azzurriのショッピングレビュー

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僕が買ったもの、観に行った映画・ライヴなど、要は金を払ったものに対して言いたい放題感想を言わせてもらおうというブログです。オチとかはないです。※ネタバレありまくりなので、注意!

「ゴジラ-1.0」ネタバレ有り感想。俺が観たゴジラ最恐! ゴジラを使って「映画」を撮った!!

絶対観なくてはいけないと思っていた「ゴジラ-1.0」を観てきましたー。

いや、凄かった。素晴らしかった。

僕の中では「シン・ゴジラ」越えましたねー。あっちはあっちですごく好きだし、スゲエ良くできてるなー、と思うですが、それくらい、今回の「ゴジラ-1.0」が良かった、ということです。

IMAXレーザーで観たんですが、それがまた更に良かったことに後から気づきました。

いうのも、IMAXレーザーだと冒頭のゴジラが原寸大で見れるらしいのです。どうりで迫力が半端なかったわけだ。

というわけで、感想です。

 

やっぱり怪獣映画はIMAX

やはりIMAXだと迫力が違いますねー。

こういうCGをふんだんに使ったSF系の映画はIMAXに限ります。山崎貴VFXゴジラはめちゃくちゃに迫力ありました。

特に冒頭の大戸島に現れたゴジラが一番怖かった! なんでも、冒頭でも言った通り、原寸大だったそうです。そりゃ怖いはずだ。こんなに怖いゴジラは初めてでしたからね。

おそらく、VFX的に、またゴジラという怪獣の演出的にも、ここに一番力を入れていたのではないでしょうか。

というのも、先ずゴジラのサイズが小さい。小さいっつってもデカい。どういうことかというと、リアルなデカさなんです。

人が最も脅威を感じる大きさって、身長10m、せいぜい30mらしいですね。だから、50mのゴジラは実はデカすぎちゃって、背筋も凍るような怖さにはならないんです。

過去ゴジラの影響たくさん

ここらへんは「シン・ゴジラ」を参考にしているように思います。「シン・ゴジラ」は最初の方は小さく、だんだんと大きくすることで、怖さの持続を演出していました。

もちろんゴジラだから、最終的には大きくしなくてはなりません。多くの観客はそれを期待しているからです。50m以上の大きさがなくてはゴジラである意味がない。でもそうすると怖くなくなってしまう。

大きなゴジラを怖く感じてもらうためには、最初に人間が最も恐怖を感じる10mのサイズを見せておけばいいわけなんです。最初に植え付けられた恐怖は、トラウマ的にその後の巨大すぎるゴジラを見ても身の毛がよだつようになる、というわけです。

ちなみに、「ゴジラ-1.0」では「シン・ゴジラ」だけではなく、過去の様々なゴジラ映画へのオマージュがそこここに見られました。それは日本版だけでなく、ギャレゴジへも及んでいましたねー。典子が銀座で電車の中から初めてゴジラを見たショットなんかは、ゴールデンゲートブリッジで子どもたちがバスの中からゴジラを見たショットに酷似していました。

冒頭ゴジラが怖すぎた!

で、この大戸島のゴジラなんですが、「シン・ゴジラ」に比べて、観客への恐怖の植え付け方が格段に上であったと思います。

大きさもリアルな恐怖を感じるものだったのですが、何より怖かったのは下から見上げるカットばかりだったから。間違っても俯瞰でなんか撮らない。これにより臨場感と、なんというか「体験感」が出てくるのです。

俯瞰にしてしまうと一つ冷静になってしまうというか。そんなことはさせないわけです。

それにもちろん、ゴジラの大きさを強調するため、というのもあります。

また、ゴジラの存在感の演出もあると思います。ゴジラとは人間が見上げることしかできない存在。絶対に敵わない存在。そういうことをこれでもかとばかりに見せている。

間近で真上に見上げるゴジラは、IMAXの映像、音響もあって、それはもう本当に怖かった。今まで見たゴジラの中で背筋が凍るほどの、割とリアルな怖さを感じたのはこのゴジラが圧倒的に一番でした。

