azzurriのショッピングレビュー

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僕が買ったもの、観に行った映画・ライヴなど、要は金を払ったものに対して言いたい放題感想を言わせてもらおうというブログです。オチとかはないです。※ネタバレありまくりなので、注意!

ディズニーリゾート35周年記念アクセサリー「タイムオブセレブレーション!」はグリグリニヤニヤ!!


僕は基本的に、ディスニーリゾート行く時、グッズとかはあまり買いません。

もちろん、例外的に幾つか買ったことはあるんですけど、他のD友みたいに大量購入(もちろん、1商品につき1個です。僕の友達に買い占めとかする人はいません)はしないですねー。

周年イベントの時とかね、CDは買いましたけどね。結構良い曲だったんで。これは欲しいな、と思って。

他には、買っても大体お菓子ですね。それもパッケージ目当てw 缶とかですね。なかなか洒落たものが多くて、小物入れにも使えるし、何より食えるw おいしいんですよね、これがまた。だからまぁ、買うとしたら実用的っちゃそういうものですね。

そんな感じでですねー、そういうお菓子とか茶葉とかコーヒーとか、食えるもん以外はディズニー関連のお土産はあまり買わなかったのですが、珍しく買ったものがあります。しかも非実用的なものw

それは東京ディズニーリゾート35周年という節目を記念したイベントの目玉商品で、アクセサリーですね。その名も「タイムオブセレブレーション!」!

これはですねー、あまりにも僕の心の琴線に触れたんですねー。

スチパン風味

なんでこれ買ったかというと、見た目が結構スチパン入ってたんですね。スチパン、つまりスチームパンクです。

この世界観が好きなんですよねー。蒸気と歯車。存在することのなかった架空の未来図。

レトロフューチャー的でもあり、前時代的でもあり、近未来的でもある。その、なんとも言えない、どこにも属さなくて、色んなところに属している、一種独特の浪漫がいいんですよねー。

ディズニーリゾート関連で言えば、ファッショナブルイースターヒューゴー・ベルジュールなんかはもう、大好きでしたね。

で、この35周年記念アクセサリーは「タイムオブセレブレーション!」と銘打ってる通り、時間がテーマです。35年というその時間を象徴したアクセサリーなんですね。だから、時計がテーマになる。

で、ディズニーの世界観、ってどことなくレトロな雰囲気ありますから、その時計は断じてデジタルではありません。もちろん、ゼンマイ時計です。ゼンマイと言えば歯車です。歯車といえば? そう!スチームパーンクッ! プシューッ!

スチーム全開!

そんな感じで、スチパン好きな僕の琴線に実にグリグリと触れてきたんですね。

僕の友達もスチパン大好きっ子で、「絶対買う!」と鼻息も荒かったんですが、どういうものか、と見た時に「なるほどこれは」と思いました。

全体のフォルムはもちろん、ミッキーフォルム。そしてそれが良い感じにアレンジされてます。

ミッキーフォルムの耳の部分をうまい具合に歯車にしたり、羅針盤にしたり。顔部分のド真ん中にはアラビア数字で「35」。その中には時計のような羅針盤のような針。そしてその針は耳部分の歯車と連動して動くのです。

イヤア、これはいいなア。もう、スチームパンクじゃん! スチーム全開です!

ただまあ、正直、最初は悩みました。買ったところで実用性はないというのが一番のネックでした。

しかしやはり、見れば見るほど欲しい。記念だし。この機会逃したら、もう二度と手に入らないし(記念品というのは、そもそもそういうもんなんですけど)。

で、悩んだ末買いました。ええ。

このスチパン感!

裏はステンドグラス風。もちろんミッキー!


カスタマイズ

で、いざ買おう、という段になったんですけど、いくつかハードルがあるまして。

先ず、一口に「タイムオブセレブレーション!」と言っても、ディズニーランドに売ってるものとディズニーシーに売ってるものとでは微妙に違う。ミッキーの耳部分の意匠がシンデレラ城か、シーの火山か、っていう違いがありますが、なんといってもデカいのが、色味です。

基本的には両者ともゴールドなのですが、ランドはストレートなゴールドで、シーはくすんだゴールドなんですね。この違いは大きい。

で、もうイチも二もなくシーを選びました。だって、スチパンといったらくすんだ金属でしょ? ランドのはもう、キラッキラしてましたからね。これは違うな、と。

で、シーのアクセを買うには当然のことながらシーに行かねばなりません。シーにある販売店に行きますと、第2の関門が待っています。

カスタマイズはどうするか。

このタイムオブセレブレーション!は、ベーシックセットの段階で色々カスタマイズができます。先ず、アクセの裏側がステンドグラス調になってるのですが(これがまた最高!)、それをどのキャラクターの絵にするか、というのです。

これはもう、簡単です。イチも二もなくミッキーです。なんせワタクシ、ミキヲタなものですから。

そしてもう一つ、カスタマイズできるのが文字ですね。表面の時計部分に8文字、任意の文字を入れることができるのです。基本はアルファベットで、それプラス記号もいくつか入れることができます。

これが悩んだ。

どうしようか、うんうん悩み、長考に入ります。しかし、そんな感じでカスタマイズするからには仕上がりまでは結構手間暇かかるため、なるべく早く発注しなければ、その日のうちに手渡してもらえません。

そんな極限の状況下でギリギリまで考え抜いた末、辿り着いた答えは以下の文字でした。


「ミッキーマーク、☆、S、T、A、R、☆、ミッキーマーク」

しめて8文字。ギリギリいっぱい。

で、他にもですね、色々とチェーンだとかトッピングできたのですが、そっちにはあまり魅力を感じず、しかも別料金だったので(それほど高くはなかったのですが)、そこは追加せずに済ませました。

使用方法

そんな感じで手に入れたタイムオブセレブレーション!。

色々アトラクションとかショーパレとか楽しんでいる間に出来上がって現物を手にしたらですね、やはり、まーテンション上がりましたね。

で、このタイムオブセレブレーション!、使用法としてはですね、主に以下のふた通りとなります。

一、眺めてニヤニヤする
二、歯車をグリグリ動かす

今でもですね、机の横に置いてあって、たまに手にするのですが、やっぱいいなぁ、と思って、歯車をグリグリ動かしながらニヤニヤしてます。

これは良い買い物をしました。

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「鬼滅の刃」第二十三巻ネタバレ有り感想。美しくまとまった最終回!!


鬼滅の刃」全巻感想、完走しましたー!(←うまい!)

第23巻、読み終わりましたよー! ようやく、読み終わりました!

一年以上かかってしまいましたねー。やはりブログと連動して、一冊一冊感想を書きながら、っていうのも大きかったと思います。

でも、そうでなくても、特に後半は一話一話の密度が濃く、重かったので、どうしてもバンバン読み進めるというわけにはいかなかったですねー。

なかなか読むにしても体力がいるような、そんな漫画だったと思います。

最初はね、第一巻読み終わった時は、そうでもねぇかな、っていうのがぶっちゃけた話正直な感想でした。

しかし、読み終わった今、真逆の感想となりました。最高だった!

 

最強形態は赤子!

鬼舞辻のこの漫画での謂わば「最終形態」はなんと赤子! しかも巨大な!

