね。それをわかって見ると、ド頭でいきなりクライマックスを見せていた、と同時に観客をミスリードしてもいる。最初観た時は、母親なのかな?と思いました。そう思った人、多いんじゃないかなー。そういった意味で、なかなか上手く、洒落た立ち上がりなのではないでしょうか。
そこから、夢が覚め、それは高校生になったすずめの夢、そして記憶であることがわかります。ド頭の夢オチw それもまた新し…くはないですね、やっぱりw
更にそこから、お弁当を忘れないでね、という環さんのセリフから、二人の関係がうまくいっていないことが仄めかされます。なぜなら、後の「愛情たっぷり」のお弁当のシーンですずめが困り顔になることから、わざといつも忘れていたことがわかるからです。
更にずっと後のシーンでこういう環さんの過剰な愛情を称して、すずめは「重い」と口走ってしまうシーンに繋がっていくのです。育ての親ということで、ついつい愛情を突っ込み気味にしてしまっていたのやもしれません。
そういうキャラ設定もよく考えられているなー、と思います。と言って、すずめは環さんをひたすら疎んでいるわけではなく、むしろ「綺麗な人」と称したり、好き嫌いで言ったらかなり好きである描写も散見されます。
ちなみに、環さんはすずめにブチ切れ、「私の人生返してよ!」と怒鳴るシーンもあるのですが、あそこで二人は本当の親子になれたのかもしれない。そのきっかけにはなったのかもしれない。腹の中のわだかまりをブチまけることで、今後はより親密な関係になっていくのかもしれません。で、ここがね、来場者特典第三弾のプレゼントに繋がってもくるのですが、それはまた後ほど。
それから、すずめと環さんがそれぞれ学校、職場へと出かけるのですが、玄関の鍵をかけ、車の鍵を開け、チャリンコの鍵を開けます。これらの動作が手のアップになり、ガチャッ、ガチャッ、ガチャッとスピーディに切り替わっていきます。
これがまたカッコ良くもあるのですが、タイトルの「戸締まり」をより強く印象づけます。ここまで強調する「戸締まり」って何だろう? どんな意味合いが込められてるんだろう? ということを考えさせもします。それはまた後ほど。
そしてすずめは、海の見える坂道を軽やかに自転車でくだっていきます。それだけでも美しいシーンなのですが、更にはそれに並走するトンビを後方に配する。これにより、朝らしい、実に爽やかなシーンになっていると思います。
ちなみに、この作品では鳥が場を作り上げる役割を担っているように思います。例えば今言ったトンビは希望のシーン、カラスは絶望のシーン、小鳥は美しい日常のシーン、という感じ。そういや、なぜ『ミミズ』にカラスが群がるのでしょうか? そこには特に意味はなく、演出上、見栄えがいいからなのかもしれませんが。
そして朝の爽やかな坂道をくだっていくと、白衣を着たイケメンが…! 白衣みんな好きでしょ?w それプラスイケメンですよ。イケメン、みんな好きでしょ?w 更には、声までかけられちゃいます(道を聞かれる)。
そんなことあるわけないじゃん!wと言いたくなるシーンでもありますが、これは川端康成だと思います。
トンネルを抜けると雪国になっていたり、伊豆に行くと綺麗な踊り子がいたり、そんなことないだろー、という美しいものを描くのが小説であり、映画であるのだと思います。現実には存在しない、でもあったらいいなー、をてらいなく表現してくれるあたり、さすが新海誠と言いたいです。
そして学校のシーンのそのすぐ後に、最初のクライマックスシーンが訪れます。特に細かい状況説明はなく、とにかく事件を起こさせて、これから何が起こるのか、この映画のメインとなる冒険はどういうものか、それをいきなり出し惜しみせず、スピーディに魅せます。
ここらへんの構成も上手いですよねー。細かな説明は一旦事件を解決し、落ち着かせた後、じっくりやればいいわけですから。先ずは事を起こしちゃう。観客を冒険の世界に引きずり込んじゃう。それが肝要かと。
あなたの人生の物語
そして、全体的には、おそらくは新海誠なりの「あなたの人生の物語」をやろうとした、というのもあったように思います。
なぜなら、常世の設定が、過去から未来の時間が全て存在する、というものだったからです。
これはヘプタポッドの時間の捉え方と酷似している、というよりそのもののように思います。
しかも、それを単純に使っているだけに留まらず、物語の根幹を成す重要な要素として使っています。
しかもしかも、新海誠はこの「あなたの人生の物語」という小説、そしてそれを映画化した「メッセージ」の大ファンでもあるのです。小説の帯文まで書いてますもん。僕は小説は未読なのですが、映画は観ました。あれ、大傑作SF映画でしたよねー。そりゃ新海誠も好きになりますよ。
でも、ただ単に「あなたの人生の物語」の真似をしたかった、というのではないと思います(もちろん「俺もああいうのやりたい!」というはあったでしょうが)。