ちなみに、この時のゴジラの足は恐竜でもありました。しかし、後に銀座に上陸したゴジラは昔ながらのゴジラの足だったと思います。おそらく、大戸島では観る者に恐怖を植え付けたかったため、できるだけリアル志向にしたのでしょう。どうしても、昔ながらのゴジラでは着ぐるみ感が出てしまい、「恐怖する」というわけにはいかなかったかもしれないからです。

あと、世界市場も視野に入れていたと思います。特に欧米史上。というのも、欧米人にとって、科学的知見というのが特に重要だからです。だから着ぐるみ風の足では、彼らにとっては一気に笑いの方への振り切ってしまい、恐怖へとは繋がらないのです。だから、この時のゴジラは科学的知見に立った「リアルな」恐竜の足でないといけなかったのでしょう。

ゴジラに背負わされた業

そしてこの「大戸島ゴジラ」は敷島に業を背負わせる。

敷島が20mm砲を撃たなかった(撃てなかった)せいで、橘を除いた整備隊を全滅させてしまうのです(いや、撃ったところでわからんけど)。

そのことが後の敷島に呪いのように付きまとい、映画全体を覆うこととなります。だから敷島は典子と結婚することもできず、女の子の父親を名乗ることもできません。

これはおそらく、第1作「ゴジラ」の裏設定である、ゴジラとは戦争で亡くなった人たちの亡霊である、ということを踏襲しているように思うのです。

ゴジラとは、大戸島で敷島が見殺しにした亡霊である。また大戸島の夢に何度もうなされる敷島の姿を見て、イーストウッドの「アメリカン・スナイパー」の主人公・クリスを思い出してしまいました。

抗って、生きろ

思えば映画前編では、敷島は他人よりも自分の命を優先させてきたように思います。特攻から逃げ、ゴジラから逃げ、結果論ではあるけれど、典子の犠牲の上に命を救われた。

ただ、それについて、僕は攻める気にはなれません。むしろ生物として自然な姿のように思えます。

そして、野田は「この国は人の命を粗末にし過ぎた」と述べました。このセリフがまた凄かった。あ、言っちゃうんだ、って思います。なんていうか、日本って人を資源にしか見ていないところがありますよね? それはお上だけじゃなくて民間でも。甲子園なんて、すごくわかりやすい例ではないでしょうか。

ラストではゴジラへ特攻するつもりだった敷島はパラシュートで脱出します。これは橘が仕込んだものなのですが、爆弾の安全装置を外したと同時に作動する自動のものではなく、操縦者が手動で作動するものでした。つまり、特攻するつもりだった敷島は自ら生きることを選んだのです。パラシュート脱出を無線で確認した橘が安堵して涙を流すのもまた良かった。

この映画のキャッチコピーは「抗って、生きろ」。まさに、テーマがそこにあったのです。

シン・ゴジラ」との圧倒的な差異

このテーマは先の大戦へのアンチテーゼだけではないと思います。更に言えば、山崎貴は秋津に「情報隠蔽はこの国のお家芸」とまで言わせました。

これは現代にまで通じる批判であり、その意味でこの映画は反戦だけに止まらず、現政府へも批判しているのです。

ここに「シン・ゴジラ」との圧倒的差異があると思います。

シン・ゴジラ」も「ゴジラ-1.0」と同じく、第1作「ゴジラ」のリブートを狙って作られたものでしょう。しかし、「シン・ゴジラ」には第1作「ゴジラ」のような恐怖、迫力はあるけど、批判精神が、ないとは言わないけど、希薄。

いやむしろ、批判すべき国におもねっているシーンすらありました。国会議事堂に集まったデモ隊を非常に批判的に描いていたのがそれです。

あそこで表現したのは、国のために一生懸命頑張っている与党、官僚に罵声を浴びせる無知な大衆、といったところでしょうか。

あのシーンは明らかに反原発デモに対する批判なのでしょうが、あのシーン自体実に取ってつけたようなものだったような印象を受けました。物語上、あれを挟む必然性が何にもないんですよね。

原発には反対する理由はあるけど、ゴジラ対策をする政府に大衆から批判が集まるはずがないからです。

物語全体を通しても、あまりにも無邪気な官僚礼賛が貫かれていますが、むしろそういうところは現実からは乖離しちゃってるよなぁ、というのが正直な感想です。国は何もやってくれないから、と主に民間が中心となってゴジラと対峙する「ゴジラ-1.0」とは全く対照的なスタンスなわけです。