なんか、ぶっちゃけ、キモかったですねw

やはり日本では「AKIRA」以来、子供が最強、ラスボスというのはあるように感じます。

また、日の光からなんとか逃れようとしたためのその形態は、ある意味、人間がもっとも生命力に溢れた時の形態かもしれないですね。

そしてまた、鬼舞辻の、どんなことをしても生きてやろう、という執念そのものが、なんというか、生物の生命力を表しているように感じました。

太陽の光から逃れるため、日陰を探し、最後は土に潜ろうとまでします。その、もがき、逃げ、なんとか生きようとする鬼舞辻の姿は生物、生命の象徴のように見えました。

そしてこの赤子に、炭治郎は体の中に取り込まれてしまいます。

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アンチスーパーヒーロー

そしてこの巨大赤子が街を破壊しつつ逃げ惑うのですが、もう怪獣です。巨大な赤ちゃんの怪獣。なんとも不気味で、怖いです。

鬼殺隊総出でなんとか追い込むのですが、柱たちは傷付き、それほどの力は出せません。一進一退の攻防が続く中、赤子に取り込まれた炭治郎が、内側から攻撃。それが引き金となって、なんとか勝利を収めます。

しかし、最後は柱でもなく、主役である炭治郎がきっかけとはなりはしたが、まさに全員で奪い取った勝利だったように思います。

なんとなく、ここにアンチスーパーヒーローというか、最後は「普通の人」(鬼殺隊隊士というだけで特別ではあるのだが)の力の結集というか、そういうものが大事なのだ、という風に感じました。

スーパーヒーローだった縁壱でも倒せなかった(逃げられた)強大な敵を、結集した皆の力が倒したということに、大きな意味があると思います。

だから、最後の勝利、そしてその勝利に喜ぶ一人一人に感動するんです。

そして時間という要素も大きいと思います。この戦いは千年にも渡って続けられてきました。そして負け続けてきました。それが遂に勝利した。

そういう時間の重さにも、グッとくるのだと思います。

まさに大ドンデン返し

そして、ようやく鬼舞辻を倒すと、今度は鬼舞辻の心の内が語られます。またしても一人称小説、自戒の話になるのか、と思いきや、取り込んだ炭治郎に自分の野望、すなわち鬼殺隊の滅亡を託すというまさかの展開!

これには意表を突かれました。

主人公が最終章に来てのまさかの最大の敵になるという。

鬼舞辻の能力、縁壱の技、更には太陽でも死なない体を手に入れた炭治郎は、まさにこのマンガ最強でありましょう。

その最強の炭治郎が、ボロボロの鬼殺隊の前に立ち塞がる。

これ以上はない最悪の展開でしょう。愈史郎曰く、鬼舞辻とは死んだ後でも人を最悪の気分にさせる。

愈史郎のこのセリフは、非常に説明セリフ的ではありますが、読者の代弁でもあると思います。こういう読者の代弁としてのセリフは、むしろ重要であるように思います。

絶体絶命、もう万策尽きたか、と思ったその時、炭治郎の前に現れたのは禰豆子でした。

しかし、自我のなくなった炭治郎はそんな禰豆子をも傷つけてしまいます。でも、致命傷は与えないんです。明らかにヤバそうな攻撃も外します。

義勇曰く、炭治郎も戦っている。

炭治郎vs鬼舞辻、最後の戦い

そして、炭治郎と鬼舞辻の最後の戦いとなります。

それは物理的なものではなく、精神の戦いでした。

みんなの、炭治郎に鬼にならずに人として戻ってきて欲しいという声は、炭治郎にまで届いています。ですが、鬼舞辻がことごとくそれは嘘だ、としゃあしゃあと嘘をつきます。この期に及んでしゃあしゃあと嘘をつく感じはさすが鬼の王です。

ただ、思ったのですが、鬼舞辻の言葉はやけに空疎に響きました。全部嘘であるからそうなってしまうのですが、それにしても、炭治郎の心には全然響かないだろうなぁ、と思うようなものばかり。

ここは、作劇的に欲を言えば、もっと炭治郎を揺さぶって欲しかった気もします。その鬼舞辻の揺さぶりをかなぐり捨てて…、というのがちょっと欲しい気もしました。

ただ、なぜ、鬼舞辻の言葉が空疎になってしまったのかというと、炭治郎には強さへの欲求が皆目なかったからなんですね。もしこれが、上弦の第一位の鬼や、第三位の鬼だったら、かなり揺らいでいたかもしれません。

でも、炭治郎には物理的な強さに対する憧れは、全くなかったのです。思えば炭治郎は本来、戦いとか争いとか、そういう世界には全く無縁の人だったように思います。

だからこそ、そんな炭治郎が戦い続けなくてはいけなかったこの物語は、全体を通して、どこかもの悲しいトーンがあったように思います。

そしてこの戦いは謂わば、心の中の世界での戦いとでもいうべきシーンなので、舞台が観念的で抽象的な世界でした。この舞台設定も良かったですね。

炭治郎の帰還を応援するみんなを、引っ張り上げようとする手として表現している。そしてそれを阻みたい鬼舞辻は、引っ張り上げられる炭治郎の、なんと腕から顔を出し、炭治郎を引き摺り下ろそうとする。

この手を媒体としたイメージが良かったと思います。そしてどことなく、芥川龍之介の「蜘蛛の糸」を思い出してしまいました。

究極の生物

また、ここで鬼舞辻は炭治郎に対し、究極の生物、神に選ばれた者、と言います。ここにきて、平凡だった少年は選ばれし者となるのです。

思えば炭治郎は「鼻が効く」という以外は平凡な少年でした。特に才能があるわけでもないし、結局柱でもなかった。縁壱の技を使えたのも、ヒノカミ神楽を子供の頃から習っていただけにすぎません。

でも、そんな平凡な少年が家族への思いと人一倍の努力で鬼舞辻を追い詰め、勝利したことに意味があるのだと思います。ここでもまた「普通の人」の勝利なんですね。

そしてまた、「普通の」主役の炭治郎が一人では決して勝てなかったところにも意味があるのだと思います。

そんな平凡な少年が最後には「神に選ばれた者」になります。ここにきて、炭治郎が特別な存在になったというか。主役らしくなったというか。

でも、それをあっさりと捨ててしまうんです。捨てるという意識すらなかったでしょう。

おそらくその地位は、さっきも言ったように上弦の第一位の鬼や、第三位の鬼が求めてやまなかったものかもしれません。

でも、そんなスーパースター的なものよりも、平凡だけど幸せな生活をこそが掴むのが難しく、尊いもの、ということだったのかもしれません。

そういったところからも、やはり脱ヒーローという思想が見えるし、平凡で幸せな生活の再発見というか、様々な苦難を通ってきた平成以降の日本の世相を表しているようにも思います。

鬼の文化

また、ここで面白いのは、あれだけ個に執着した鬼舞辻が、鬼殺隊を見て、継承の強さを目の当たりにし、炭治郎に自分の跡を託そうとしたことです。

これは、言ってみれば鬼の「人化」で、目的こそ違えど、そこには一つの文化ができた(すぐに消えたけど)ように思います。

もし、炭治郎が鬼として続いたならば、そこには社会が形成されたかもしれない。そうなってくると、ますます鬼は人となっていったのかもしれない。それこそ、次の人類とでもいうように。