新海誠の表現したかったものが「これを使えばできるかもしれない」というものだったように思うのです。
ただ、未来を知ることによる大まかな全体的な流れは、ちょっと「メッセージ」の方が複雑かもしれません。
「すずめの戸締まり」の方は、絶望から希望へ至る、そのための未来だと思うのですが、「メッセージ」の方は必ずしもそうではなかったように思います。「メッセージ」は未来を見ることによって、希望と絶望を両方とも得てしまうと思うのですが、そこから希望を見い出すというか。
新海誠が言いたかったこと
新海誠の表現したかったもの、それはやはり東日本大震災に被災した子供達へのメッセージなんだと思います。
なんとか生き抜いて欲しいという、そういう願いにも似たメッセージなのではなかったろうか、と思います。
それを、子供の頃のすずめがあの扉をくぐり、過去と未来が渾然一体となった常世に行くことによって、未来の、十七歳の自分と会わせる。未来のすずめは草太さんという好きな人ができて、生きてて良かった、と思っている。そんな十七歳のすずめと会わせることで、すずめに生きようと思わせよう、としたのではないでしょうか。そんな気がします。
一方、そんな過去の自分と出会うことによって、十七歳の今のすずめは、辛い過去の自分と決別し、そして受け入れる、そういうことができたのではないでしょうか。更に未来へと、目を向けることができたのではないでしょうか。
生きる希望というのが恋愛、というのが、個人的には微妙な感じもしないではないですがw、新海誠としてはそうなのでしょう!
であれば、すずめの草太への恋愛は成就しなくても良いのです。恋愛する、そのこと自体が、新海誠的には生きる希望なのだから。だからか、映画の中では成就「しそう」というところで留めているあたりがニクいw ここらへん、新海節炸裂ですねー。「君の名は。」もそんな感じのラストでしたよね。「秒速五センチメートル」に関しては結ばれなかったりしますからw
また観ていて、今回は直接的に、いよいよ東日本大震災に踏み込んできたか、ということを強く思いました。
それまで、震災以降「君の名は。」「天気の子」と、立て続けにディザスター映画を作りました。しかし、明らかに東日本大震災の比喩ではあるものの、隕石衝突、記録的な大雨と、かなり間接的なものだったと思います。
しかし、今回は明白に東日本大震災です。それでも、「東日本大震災」という言葉は映画の中では使わなかったのですが。ギリギリ直接は言及しない、というのは、何か考えがあるのかもしれません。
思うに、新海誠は東日本大震災によって、相当に傷ついたのではないのでしょうか。震災当時、スピッツの草野マサムネが震災の映像を見て精神的にやられてしまったことがニュースで流れたことを覚えています。繊細で鋭い人ほど、受ける影響は大きくなる。
新海誠は作品を作ることで、自分なりのけじめをつけようとしているように思えてならないのです。けじめとは何か。ひょっとしたら、この映画で新海誠は自分なりの犠牲者への弔いの言葉を言いたかったのかもしれません。それは、十七歳のすずめが、子どもの頃のすずめに言った言葉、あれがそのままそうなのではないか、と思うのです。
また、この映画の中では印象深いシーンがあります。それは芹澤が被災地の景色を見て、「ここ、こんなに綺麗なところだったんだ」と言うのです。
それに対し「ここが、綺麗?」とすずめは気色ばみます。芹澤の部外者的発言に当事者のすずめはキレるのですが、逆にこの芹澤の発言は、被災地にプラスの意味合いを乗せようとしているのではないか、と勘繰ってしまいました。または復活してきているんだ、という思い。そういうものを乗せているような気がしたのです。
震災というマイナスなイメージのついた場所ですが、元は美しい場所であり、それを取り戻しつつある、という思い、或いは希望なのかもしれない。
当事者からすれば思い出したくもない場所かもしれないけど、しかしそこは元の魅力的な場所に回帰しつつあり、ある意味で許してあげて欲しいという思いがあるのかもしれない。うーん、うまく言えないけど…。いやあ、うまくないなぁ。
とにかく、「秒速五センチメートル」でも感じたことですが、新海誠は人生やこの世界に対して、やたら前向きなところがあると思います。
そして物語は新海誠の願いのような心の叫びと共に大団円を迎えるのですが、やはりすずめのセリフが良かったと思う。幼いすずめに「お姉ちゃんは誰?」と聞かれ、一瞬逡巡した後に、「あなたの明日」と答えました。
これが良かったですねぇ。未来、じゃないんです。明日、なんです。これが良かった。
他に言いたかったこと
で、この映画、実は他にも新海誠が言いたかったことがあるのではないか、と思いました。順を追って話していきましょう。
戸締まりとは何ぞや?