思うに、それがオタクの限界なのだと思います。庵野秀明はオタクの代表のようなところがあるように思います。そしてオタクとは、どういうわけか権力者に従順であろうとする。

聞けば、「シン・ゴジラ」は海外では全く受けが悪かったらしいですが(僕個人的としては、思うところは散見されたものの、全体としては大好きな映画ではあります)、理由の一つに人物が描けていない、というのがあるらしかったです。

しかしそれと共に、この批判精神の欠如というのが大きかったと思います。ゴジラといえば、それはつまり反戦であり、批判精神の象徴なのです。

もっと言っちゃうと、映画をはじめ、舞台、音楽、小説、絵画など全ての芸術表現は権力者への監視、という側面も古くから担ってきました。

それなのに「シン・ゴジラ」はそれとは真逆の、権力側からの視点で描いているわけだから、そりゃ批判精神などあろうはずがない。むしろ精神的にはプロパガンダに近い。だから、海外の人が見ると、「これは映画ではない」ということになってしまったように思うのです。

それに比べ、山崎貴は実に強烈で容赦のない批判精神を見せつけました。ここが一つ、大きな差となっているように思うのです。

ゴジラは手段

また、ドラマ性という点でも、割と丹念にドラマを描いていたように感じました。言ってみれば、山崎貴ゴジラを使って映画を一本撮ったんだと思います。或いは撮ろうとした。

ゴジラが目的ではなく、ゴジラが手段。思えば、ここら辺が他のゴジラ映画と一線を画するところで、あの「シン・ゴジラ」ですらゴジラが目的だったと思います。ゴジラが手段だったのは、第1作「ゴジラ」がそうだったように思います。

あと、「エンタメゴジラ映画」の原点にして一つの到達点となった「キングコング対ゴジラ」もゴジラを手段として使った映画だったように思います。

あれは東宝お得意の社長シリーズやサラリーマンシリーズにゴジラ、そしてキングコングまでをも引っ張り込んでしまった喜劇映画だったと思うんですよね。怪獣映画というよりは、喜劇映画の範疇。

だから、ゴジラ映画最高の観客動員数を誇ることができたのだと思います。怪獣映画ではなく、ちゃんとした「映画」なのです。ちゃんとした映画だから、怪獣オタク以外の層にも訴求することができたのだと思います。

怪獣映画『だから』ドラマが必須

また、そうすることで逆に「怪獣映画」が「怪獣映画」足り得るんです。

映画を丁寧に作るということは、人を丁寧に描くということです。そうすると、ゴジラという鬼神がより怖く、時には崇高に、その存在の異常さが絵空事ではなくなる。怪獣を描くときは人や人の生活を丹念に描かなくてはいけないんです。

そうやって作らないと、単なる絵空事になってしまい、そうなると怪獣は一つも怖い存在ではなくなってしまうので、子どもやオタク以外の人には単なるごっこ遊び、おふざけにしか見えないんですね。良い例がハリウッドの「キング・オブ・モンスターズ」です。あれ褒めてるのガキ(肉体的にも精神的にも)しかいないですからね。

まぁ、怪獣は子どもに人気あるから、子どものために作るのなら、めちゃくちゃに怪獣に強さインフレ起こさせて、怪獣プロレスに終始するのは間違いじゃないんでしょうけど……。

ベタな展開があるも、容赦もしない

まぁ、時折ベタな展開もありますが、そこもまたマスを相手に戦ってきた山崎貴らしい強かさだとも思います。

本来なら、典子も生かしてなかったと思うんですけど、そこはやはりマスを意識したのかもしれないのかな、と。だってやっぱり主人公の相手役が生きていたら、嬉しいでしょ? 割とひねくれた人は「ご都合主義しやがって」って言うと思うけど(それはそれで全うな意見なのだが…)。

ただまぁ、YouTubeで色んな考察動画を見たら、典子が生き残った理由には、とんでもない原因があるようで…。もし、それが本当なら、山崎貴がこのラストを「創作者としての甘さ」と、反省していたのですが、その反省、ウソじゃんw