そもそも、このマンガでの鬼は、鬼舞辻が自分の血を分けた者が鬼になりました。そういった意味では鬼もまた血の繋がりで増えていったと考えると、それもまた継承と言えるのかもしれません。

血の繋がり

それを考えると、このマンガは「血の繋がり」というものを何よりも重要視していたように思います。思い返せば多くの登場人物は親子や兄弟と血の繋がりを大事にしてきましたし、産屋敷家と伊黒さんの家は何百年も家が続いています。

一方、悲鳴嶼さんは血の繋がりのない擬似家族を作りはしましたが、結局裏切られてしまいました。最後は子供達の幻影が現れて、「誤解」を解いたのですが、なんかそれは取ってつけたような言い訳のようにも見えてしまいました。

思い返せば、蜘蛛の鬼も疑似家族を作りましたが、結局気持ちは繋がっておらず、崩壊してしまいます。

このマンガの中では血の繋がらない家族はことごとく破局を迎えています。一方、血の繋がりのある関係は後々、それは「あの世」になってしまったとしても、修復されています。

ここに「血の繋がりこそが至高」という吾峠呼世晴の思想が透けて見えるような気がしてならないのです。

そもそも、この物語の主人公である炭治郎の行動原理は「鬼にされた禰豆子を人間に戻す」ということでした。血の繋がりが、物語の始まりにして根幹でもあったのです。

また、「血の繋がりこそが至高」ということを思うと、敵である鬼が鬼舞辻が血を分け与えることで増える、ということも納得ができます。

血の繋がりこそが至高であるなら、最強でなければならない主人公の敵にも、そういった血の繋がりが求められるからです。

ただそれとは別の話なんですけど、最後の悲鳴嶼さんと子供達の幻影のシーンなんですけど、「明日さえ来ていれば」というセリフがあります。

これが非常に印象的で。やはり真っ先に思ってしまうのが災害ですね。災害はある日突然明日を奪います。それを思うと、やはり鬼とは災害の象徴で、このマンガの下敷きには東日本大震災があったのではないか、と思ってしまいます。

二度のクライマックス

鬼舞辻を倒して大団円、かと思いきや、もっとも嫌な形で更にまたクライマックスがあって、そこを乗り越えて、それぞれの登場人物の炭治郎への思いが明らかにされ(告白である)、更に大団円、という構成は見事だし、ホント、熱かった!

みんながボロボロになったところで、最後の最後に、これ以上はない絶望をばら撒く。吾峠呼世晴おそるべし。それでまた、みんなの炭治郎への思いが爆発するところもまたね、グッと来るポイントですよね。

そして最後、もちろん炭治郎はみんなのところに戻ってきて大団円。

思うに、この話は二度のクライマックスがあるのだと思います。絞り出したと思いきや、まだ絞り出す。これでもか、というところまで出す。

そしてそれが、作品の軸を明確にするようなもので、単に連載を長引かせる類のものではなく、ちゃんと意味があるのが良い。

普通の人たちが力を合わせて立ち向かう、そこには伝統という文化の力がある。そして二度グッと来て、二度目はもっと大団円というか。この怒涛の大感動の作り方は、ホントにすごいと思います。しかも意味がある。脱帽ですね。

後日譚

おそらく、この後日譚がいわゆる「本編」の最終回的な話だと思います。鬼舞辻に勝ってから3ヶ月後くらいの話。

禰豆子は無事人間に戻ったけど、炭治郎含め、それぞれに大きな後遺症を残してしまいます。

鬼殺隊で残ったのは冨岡さんと不死川の2名。仲の悪い(?)二人が残ったのは、どこか因縁めいています。その二人も今や仲が良さそう。

元柱の忍者や煉獄家の面々も炭治郎の見舞いに駆けつけたりして、まさに大団円。煉獄親父が炭治郎に顔向けできなそうなのが面白かったw もう酒もすっかり抜けたんでしょうか。割とどうでもいいことですが、禰豆子が割とアホの子っぽいのがまた可愛らしかったです。

あと、喩史郎が言った、炭治郎の「鬼としての才能」が気になりました。あの鬼舞辻をも凌ぐと言います。

やはりなんというか、ここに来て「主役として立った」印象を受けてしまいます。やはり、主役には他の登場人物よりも優れた点があった方が、立つのかな、と。そしてまた、やはりその方が「締まる」印象は受けますよね。さっき言ったこととは違うこと言いましたが。それは確かにそう思うし、そうなんだと思います。

そしてそれぞれに、痛みを伴いながらも、やさしい日常が描かれていく。こういう後日談を読むと、やはり「良かったな」と、どこか安心した気持ちになります。そしてやはり、悲しい。それは、みんなが揃っていないからでしょう。この話の激戦を思わずにはいられません。そしてその傷は炭治郎たちの心にずっと残っていくのでしょう。

最後は炭治郎が善逸と伊之助を伴って、禰豆こと一緒に故郷の家に帰ります。花の墓前で、幻影となった亡き家族と再会。ここで炭治郎の長きに渡る戦いの物語は完結。

やはり、この話は家族、血、そして地(土地、故郷)の話であったのでしょう。

勝ち取った平和は多くの人の犠牲の上に成り立っています。炭治郎は関わった全ての人のお墓参りに行くのですが、それはそういった犠牲を弔うことと、忘れないこと、繋げていくことの強い意志の表れでもあると思います。

そして最後のコマで唐突に現代のビル群が映されます。え? どういうこと?

後日譚の後日譚

最終回は、後日譚の、更に未来の話。舞台は、前回の最後のコマで仄めかされていたように現代。炭治郎たちの、割と近い子孫たちの日常を紹介しています。

それぞれに生まれ変わったり、曽孫だったりが(中には「本人」もいるが)、幸せな毎日を過ごしています。そんな描写はちょっと二次創作っぽくもあります。でもこれは、公式が提供してくれた幸せな後日譚。だから、読者は公式に安心して「良かったね」と胸をなでおろすというか、少し幸せな気分に浸れるのだと思います。

しかしながら、これは単なる公式による二次創作ではなく、意図があるのだと思います。

それは元を辿れば平安から続いた、そして今に至るまでの一貫した繋がりの物語であることを表しているのかなぁ、と。その長い道のりはまだ続いています。時間を越えた繋がり。脈々と受け継がれていく文化。だから、現代までも描かなくてはいけないのだと。

実際、作者も帯のあとがきでも書いているように、昔話のその時は今であり、今もいずれは昔話となる。であるならば、その昔話は現代にも繋がっている、地続きであるということを描かなくてはなりません。公式による二次創作にして、作品のテーマを強く訴える。そんな最終回だったように思うのです。

そして、今の幸せは先人たちの艱難辛苦の末にもたらされたものです。それは先の大戦然り、明治前後の混乱然り、戦国の乱世然り、飢饉などもそう。そしてもちろん、日本特有の自然災害もそうです。

特に自然災害は直近の悲劇でもあったので、やはりそのことはかなり意識にあったのではないかと思います。

もちろん、今を生きる炭治郎たちの子孫の生活は単純に楽しく幸せで、それを感じるだけでも意味があるようにすら思います。

また、炭彦が、鬼も次に生まれる時は幸せになるといい、という果てのないやさしさを思うのですが、そこがまた泣けるんです。そして、時間がかかるかな、という問いかけは、多分作者の意図だと思います。