先ず、映画の最初の方のシーンから。すずめが目を覚まして、朝の家のシーンになります。そこから出かける時間になり、さっきも言ったように、鍵を開けたり閉じたりするシーンが連続して続くのです。
タイトルの「戸締まり」を印象付ける、それこそ印象的なショットの連続なのですが、じゃあ、こうも強調する「戸締まり」とは何なのだろう? タイトルの「すずめ」じゃないんですね、「戸締まり」の方なんですね、強調してるのは。
思うにそれは、災いから守る、その予防線、ということのように思います。そしてその予防線とは何か? 何から守るのか? そして誰がその予防線を張るのか?
更に映画の時間を遡って、ド頭のシーンを思い出してください。さっきも言ったように、東日本大震災の後の世界が描写されています。この映画は東日本大震災について描いた映画だ、という宣言でした。
だとするなら、この予防線とは災害に対する予防線であることがわかります。それに対するできうる限りの備え、それが「戸締まり」に込められた意味なのかもしれません。
東の要石を抜いたのは誰だ?
そして色々と大冒険があり、出会いと別れがあり、遂にすずめの旅は草太さんの住む東京へと行き着きます。
そこで東の要石が抜けてしまうという、未曽有の事態に出くわします。これがこの映画の最初の大きなクライマックスになります。
ここで不思議なのは、どうして東の要石が抜けてしまったのか、ということです。
ダイジンが抜いたわけではないと思います。ダイジンは西の要石です。その西の要石には、自分の代わりに草太さんを当てがおうとしていました。その意味で、東の要石に用はないはずです(まぁ、東の要石が抜けたことを利用しようとはしましたが…)。
また、自分が抜けたことによるその影響で、後ろ戸になってしまった場所が幾つか出てきてしまったわけですが、そこにすずめと草太を案内してたことが、物語最大のクライマックスの際に判明します。
つまり、ダイジンは職場放棄しつつも、『ミミズ』を封じる手助けはしていたようなのです。となると、東の要石を外すということは考えにくい。
そして、映画の最後に草太さんは、人の思いが軽くなって後ろ戸になってしまった扉がまだある、みたいなことを言ってました(ウロ覚え)。
つまり、人の思いが重しとなって、後ろ戸になることを防いでいた、と考えられます。
逆に言うと、要石は人の思いが軽くなると抜けてしまうものなのかもしれません。
しかし、東の要石は東京にありました。人はたくさんいます。何なら、日本で一番います。人の思いは重すぎるくらいです。
そんな東京で東の要石は抜けました。
東の要石の場所はどこだ?
そして殊の外大きな問題となるのは東の要石の場所です。
東の要石はどこにあるのか?
その場所を探るため、草太さんのアパートで古い文献をすずめと椅子は調べまくります。しかし、肝心な要石の場所が書いてある箇所は全て黒塗りとなっていてわかりません。
どうしたことだ?