で、それはそれとして、また、テーマが「抗って、生きろ」だから、やはり典子もまた、大怪我を負いながらも生きなければならなかった、というのもあったのかもしれません。

「抗って、生きろ」ということであれば、敷島の物語以降の人生への暗示もあるように思えました。なぜなら彼はゴジラ放射能火炎の後の黒い雨を浴びているのだから。

彼はあの時、被爆したのです。今回の放射能火炎の威力は過去最大なのではないでしょうか。あれはつまり、原爆なのだと思います。ゴジラとはつまり、生きる核兵器

ゴジラ反核の映画でもあるけど、それを「これでもか」とばかりに描いたのは、今回の山崎貴が一番かもしれない。とにかくこの「ゴジラ」での山崎貴は容赦がなかった。

キャストも最高

また、物語を支える役者陣も良かったと思います。

ただ、神木隆之介の役はどことなく吉岡秀隆を彷彿とさせてしまい、吉岡秀隆が若かったらやってたんだろうなー、と思って見ていました。

若い頃の吉岡秀隆は世間と齟齬のある、悩みを抱える青年役をやらせたら右に出る者はいなかったからです。

と、思ってたら、出てきたアー! まさかの出てきたアー! 吉岡秀隆アー!

あまりにもビビッて、めちゃくちゃ嬉しかった!

事前情報を仕入れないと、こういうサプライズがあるのでやめられない。その後も、吉岡秀隆神木隆之介のツーショット結構あって、もう最高だった。この二人の並びはすごく良かったですねー。

あと、結構、演技がクサいとか、大げさとか、舞台的とか言って批判してる輩も多く見るのですが、全然わかってないですね。

怪獣映画の場合、演技は大げさなくらいが丁度いいんです。

なんせ、相手は怪獣ですからね。圧倒的な絵空事

そこで、例えば是枝裕和的な自然な演技にしてしまうと、そりゃもう怪獣の場面が浮きまくると思うんですよね。

だから、舞台的な、大げさな、非日常的な表現にしていかないと、逆に整合性というか、親和性と言うか、そういうものが取れなくなっちゃうと思うんです。

だから、あの演技的に過剰な演出は正解だったと思いますよ。

ただ、逆に言うと、やはり映画というメディアは舞台とは全然異なるのだなぁ、と一部のそういう意見を見ると、改めてそういう思いを再確認するのでした。

これはおそらく、映画はカメラでグッと寄れるから、より「現実的」なんですよね。対して舞台は、下手すりゃ、座席の一によっては役者までの距離がめちゃ遠くなってしまうので、「自然な」演技をしてしまうと届かない。下手すりゃ、何言ってるかわからない。だから、大げさに、デフォルメして演じないといけないんですよね。

ゴジラも強けりゃ、人間も強い

それでタイトルにある「-1.0」。色んな意味が込められてるそうですね。

その中で一番僕が響いたのは、第1作よりも前の時代を描いたから、という意味。

思えば、初めて戦前を舞台にゴジラが登場したゴジラ映画でした。この発明はやっぱすごい。そしてまた、ある意味での不文律を破るという、禁じ手に踏み込んだのも、なかなかの心意気ですよね。

そしてまた、日本の復興の早さにもまた、この映画で気づかされました。戦後のあの惨状から、わずか二年ほどで街や人が綺麗になっていく。ゴジラの強さもそうだけど、人間の強さをもまた、すごく力強く描いているように思えました。

ゴジラは殺せない

あと、今回のゴジラは第1作「ゴジラ」以来、ゴジラを殺したゴジラ映画だったなぁ、と思いながらエンドロールを見ていたんですよ。

でも、生き返る描写があった。

第1作の時は、なんせ初登場だったので、ゴジラはまだスターではなく、観客の感情移入もなかったと思います。

でも今日、ゴジラはスターであり、アイドルであります。観客の感情移入は十分すぎるほど得ています。世界の大スターですからね。もう、大谷ですよ。

だから、マスを意識する山崎貴には、ゴジラを殺すことはできるはずもなかったのでしょう。

そしてまた、ある意味、ゴジラもまた、「抗って、生きろ」なのかもしれません。

ただ、これも先程の典子の生還と繋がっているらしく、もしそうだとしたら「シン・ゴジラ」ばりのラストショットの恐怖なんですけど。

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