おそらく、この作品世界では、時間はかかるけど鬼とされた人たちもいずれは生まれ変わり、今度は幸せになる、という暗示のように思えます。思えば、鬼にされた人たちは、そのほとんどが同情に値するような人たちであったと思います。この作品はそういう鬼にこそドラマがあった。

吾峠呼世晴のやさしい嘘

また、この最終回は吾峠呼世晴のやさしい嘘でもある、と思います。

この物語世界では死後の世界があり、生まれ変わりがあります。最終回では生まれ変わったその先が、あたかも理想郷のごとく描かれていましたが、苦しい戦いを強いられたり、辛い思いを強いられたりした炭治郎たちもまた、前世の生まれ変わりです。

であれば、炭彦たち生まれ変わりもまた、決して幸せを保証されたものではないし、炭彦たち自身も、今後辛い目に遭うかもしれないし、おそらくは遭うのでしょう。

それを一旦全部スルーさせています。スルーして、幸せな二次創作的な展開になりいました。あの現代の理想郷的世界は、多分吾峠呼世晴のやさしい嘘だったのです。

なぜスルーしたかというと、多分、大団円の最終回でそれを描くのは野暮ってもんだからでしょう。吾峠呼世晴自身も、そういう嘘であることはわかっていると思います。でも、あえてそういうことは描かない。それはここまで応援してくれたファンのためなのだと思います。

そして最後は作者からの、各登場人物宛に見せかけた、メイン層である少年少女の読者へ向けたメッセージで締めくくられています。

少年漫画の最終回として実に見事な最終回であったと思います。これほど美しくまとめた最終回は過去例がないのでは、と思うほど。

 

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「鬼滅の刃」第二十二巻ネタバレ有り感想。「ここぞ」の表情の表現力は当代一?!

 

鬼滅の刃」全巻感想、遂に、遂に遂に、22巻まで辿り着きましたあー!

このマラソン企画もいよいよゴールが見えてきました。あと一巻ですよ! 長かったあ…。

やっぱりね、じっくり一巻一巻、自分なりに感想をこうして書きながらだと、どうしても時間かかっちゃいますね。

あと、やっぱり漫画のタイプとして、例えば「ワンピース」みたいなね、一冊手に取ったらいつのまにやら何巻も読んじゃってて、いつのまにやら時間が経っていた、というようなね、そういう一気に読ませてしまうというものではないのかな、と。鬼滅の魅力は、そういう爆発力みたいなものではないのかな、と。

もっとこう、じっくりと読んでいって感じていくというかね、そういうタイプのマンガなのかなー、とも思いました。

ともあれ、あと一巻! その前に22巻! 感想を述べたいと思います!



蛇の柱の一人称小説

先ずこの巻の最初のエピソードは蛇の柱、伊黒さんの話です。伊黒さんの、一人称小説とでもいうような、そんな内容となっております。

しかし、吾峠呼世晴、文章上手いですねー。マジで普通に小説家になってもイケるんじゃないでしょうか。文章は吾峠呼世晴、挿絵はもちろん吾峠呼世晴という、そんな本も読んでみたいと思わせるほどでした。

で、この伊黒さんなんですけど、ちょっと怪談めいた半生でした。

そもそも生まれてから牢獄で育てられた時点で怪奇ですよね。豪勢な料理を振舞われ、気持ち悪いくらいに優しくされ、しかも女だけに囲まれたというのもまた、気味が悪い。

子供は女しか生まれない家系で、男が産まれたのは370年ぶりという。そういった意味で、呪われた名家というか、非常に謎が謎を呼ぶ展開です。

で、そこの当主みたいな奴なんですけど、これがなんと蛇の鬼だというホラー展開。なぜ元々人間だった鬼が蛇みたくなるのかは、ちょっとよくわからないですが。まぁ、そんな感じでケレン味に満ちてますねー。しかも時代が大正というのがまた、効いてます。この味付けは素晴らしいですね。

そして、その蛇当主の生贄とするため、赤子が産まれては喰らわせてたという。いやあ、怪奇! ホラー!

そういった意味で、伊黒さんはそんな家に生まれた自分は穢れた血だ、と蔑んでいるんですね。自分も被害者であるのに、そういった一族の汚点を一人で背負おうとしている。そういった意味では産屋敷のお屋形様と似ているように思います。

そしてこの話は、そんな伊黒さんの、甘露寺さんへの恋心の告白を綴った話でもあったのです。そういう「穢れた」自分を眩しく照らし出す、とでもいうのでしょうか。

でも、そんな眩しい甘露寺さんに自分はふさわしくない、という悲しく思い詰めた心情が綴られています。甘露寺さんは伊黒さんをそんな「穢れた」なんて思うはずもないと思うのですが、それほどまでに伊黒さんの背負わされた重荷は根深かったのでしょう

武器は「老い」?!

この伊黒さんの回想シーン以降は、基本的にはバトルシーンが続きます。そしてまた、今回も非常に見応えのあるバトルシーンでした。

柱たちが「透明な世界」が見え始めたり、善逸たちが駆けつけたりして、徐々に善戦し始めます。

久々に善逸を見れたのが嬉しかったあー。善逸は相変わらずでしたねw

しかし、鬼舞辻がマジでバカ強い! 柱たちが追い詰めても一撃で全滅。まるで全盛期ジャンボ鶴田のバックドロップのようです。その一発で全てチャラ。ビルとかブッ壊してますからね。もはや怪獣です。

しかし、まさかの復活を遂げた炭治郎と伊黒さんという異色のコンビでそんな怪獣相手に追い詰めていきます。鬼舞辻の攻撃は苛烈を極めるのですが、伊黒さん、炭治郎を助けまくり! 

そしてまた、鬼舞辻の様子がおかしくなってきます。どういうことか、と思った鬼舞辻は、珠世さんの記憶を探るというウルトラCを活用して調べたところ、珠世さんは老いる薬みたいのを投入したらしい。それによると、現在鬼舞辻は九千年歳取ったらしい。

九千歳!

90世紀ですよ!

そんだけ歳取ってもこれだけ動けるとか、やはり鬼舞辻は怪獣です。

それはそれとして、スポーツ選手もそうだけど、やはり生物、老いには勝てないんですね。それは鬼舞辻も同じことだった。

この、バトルで敵を追い込む要素に「老い」をブッ込むというのはすごいアイデアだと思います。そう来るか。

鬼舞辻は武士的?