そりゃわかるはずはありません。
なぜなら東の要石のある場所は、神聖にして犯すべからざる場所である皇居の下にあったのですから。
映画内でもハッキリと「皇居」と口にされることはありませんでした。しかしバッチリ絵で表現していましたよね。
すずめが地下に取り残された時、ここはどこだ?とスマホの地図アプリを開きます。そして、一瞬そこが皇居であることが映されるのですが、すぐに電池が切れてしまいます。あたかも隠すように。
そしてすずめが地下を脱出し、路地裏から地上に出ると、そこは皇居のお濠の前でした。あの皇居ランナーがいつも走ってるところです。
なぜ東の要石は皇居の下でなくてはならなかったのでしょうか。
皇居とは、もちろん天皇のお住まいです。そして、元は江戸城でありました。古くは天皇は公家の、そして政治の中心でした。江戸城は武家の頂点、将軍の住まいであり、もちろん武家政治のトップでした。
おそらく、天皇の住居にして元は江戸城である皇居とは、公家と武家の、つまりは日本の政治の象徴という風に見ることができると思うのです。
つまり、東の要石の場所として皇居が選ばれたのは、政(まつりごと)の象徴、比喩として選ばれたように思うのです。
なぜ東の要石が抜けたか?
そして話を戻しますが、人が多いはずの東京で東の要石は抜けました。誰が抜いたわけでも、どうやらないようです。なぜなら、それっぽい、怪しい登場人物はいないのですから。
ということは、人の思いが軽くなったから東の要石は抜けた、と考えるのが自然かと思います。
では、日本で人口が最も過密している東京で、「人の思いが軽くなる」ということはどういうことでしょうか。
東京とは日本の経済の中心です。そして何より、政治の中心であります。
そんな場所で人の思いが軽くなること、それは政治が機能していないということに他ならないのではないか。
政治を行うのは代議士です。代議士。代わりに議論する人。代わりなんですね。じゃあ誰の代わりか。もちろん、我々国民一人一人です。
つまり、代議士とは、国民一人一人の思いを、代わりに議論する人、ということです。
そして、東の要石は政治の象徴である皇居の下にありました。
人々の思いが軽くなって東の要石は抜けた。つまりそれは、国民一人一人の代わりである、代議士の思いが軽くなった、ということを意味しているように取ることもできるのではないでしょうか。
この映画は冒頭で、東日本大震災についての映画である、ということを明白に宣言しています。
それを思い出すと、東日本大震災以降の日本の政治に対する批判が、その裏のテーマとして隠されていたのではないか、と思われるのです。
上の方で、タイトルにある「戸締まり」とは災害に対する予防線なのではないか、と書きましたが、では災害に対する予防線を張るのは誰かというと、大きな枠で考えれば、それは行政ということになると思います。
復興政策に問題があったから、後ろ戸が大量に発生し、若者がそれらを閉じて行かねばならなくなっている。そういうことを描いた、という解釈も成り立つのではないでしょうか。
黒塗り
映画の中には黒塗りのシーンが結構出てきます。要石の記述の黒塗り、すずめの絵日記の黒塗り。
その度に登場人物は過去の重要な出来事を知ることができず、困り果ててしまいます。
この黒塗りってのがまたなかなか、香しいですよねw まぁ、お家芸だったりしますからねーw
この映画は一見、ファンタスティックな美しいロードムービーの冒険アニメ、という大衆受けを狙ったもののように見えますが、実のところ、政治的なメッセージを孕んでいる可能性も、あるようなないようなあるやもしれない気が、しないでもない感じですかねー。知らんけど。
空に向かって伸びるもの
僕の中で新海誠の映画といえば、それは空に向かって真っ直ぐに伸びるもの、という印象があります。そういう要素のものが必ずと言っていいほど出てくるように思います。
例えば「雲の向こう、約束の場所」だったらユニオンの塔だったり、「秒速五センチメートル」だったら種子島のロケットだったり。「君の名は。」は変則的でしたが。あれは地上から見て上から下、宇宙から地球へとティアマト彗星の欠片が落ちて来ました。
そして今回、「すずめの戸締まり」では『ミミズ』! あのでっかい赤黒く光る塊です。今まで出てきた「空に向かって伸びるもの」は、多分に希望の象徴のように思われました。少なくとも、観る者にそのような印象を与えていたと思います。まぁ実際はユニオンの塔は兵器だったし、隕石は大災害をもたらしましたが…。
でも今回は明確に絶望の象徴だと思います。新海誠の中で何かが変わったのでしょうか。
よくわからなかったこと
あと、細かく色々わからないところが散見されましたですねー。
すずめのそばには、大体いつも二匹の蝶々が飛んでいましたよね。
でも、あの蝶は一体なんだったのでしょうか?
母親ということも考えられますが、ではもう一匹は?