そんな鬼舞辻なのですが、未だに縁壱に対して非常に恐怖しているんですね。そういう描写が随所に挿入されます。

その一方、どこかで縁壱のような剣士を探しているのではないだろうか、と思ってしまいました。それは、炭治郎でさえ遠く及ばない、と言ってるシーンを見たときにそう思いました。

自分を一番追い込んだ、それどころかほぼ自分は負けていた、そんな縁壱に対して、どこか畏怖のようなものを感じたていたのでは、と思ってしまいます。恐怖は畏怖に繋がるように思いますからね。

それと同時に、どこかでまた縁壱のような剣士に会いたいとさえ思っていたのでは、と思ってしまいました。鬼舞辻は強いです。果てしなく強いです。そんな強い自分と同等以上の存在に会いたいと思うのは自然なことかもしれません。強さを追い求めなければあそこまで強くはならないと思いますし、強さに憧れるのであれば、自分ではなくとも究極に強い存在を見てみたい、という思いになるのも無理からぬところかと思うからです。

しかし一方で、鬼舞辻は、てらいなく逃げます。夜明けも近づき、追い詰められた鬼舞辻は何のてらいもなく逃げます。

それに対し、炭治郎たちは、あいつは元々気高い武士でもなければ人間でもない、だから誇りなんてないから簡単に逃げる、と言います。

なんとなく、「アニゴジ」でフツワが言った「生きることが勝ち」を思い出してしまいました。殺されずに逃げ切れば、それは逃げた動物の勝ちなのだそうです。確かに体面にこだわるのは人間だけです。逆にいうと、人間とは生物としてはかなり変な存在で、非自然的な生物とさえ言えるかもしれません。

ですが、こんな話も聞いたことがあります。武士というものは不利と分かれば逃げることを厭わず、態勢を立て直し、また戦う。そうやって、打てる手は全て打つのが武士である、と。だとすると、この鬼舞辻のてらいなく逃げる様は、逆に非常に武士的だとも言えると思います。

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受け継ぐことが人間の武器

炭治郎は細胞レベルでのご先祖の記憶の中で、もしくは夢の中で、はじまりの呼吸の型を縁壱さんに見せてもらっていました。

その型には十三番目の型はなく、不思議に思ったところ、型の名の最初は「円舞」、最後は「炎舞」と、同じ音であることに気付きます。そうやって、十二の型は円環を成し、もってその円環を一つの塊として十三番目の型とする、ということに気付くのです。

思えば、炭治郎の父親も、この十二の型を延々一晩中踊っていたといいます。つまり、この十二の型を「延々繰り返すこと」で十三番目の技とし、鬼を追い詰める、というのです。

縁壱さんは炭吉さんに技を教えたわけではない。ただ、縁壱さんの技が美しく、それを忘れずにいようと、炭吉さんが神楽として残しただけだったのです。

それを三百年あまり、延々と受け継いできた。この繋がり、継承が人の力なんですね。教えずとも、感じた誰かがそれを受け継いでくれる。人とはそういうものかもしれない。

禰豆子が人間に

それと、今巻ではなんといっても、禰豆子が人間になり、記憶を取り戻したシーンが印象的ですよね。

禰豆子を人に戻す。そのために炭治郎は戦ってきた、ひいてはこのマンガが描かれたのですから。

その、自分という人間を取り戻す時の、みんなとの思い出、とりわけ炭治郎との思い出が感動的に描かれています。

また、善逸を思い出した時の善逸の表情も良いですよねぇ。気持ちは伝わっていたんですね。

徐々に徐々に、体が変化していく感じも良い。

やはり、鬼である時は人の記憶はなかったみたいですね。多分、今まで炭治郎を助けたりしてたのは、深層心理で動いていたのかもしれません。

そして、この「禰豆子が人間に戻った」ということは、鬼舞辻への影響への伏線かもしれなくて、それはちょっと怖いですね。どうやら鬼舞辻は禰豆子が向かってきていることを察知したようです

ここぞという時の表情

このマンガのすごいところって、多分、「ここぞという時の表情の描きこみ」だと思うんです。

ぶっちゃけた話、悟峠呼世晴って、ジャンプみたいな超メジャー誌で長期連載抱えてる作家さんの中では相対的に絵が下手な部類に入っちゃうと思うんです。

でも、ここ一番での微妙な表情を描かせたら当代一なのではないでしょうか。いや、もちろん全部の作家さんを詳しく知っているわけではないのですが…。それほどまでにその表現力がすごいってことです。

しかも、言葉では言い表せない感情を絵で表現するんです。

言葉じゃ無理だから、絵を使う。そんな感じ。

この巻でも、縁壱さんが炭吉さんに手を振りながら見せた笑顔とか。「ちゃんとやってよ」と言っているよう(ちゃんとやってね、じゃなくて)。

また、禰豆子が人に戻った時に思い出した炭治郎の笑顔、善逸の笑顔。

そういう、ここ一番、って時、大体コマが大きいんですよね。それほど、微細な表現をしたい、ってことなんだと思います。

 

鬼殺隊は鬼?

あと、なんかちょっとですね、思ったことがありまして。

割と前々から思っていたことなんですけどね。

鬼殺隊は鬼なんではないか、と。もしくは、鬼の力を持った何かなんではないか、と思ってしまったわけでして。

というのも、まさかの炭治郎復活の場面ですね。復活した炭治郎の姿を見て、鬼舞辻が、醜い、と言い、どちらが鬼かわからんな、と言い放ちます。

なんか、このセリフ、伏線感ないですか?

ひょっとしたら、炭治郎もまた鬼なのかもしれない、という予感にも似た感じが出てきてしまいまして。

でまた、鬼舞辻にも痣があることに気づきました。違うのかな? これ、痣じゃないんですかね? 鬼に痣ができるんだったら、痣の出る鬼殺隊もまた鬼なのではないか、と。

あと、縁壱が三百年くらい前につけた傷が未だに鬼舞辻の体を焼き続けていたという衝撃の事実も発覚します。

鬼舞辻曰く、化け物はあの男だ。私ではない、とまで思います。

鬼が自分は化け物ではない、と言うくらいの化け物性。それを持っているのが痣のある男、縁壱。

やはり、鬼を倒すには、鬼の力を持つ者でないとだめなんじゃないでしょうか。怪人を倒すには同じ力を持つ仮面ライダーが必要だったり、使途を倒すためには同じ力を持つエヴァンゲリオンが必要だったり。


 

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「鬼滅の刃」第二十一巻ネタバレ有り感想。笑う子どもにグッと来る縁壱!! それを見てグッと来る俺!!


鬼滅の刃」全巻感想、第21弾!

そう、遂に21巻まで来ました! 残り2巻!

いよいよクライマックスが近づいてきた臭いがプンプンしてきました!

ただ、展開的にはちょっと急すぎるような気もしてはいるのですが、多分それが最近の漫画のテンポなのかもしれません。

とはいえ、今回も盛りだくさんです。そして実は、エピソードの間に挿入されたこぼれ話が面白かった。

できれば、こういうエピソード(縁壱に逃がしてもらった珠世さんのその後の話とか)を漫画内で描いて欲しかったですねー。

あと、甘露寺さんはやっぱり可愛いな。好き。

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無一郎の人生観

この巻の冒頭で、無一郎と玄弥が退場となってしまいます。

無一郎は、天国で兄と再会。でも、また怒られてしまいます。でも、兄は泣いてました。もっと長生きして欲しかった、とやさしい叱り。可哀そうだと言うんですね。

でも無一郎は、幸せだった、と自分の人生を全て肯定します。

このものの見方は、多分炭治郎の影響もあったように思うんですけど、どうでしょう。あるいは、元々の無一郎の資質でもあったのかもしれません。

日々の生活の、なんてことはないことに、ひとつひとつ幸せを感じるというのは、強さだと思うし、ひょっとしたら賢さでもあるのかもしれません。

なんというか、そう考えるとなにかこう、楽にもなるし、そういう目線を持つことで、日々の生活が鮮やかな色彩を帯びるようにすら思います。

この無一郎のシーンは、あぁ良いなぁ、と思ってしまいました。

一方、玄弥の方では天国の描写はなし。ただ、おまけのページで兄弟たちと再会する場面は挿入されていました。こういうところに、何か作者のやさしさが出ているようで、いいですよね。

思うに、無一郎、玄弥のそれぞれ二組の兄弟は、一位の鬼の兄弟の物語とも繋がっているのでしょうね。

この二組の兄弟と、一位の鬼の兄弟とは、関係性が似てたかもしれません。兄が弟を疎んでいる(少なくとも表面的には)という点では酷似しています。

でも、兄貴の方ではツンツンしていても、それぞれに兄弟で深いところで繋がっていたという点では、皆同じなのかもしれません。

バトルの感じが面白い!

今回はいよいよ鬼舞辻との決戦。

なんですが、マイlove甘露寺さんと蛇の人が琵琶の鬼にやられたー! かに思わせて、実は兪史郎が琵琶の鬼の、なんと脳細胞を操るという大荒技を敢行! これで、あの鬼舞辻を撹乱。すごいですねー。

そう、今回のクライマックスのバトルって、遠隔操作多いですよね。兪史郎は遠隔で偽の映像情報を送ることで攪乱するし、お館様たちはカラスを複数飛ばして城内部の情報を把握。

兪史郎の戦いはフェイクニュースだし、カラスはドローンを飛ばしての映像提供に喩えることができるでしょう。

舞台が大正時代でありながら、戦い方自体は現代のものですよね。ここらへんのバトルのアイデアが面白い。

ただですねー、どうしても好きになれない展開もありまして。それは、市街地に出た後の戦いです。

柱以外の鬼殺隊が何人も「肉の壁」となって炭治郎たちを守るんですね。その命を投げ出させる(物語内では自発的ではありますが、作劇的には「させる」と言うべきでしょう)展開がですね、どうにもこうにも好きにはなれない。というより、嫌悪感を感じます。

ここには明確な階級意識がありますよね。人の序列に対する志向というか。

自由主義社会であっても制度化されない序列、階級は確かにあります。それは間違いない。

でも、だからといって、それを賛美するかのような思想は危険だと思います。序列をなくそうとしても出来てしまうのが人間の社会なわけだから、それを助長してしまうと、それは当然、更に加速するということになる。

ここらへんの、階級賛美の思想は受け付けることは到底できないですねー。

そしてびっくりしたのが、まさかの炭治郎が退場! マジかあー!

残り2巻ちょっともあるのに、主役が退場するとは…。この先どうなるのか。

実はこの巻読んだ前日に「錆喰いビスコ」を観たんですね。そしたら丁度同じ展開だったんです。主役のビスコが退場したんです。しかもタイトルロールですよ。これにはびっくりしましたが、まさか二日続けて…。変な偶然もあるものですねぇ。

しかも、ビスコの方も、残り2話を残しての主役退場。この「2」という数字もまた妙な符号ですね。

鬼舞辻は偉い?!

それでですねー、この巻読んで思ったんですけど、ひょっとして鬼舞辻って、偉いのかな、とw いや、とんでもなく極悪非道な奴だとは思ってますよw どういうことか?とお思いでしょう。

なんでそう思ったか、というと、この巻で「俺に殺されたのは天災だと思え」と炭治郎に言って、炭治郎をブチ切れさせるんですけど。

まさにその台詞ですね。

全然偉くねぇじゃん、と、お思いでしょうw わかりますw

鬼舞辻の人柄は全然偉くありません。品性下劣とさえ言えるでしょう。でも、物語上の存在意義としては、偉いのかな、と。

どういうことかというと、多分この人、台詞通り「天災」の比喩なんですよ。そして、天災って鬼舞辻の台詞にある通り、どんなに被害を被っても、何を責めるわけにもいきません。誰が悪いわけでもありません(天災が起こったそのこと自体は)。

でも、どうにもこうにも行き場のない怒りは芽生えます。

この、行き場のない怒りをぶつける相手として、人の形を与えられた憎悪の対象が鬼舞辻なのではないか、と思ったのです。

言ってみれば、この世の怒りの対象を全て集約させ、この世の全ての怒りを受け入れる、そんな存在なのかもしれません。

この漫画を読む人は、天災だけじゃない、人生に置いて向ける場所のない怒りを、その代償行為として鬼舞辻に向けることができると思うんです。もちろん、読者はそうとは意識していないでしょうが、ひょっとしたら無意識の中ではそういう効果があるのかもしれません。

言ってみれば、カタルシス効果というやつですね。それに近いものを鬼舞辻を通して読者は得ているのかもしれません。

そう考えると、鬼舞辻って、ひょっとしたら偉いのかなぁ、と。

ま、嫌いですけどね。

またしても漫画で一人称小説!

前巻で、一位の鬼の物語の続きがあるのかと思ってたんですけど、あれで終わりだったみたいですね。でもそれでも、綺麗に終わってはいたと思いますが。何の救いもなかったかな、とも思います。やはり女性作家だからでしょうか、才能のない人間には容赦がないですねw

でも今回、弟の方からの一人称小説的な展開がありました。今回もアツかった。

それは、多分死の淵にある炭治郎がご先祖様の記憶から覗いている、という設定。だから干渉はできず、見ているだけ。だから、一人称小説っぽさの中に三人称小説というか、作者の観点みたいなものが入るような形になっていると思います。この作りはなんか面白い。

そして、弟の方から見ると、お兄さんはすごくやさしい子だったようです。父親に「弟と遊ぶな」と殴られても、その日のうちに笛を手作りで作って「助けて欲しくなったらこれを吹け。俺が助けに来る」とヒーロー的なことを言います。弟にとってはまさにヒーローだったのかもしれません。

弟の方が強いけど、でも強いばっかりがヒーローではありません。一緒に遊んでくれる、それだけでも十分ヒーローたりえます。剣術よりも兄上と双六や凧揚げをやりたいと言った台詞が思い起こされます。

おそらく、兄貴の方の記憶は自らゆがめてしまったのかもしれません。本当にその当時、弟を気味が悪いと思っていたのなら、殴られてまで会いに行かないし、笛なんか作らないと思います。

ただ、そうやって記憶をゆがめてしまったかと思うと、兄貴の嫉妬心はいかばかりかと思おいます。

しかし、それほどまでに嫉妬した兄貴の方から見れば、神様に愛された弟だったのかもしれませんが、弟の方は言うほど心楽しい人生ではなかったのかもしれません。そこはかとなく、みんなから疎外感を感じていたそうです。それはあまり、幸せなことではないように思います。

ただ一方、兄弟それぞれに幸せな結婚をしたらしく、一頃は幸せだったようで。それこそ、無一郎の言ったように、辛いことも多かったかもしれませんが、幸せなことはあったのです。