父親とするのが無難かもしれないけど、すずめが幼い頃はシングルマザーでした。父親の描写は一切ありません。二匹というのがポイントだと思うのですが、それがなんだか、結局わかりませんでした。
あと、草太のおじいさんが要石だった猫にすずめを見守ってくれ、と頼むシーンありましたが、あれはダイジンだったのか左大臣だったのか。
御久しゅうございます、と言ったところから知り合いではあるのでしょう。元は知り合いだった人が要石になったのか。ちょっとわかりませんでした。
左大臣ということで言えば、初めて左大臣が登場するシーン。
すずめの「あなた、誰?」の問いに、左大臣と同時に環さんまでも「左大臣」と名乗りますが、あれは一体なんだったのでしょう? 環さんは左大臣に憑りつかれていた? これもちょっとわからないところですねー。
要石
また、要石とは誰かが生贄になったものなのでしょうか。
であれば、草太の代わりにダイジンが元の要石に戻れ、というのも可哀想な気がします。もちろん、じゃあ草太でいいじゃん、というのも違うと思います。
ちなみにダイジンが可哀そう、とする言説を多く見かけますが、それはまた違うと思います。
なぜなら、ダイジンは職場放棄した上、同意していない身代わりを立てたから。
しかも、東京の人口という犠牲を盾にして、すずめに半ば脅迫するように草太を打ち込ませました。
以上のことを見て「ダイジンは被害者」とは到底思えません。すずめが怒るのも当たり前ですよね。
しかし、生贄は誰でもよいのか?と考えると、別によいのかもしれません。
生け贄というシステムは基本的に残酷で理不尽でありながら合理的でもある。
そもそも、合理的とは理不尽であるものです。なぜなら人情を排し、実用一点張りを突き詰めたものが合理だからです。
しかしそれを推し進めすぎると、策士策に溺れることになりかねないので、ほどほどにした方が良いでしょう。
その他雑感
ちなみに草太くんは「すずめさん」と呼び、芹澤は「すずめちゃん」と呼ぶ。こういう呼び方にキャラも表れてて、なんか、いいですね。
キャラと言えば、道中で面白かったのは、スマホの地図アプリで新幹線での移動速度が速いことにすずめが感動するところ。あれすごくわかる! めちゃテンション上がりました。それに対して草太くんが「そうだね…早いね…」と、半ば呆れ気味にリアクションが薄いのも絶妙。
こういったキャラ作りが今回、殊の外上手いような気がします。
そして旅の途中で出会う大阪のおばちゃん役を伊藤紗莉が演じているのですが、安定の良さですよねー。伊藤紗莉のアニメの声優を聴くのは、あの「映像研には手を出すな」以来。この人の声、ホント好き。
そして、すずめは丸ノ内線の地下から発生した『ミミズ』を、草太を要石にすることで納めますが、その時の『ミミズ』の形が幾何学的で人工的とすら言える綺麗さあったのが、さすがに天候マニアの新海誠だと思います。
以前、石原良純が、美しいものというのはものすごいパワーがある、だから美しい形を作る、だから美しいものに近づいてはいけない、と言っていました。こういったところ、さすが気象予報士ですよね。
自然界の強烈なパワーのあるものの多くは美しい。それをわかっている描写のような気がしました。
マクドナルドの絵本「すずめといす」
今回、映画にちなんだスピンオフ的な本が色々な形でプレゼントとして配られました。
まずは、マクドナルドのハッピーセットのオマケである絵本「すずめといす」です。
これは欲しかった! 新海誠原作だし、しかも絵は俺の好きなイラストレーター・海島千本! このニュースを知った時は、是非とも手に入れなければ、と半ば使命感にも似た思いを抱きました。
でも、おっさんになってハッピーセットは、なかなかの勇気が必要です。それこそ、CMの神木くんのようにw いや、神木くんなら全然オッケーだけどw
でもまぁ、なんとか恥を忍んで欲に忠実に買ってきましたよ、ハッピーセットを。でも、ヨーグルト美味かった。
で、内容の方なのですが、なんということもない話のようにも思うのですが、映画を観た後だと、まだすずめと母親が一緒に暮らしていた時の話を見ることができたのは、嬉しくもあり、悲しくもあり。
そしてその後、このいすが草太くんとなって動き、喋ることを思うと、なんというか、感慨深いですよね。
どうでもいいですが、草太くんが椅子にされてしまうのもポイントですよね。このイケメンが可愛い椅子になるっていう面白さ。