そう考えると、無一郎の見方では大抵の人は幸せであることになる。実はこの無一郎のセリフは作品全体を明るく照らすようなものになっているのかもしれません。

無一郎のこの人生観は、なかなかにして偉大かもしれない。人は兎角辛いことばかりを注視しがちですが、この一言に救われることがあるかもしれないし、なんとなく楽になるかもしれない。

しかし縁壱は、あと一歩のところで鬼舞辻を逃がしてしまいます。そのことで縁壱は言いようのない後悔の念に襲われているんですね。

そう、あの鬼舞辻に圧勝し、あと一歩まで追いつめるんですよね。めちゃくちゃ強い! 多分、この作品最強ではあるのでしょう。

つーか、子供の頃、一晩中歩き続けても全く疲れなかったそうです。なんか、鬼くらいの力ありそうですよね。

そんな縁壱を励ましたいと炭治郎のご先祖様は思うのですが、何も言葉が出てこない。どうしたものかとご先祖様も悩んでしまうところに、ご先祖様のまだ小さな子供が縁壱に「だっこぉ」と言って寄って行きます。

ご先祖様の頼みもあって、縁壱は子供を抱き上げるのですが、その抱っこされて笑う子供を見て、縁壱は涙します。

この説得力はなんだろう。

楽しそうに笑っている子供を見ていると、全てが許され、全てが解決し、全てが上手くいくように錯覚するのは、真実であるように思います(縁壱がそう思ったかどうかは定かではありませんが)。

このシーンは、すごく良いシーンだと思うし、今のところ、この作品のベストなシーンでもあるように感じます。

また、その後やってきたご先祖様の奥さんがいいんですよね。「きっと大丈夫よぉ」と、何の根拠もなく、ですがやさしくおおらかに言ってくれます。「ご飯食べさせてあげますから」と。

落ち込んでる時のご飯に勝るものもまた、ありませんよね。


 

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「鬼滅の刃」第二十巻ネタバレ有り感想。少年漫画に一人称小説を持ち込む!!



鬼滅の刃」全巻感想、遂に大台に乗りましたー!

20!

20巻ですよ!

マイルストーンとしては、最大のものではないですかね。

いやー、長かった。全23巻だから、もうあとちょっと。ラストスパートといったところですね。

でも、読み始めてから一年経ったけど、まだ読み終わってないw

で、20巻なんですけど、先ず表紙がね…誰か?とw

風貌からするに、始まりの呼吸の人ですね。炭治郎と同じピアスしてますね(その当時、ピアスという文化があったかどうかは不問にしましょう)。

この人、今回鬼殺隊が対する上弦第1位の鬼・巌勝の弟、縁壱といいます。そりゃわからないはずです。だって、この巻が初登場なのですから。

というわけで、今巻もね、非常に読み応えのある巻でしたね。特に後半! なんかね、もう小説読んでるみたいでしたね。つーか、作りとしては小説ですね。一人称小説。

だから、前半はバトルマンガで後半はビジュアル的な一人称小説とでもいうような、非常に贅沢な作りの巻となっているかもしれません。

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文化の継承、人との繋がり

この巻では、いきなり悲鳴嶼さんと1位の鬼との間でお互いの思想のぶつかり合いがあります。で、これは煉獄さんと猗窩座との間で交わされた問答と本質的には同じだと思います。

ものすごく平たく言えば、個にこだわるのか、それとも人との繋がりを大事にするのか、ってことだと思うんです。

なんでこの問答をもう一度やり直すか、って言うと、後に出てくる1位の鬼のドラマに繋がって来るからだと思います。

1位の鬼にはやはり弟がいたんですね。それで、弟とは考え方がまるで逆だったんです。己が特別だと信じる、もしくはそうなりたい兄と、(天才なのに)自分を特別とは考えず、次の世代への継承を信じる弟。

ここに繋がってくるから、もう一度おさらいという意味で悲鳴嶼さんと1位の鬼に討論させたのだと思います。

弟や、煉獄さんや悲鳴嶼さんら柱の主張は、文化の継承と言ってもいいかもしれませんし、人との繋がりであると言っていいかもしれません。

で、もっと言ってしまうとこの作品では「人との繋がり=血の繋がり」でもあるんですね。

この作品に出てくる登場人物が抱える人との繋がりの問題はほぼ全て血縁関係にあります。

それは社会的「生物」としての人間を、より象徴的に表しているのかもしれません。

多分この作品で最も言いたいことは、社会が大事だよ、人との繋がりが大事だよ、ということなのかもしれません。そのことを言いたいがために、そうした考えとは真逆の存在である鬼を考えだしたのでは、とすら思ってしまいます。

だから、兄と弟の違いは、言ってみればこんな感じかもしれません。

兄→単独行動の生物
弟→群れを作る生物

考え方が真逆だから、兄は鬼となって弟と袂を分かち、そして時が経ってこうして鬼殺隊と戦っている。

一方弟の思想は、煉獄さんや悲鳴嶼さんら柱の思想と酷似している、というよりそのものだと思います。つまり、弟の願い通り、文化として受け継がれているんですね。

後に出てくる1位の鬼の兄弟の悲劇は、この思想の違いによるものだと思います。なんでそんなことになってしまったか、と言ったら、いわば「神様のちょっとしたボタンのかけ違い」だと思うんです。

弟は、とんでもない剣の天才なんですね。一方兄は、それなりの才に恵まれたものの、天才ではない。

これが逆だったら、何の問題もなかったと思うんですよ。

兄が己にこだわるようになったのは、弟よりも剣の才で劣っていたからだと思うんです。

元々、兄は弟想いの子だったと思うんです。そうでなければ、弟のために笛なんて作りませんよ。笛ですよ? 笛。作るのめちゃめちゃめんどくさいじゃないですか。

だから、兄の方も元々は「人との繋がり」を大事にするような子だったんです。

でも、弟に自分がなりたいものに成られてしまった。この嫉妬心たるや相当なものでしょう。

そうなってくると視野狭窄というか、周りが見えなくなっちゃうと思うんですよね。だから己の鍛錬にこだわるようになってしまうし、弟を憎んでしまう。

しかもこの弟、兄が大事にするものをことごとく否定していくんですね。兄が日本一の侍になりたいと願えば、弟は剣技にはまるで関心がない。むしろ嫌いだったりします。

兄が、自分たちの世代は特別だ、と言うと、弟は、今に我々よりも優れた剣士が出てくる、と言う。

とにかくこの弟は、兄の嫉妬心というか、神経を逆撫でするというかw そういう、兄の嫉妬心を照射するために様々な要素が与えられているようにすら思えます。

でももし、兄に天賦の才があったらどうだったでしょう?

おそらく、十になったら寺へ出される弟を家に呼び戻し、母の遺言にあったように分け隔てなく育っていくことを願い出たかもしれません。だって、嫉妬なんてしていないんですから。

先に言っちゃうけど、このお兄さん、本当は弟のことが大好きだったんですから。

だから、「神様のちょっとしたボタンのかけ違い」が全ての元凶だと思うんです。そして、その「神様」というのは吾峠呼世晴なんですけどねw

弟や、柱たちの考えを照射させるために、兄を個に生き、己にこだわる性格にさせたのではないでしょうか。

世代間闘争

あと、なんとなく世代間闘争とも見て取れるかな、と。

兄は、自分たちの技術は下の者には伝わらない、と嘆きます。更に、腹の中では自分たちの世代こそ最高だ、とも思っています。

これって、何やら勝ち逃げを決めた今の引退世代に通じるようなところがあります。

一方、弟は、我々はそう特別な存在ではない、と言い放ちます。天才なのに。そして、今こうしている間にも、我々より優れた者が産声を上げている、と言います。

これは下の世代にもチャンスを与え、期待し、育てようということなのかな、と思います。

勝ち逃げ世代は、努力を怠り、氷河期世代とかいうものを作り出してしまいました。自分たちは特別だった、後の世代のことは自分たちには関係ない、そういう意識もあったと思います。

そういった、批判めいたものも、透けて見えるような気がするのですが、どうでしょう?