椅子のくせにセリフの一つ一つがイケメンぶっていて、そのギャップが可愛らしいw
しかも、最後、要石になっている重要なシーンでも、もちろん椅子のままです。ここ観てて、なんというか、絶妙な脱力感を感じてしまいましたw
そしてもちろん、この椅子というのがポイントで、これはすずめの母親との最も強い絆であるからです。
そして、この椅子と旅をするということは即ち、母親との失われた時間を旅することでもあったと思うし、更には擬人化されたこの椅子と話し、行動するという、幼い頃のすずめの夢が叶った瞬間でもあります。
やはり草太くんには悪いけど、彼は椅子になる必然性があったのです。
そしてやはりこの絵本は、親子の絆が描いていて、そこも嬉しい。
やはり料理というのは家族の絆の象徴であるのだと思います。またまたBUMP OF CHICKENの「魔法の料理」を思い出してしまいました。
小説 すずめの戸締まり ~環さんのものがたり~
そしてスピンオフ本の第二弾は、映画来場者プレゼントの第三弾でありました。なんと、環さんを主人公とした新海誠書き下ろしの小説。
これも欲しかったー! もう、映画館にね「まだ在庫ありますか」と問い合わせしちゃったりしてね。その甲斐あって、無事ゲット!
でもまぁ正直、映画監督が書いた小説ということで、ちょっと高を括っていたところもありました。以前買った河瀨直美の小説がひどかったですからね。
一方で、それまでの映画の小説化がどれも大ヒットしていたこともあったので、期待していた部分もまたありました。で、読んでみたら、後者の期待が当たりました。
先ず文章が良い。普通に小説家としてもやっていけそうなくらい。
あとやはり、人物の描き方も良かったと思います。環さん、そしてすずめの心の傷が、(こういうと偉そうだけど)上手く表現できていたと思います。
多分、環さんとすずめは同じなのだと思います。
環さんにとっては姉、そしてすずめにとっては母親、その立場は異なる同じ人を失った、同じ悲しみを背負った二人。
思うに、依存していたのはむしろ環さんの方だったかもしれない。その一方、環さんなくしては生きていけないすずめもまた、生活的には環さんに依存している。
そしてまた、映画中で環さんはすずめにひどいことを言いましたが(すずめもまた環さんにひどいことを言いましたが)、それはやはり本心かもしれないけど、全然本心ではないことが、この小説を読むとよくわかります。
環さんにとって、結婚とか男とかは、すずめの存在によって(それは同時に姉の喪失によって)、二の次のものとなってしまったのだと思います。
もちろん、結婚も男も大事だ。それは間違いなくそうだと思う。だけど、二の次は二の次なのだ。
だから、環さんは独身を貫いたのです。しかしまぁ、環さんがその気になれば染谷翔太がいるから安心して欲しい。
小説 すずめの戸締まり ~芹澤のものがたり~
スピンオフ本の第三弾は芹澤主人公の小説。
環さんの小説が出た時、来そうだなー、と思ってたらハイ来ましたw
腐った人たちに人気だそうで。もうホント、そういうのはどっちでもいいですが。
で、読んでみたら、正直、環さんのものがたりと比べるとぬるい感じはしました。
しかしそれでも、文章はやはり良かったと思います。
コロナの流行を説明する箇所では、あたかもSF小説であるかのような語り口で、そういったところはさすがSF小説マニアである新海誠の真骨頂といったところでしょうか。
あとがきを読んだら、どうやら元々芹澤はそれほどは重要視していなかったキャラであった模様。映画の物語上のターニングポイントに登場する重要な役割を持ってはいるものの、環さんのような思い入れはというと、どうやらそれほどでもないらしい。
思い入れがあり、是非ともスピンオフを書きたい、と思った環さん。そして思い入れはそれほどでもないけど、一部腐女子人気が出てしまったため、必要に駆られて書いた芹澤w
思うに、映画来場記念プレゼントの二つの小説は、そんな感じで対照的な動機で書かれたものだった、と言えるかもしれません。
そういった意味で、作り手側の要請、受け取る側の要請、両サイドから描かれたそれぞれの物語であり、その意味で、映画に更に輪郭を与えるようなものになっているのかもしれません。
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