バトルが凄惨

炭治郎は戦いの中で「透明な世界」を手に入れたのですが、それはこの1位の鬼のものだったんですね。

しかも、1位の鬼の弟が(おそらく)最初に見た世界でもありました。

それを炭治郎は日の神神楽として父から受け継ぎました。

また今巻では、他の柱たちも急速にその域に達しました。

こうして連面と技術が受け継がれてきたのですね。このように、とにかくこの漫画では、「引き継がれる」ことを至上としているように思います。

そして、強さを極めると、最後に待っていたのは自分だった、ということなのでしょう。1位の鬼はその象徴でもあるのですね。

で、今巻のバトルは壮絶。凄惨と言ってもいいでしょう。無一郎と玄弥は体をズタズタに引き裂かれてしまいます。言ってしまうと、非常に残酷な展開ですね。更に言ってしまうと、こういう展開はあまり好きではありません。

ただ、今回のバトルの中には面白いな、と思う展開もあって。炭治郎が玄弥に「一番弱い人が一番可能性を持っているんだよ」と教えるシーン。

強い人はもちろん警戒されますが、その一方で弱い人には警戒が緩むというのです。で、その警戒の弱さをかいくぐることができれば、逆に大きなチャンス、流れを一気に変えられるというのです。

なるほどなー、と。そういえば、野茂って結構並み居るメジャーの強打者を抑えてきたのですが、下位打線に一発を浴びるシーンを割とよく見ました。

松坂も、イチローを抑えた後は、割と後続に打たれてたりしました。

やはり、全員同じように警戒する、ってのは無理なんですね。弱者にこそ状況を変えられるチャンスがあり、弱者には弱者なりの戦い方がある。なるほどなぁ、と膝を打ってしまいました。

こうして、仲間からの助言があるのも、鬼と人の違うところでしょう。この助言というのも、一つの「文化の継承」と言っていいかもしれません。

それから、玄弥が鬼の力を取り込むのが面白いですね。グレンラガンを思い出してしまいましたw

敵の、異形の力を取り込むことで強くなり、それを生かす、というのはカッコいいですよね。何より力強いし、頼りになりそう。仮面ライダーもそうでした。元はショッカーの改造人間ですからね。

ある意味エヴァンゲリオンもそうですよね。あれ、確か拾った使途だし。デビルマンなんかも、考えようによっては、そうかもしれないですね。悪魔が人間の側につく、という。

後半は一人称小説

最後に、1位の鬼は自壊のような形で消えていきます。心が折れた、というか。

それは自分の姿を見たからでした。

まぁ正直、見た目かよ、と思ってしまいましたが、形や見た目から入る日本人ならでは感性、とも言えるかもしれません。

また、女性作家ならではとも言えると思います。女性は男性以上に見た目を重視すると思うからです。それは異性に対してだけではなく、同性、そして自分にも向けられているように思います。だから、女性はオシャレなんですねw

センスが良いとか悪いとかは別として、女の人って年齢を重ねても、着る服とかにこだわるじゃないですか。でも、おっさんって、もう、ひどいですよねw ホントは服着るのめんどくさくて嫌だけど捕まっちゃうから布巻いときゃいいんだろ?っていう思想が透けて見えるくらいひどいw

話を戻すと、そうやって自分の姿を見て自壊したのは、鬼となっても人の心があったからかもしれません。これは悲鳴嶼さんの言う、鬼は元は人だったもの、というセリフにも表れているように思います。そしてそれは、実は1位の鬼の言葉の、しかも弟に向けられた言葉の端々に見て取ることができました。

余談なんですが、自壊した鬼の姿は、どこかサモトラケのニケを思い起こさせました。また、無一郎が刺したのは左の脇腹、だから、崩れていくとき、左の脇腹も崩れています。鬼の母が悪かった箇所も左の脇腹。どこか、ロンギヌスの槍を思い起こさせます。

これは、何を表しているのかはわかりませんが、宗教的なことよりは、なんとなく、エヴァンゲリオンへのオマージュなのかな、と思ってしまいます。

で、ここから1位の鬼の回想になるのですが、まー、兄サゲ弟アゲの極みw まぁ、これはねー、日本エンタメの基本ですから仕方ないのですが、またかよ!って苦笑を禁じえませんでした…(苦笑)

主役の炭治郎は長男だったのでね、「長男だから耐えられた!」とかいう(笑える)台詞もあったりして、その時は「お!」と思ったんですけどねぇ…。吾峠呼世晴、お前もか!って、思ってしまいました。

そんな感じでね、兄サゲ弟アゲの典型的な展開にやや辟易とはしたんですが、面白かったです。しかも非常に!

というのも、ほとんど小説になっていたからです。一人称小説で、描写は絵でまかなう。語り手のモノローグが延々と続く。簡潔に、しかも自身の内面を赤裸々に綴る文章は非常に上手いと思いますし、文学的だし、迫力すらある。

思うに、文学的とは孤独な心を書き留めたものなのかな、って思います。誰に向かって喋ってるんだ?という感じも、一人称小説的ですよね。

で、この語りがですね、非常に文学的で。1位の鬼の、孤独な内面を吐露しているんですね。彼は多分、ずっと一人だったんです。なんせ、個に生きる男でしたから。

で、ですねー、なんというかですねー、この小説的モノローグがですね、色々と考えさせられます。どう感じていいのか、どう考えていいのか、どう思えばいいのか、っていうのがですねー、なかなか難しいといいますか。

でもちょっと、拙いながらも、ちょっと思ったことを書き連ねてみます。

兄である1位の鬼は、常に優秀な弟と自分とを比較して、悩み、自分を追いつめ、最後は鬼舞辻に魅入られてしまった。

その、弟に対する恨みつらみ憎しみは、あまりに一途で、それは恋愛にも等しいものでした。そう、言ってみれば、恋い焦がれていたんです。

兄は、お前になりたかった、と言います。

これって、恋愛ですよね。好きでもない人との同一化なんて、誰がしたいでしょうか。

兄はずっと弟のことが好きだったんです。

剣を振るうより、兄上と双六がしたい、という弟をどうして嫌いになれましょうか。

物置のような部屋に押し込まれた弟に、父の目を盗んで、手作りの笛を持って、遊びに行くわけないですよ、本当に嫌いだったら。

憎んだ、というのも、好きだったからですよ。どうでも良かったら、憎むこともできません。

何より、形見の笛を四百年も懐に入れていたのですから。

ただ一つ、本当に憎かったのは、弟が自分よりも母を気遣うことができていた、ということでしょう。


 

 

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