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僕が買ったもの、観に行った映画・ライヴなど、要は金を払ったものに対して言いたい放題感想を言わせてもらおうというブログです。オチとかはないです。※ネタバレありまくりなので、注意!

「回転木馬のデッド・ヒート」ネタバレ有り読書感想。エッセイと短編が混ざったようでちょっと違う感じ?!

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村上春樹のエッセイが好きです。

また、村上春樹の短編も好きです。

元々短編小説自体が好きなんですけど、村上春樹のものは特に小気味が良いというか、切れ味があるというか、読んていてサイズ感が丁度いいんですね。

それは長さ的なものもそうなんですけど、作品自体のスケール感といいますか、あまり大上段に構えていない感じが、読んでてしっくりくるというか。

その、僕の好きな村上春樹のエッセイと短編が混ざったような作品が、「回転木馬のデッド・ヒート」だと思うのです。

今回は各話ごとの感想を書いてみたいと思います。

前書き

村上春樹の言うことには、あまり前書きとか後書きとかは書きたくないそうです。じゃあ、書かなきゃいいじゃん、と思うのですが、この短編集は割と変わっているので説明の必要がある、と思ったからだそうです。

この短編集は正確に言うと短編小説ではなく、事実に基づいた話で、小説になる前のスケッチ、ということらしいんです。

僕が冒頭で言った「エッセイと短編が混ざったような作品」というのはこのことだったんです。いやあ、楽しみですねぇ。

まぁ、それともまたちょっと違うようなんですが、村上春樹特有の持って回った言い回しでよくはわかりませんw でもまぁ、なんとなくそんな感じらしいです。

レーダーホーゼン

ある日突然理由も不明なまま離婚してしまったおばさんの話。

なんですが、なぜ別れたのか、その理由というのが、完全に明かされるわけではありません。なんせおばさん本人もよくわかっていないのですから。

ただ、別れたその感じといいますか、いかにも女性、という感じで妙に腑に落ちました。今回読み返してみたんですけど、以前読んだ時は全く理解、というか納得できなかったように思うんですよね(最初に読んだのは随分前なので、その時の感想はもうすっかり忘れてしまいました)。

でも、今ならなんとなくわかる気がします。女性の不可解性、その癖のようなものが、以前よりはわかってきたような気がするからです。

女性って、やっぱり論理ではなく感覚で生きてると思うから、「こうだ!」と決めたら、もうそれに向かって猪のように突っ走って行っちゃうところってありますよね。

それが若い頃はまるで理解できていませんでした。ただ単純に「女ってバカだな」って思ってました。

バカの定義が「論理的ではない」ということだとすると、昔の僕のその考え方は間違っていたとは思いません。でも、「論理的でない」ということは、裏を返せば直感で生きていることでもあって、直感で生きれるということは、直感が鋭くもあるのではないかと。

つまり、ひょっとして、直感が鋭いから論理を使う必要なんてないのではないかと。

言ってみれば、多くの男って筋道立ててちゃんと考えて、色々と面倒な手続きを踏んで答えを出す。それに対して、ある種の女性は過程をすっ飛ばしてショートカットで答えにたどり着ける。

だけど、その直感は必ずしも当たってるとは限らないから、とんでもない間違いを犯すことも女性によくあることではないかと。

男は大失敗はしないイメージ。でも、その論理の立て方も完璧というわけではないだろうから、大当たりもしない印象があります。

男は巧打者、女は強打者、という感じがしますが如何でしょう?

「タクシーに乗った男」

今回主役となる女性は、ニューヨークを離れる時、夫と別れ、子供も諦めることになるのですが、その理由として、何もかもを捨てたくなった、ということらしい。

一話目の突然離婚したおばさんと何か似てますね。

女性は突如全てを捨てたくなる、というのはやはりあるように思います。これもまた直観力のなせるわざで、その直感が結構当たってたりする印象。

そして、これだけ思い切って捨ててしまうのは女性ならではだと思います。男はそうはできない。男は過去に生きて、女は未来に生きますからね。だから、男って歴史が好きでしょ?

歴女とかいう人たちもいますが、全体的には「歴史が好き!」というよりも「武将萌え?」というイメージ。キャラ萌えとそうは変わらないし、歴史への入りがとうらぶだったり戦国BASARAだったりしますからね。

あと、よく言われる「男は名前を付けて保存、女は上書き保存」というのも、そういう過去に生きるか、未来に生きるか、の違いがあるように思います。

女は未来に生きるから躊躇なく捨てる。男は過去に生きるから捨てられない。

そう言えば、矢野顕子はバンバン捨てるそうですが、坂本龍一はなんでも取っておいてしまうらしいです。

あと、20代の頃、とある理由で「女性は裏切りたくて仕方のない生き物だ」と気付き、その認識は現在でも変わっていないのですが、それとも関係あるような気がします。

「プールサイド」

エリートの「ボクちん、すごすぎて、悩んじゃってるんでちゅー」という自慢話。

そのエリートが作中で、「この話の面白味は何かな?」と村上春樹(だと思う。語り手)に言うんですけど、俺が教えてやる。

ねぇよ、お前の話にそんなもん。

おそらく、エリートにしてスノッブである村上春樹同族意識が文章にさせたものなのでしょう。

そんだけの話。

「今は亡き王女のための」

とにかく生まれながらにして全てを与えられた女性の話。

そんなんだから、女帝気質満載。相手を責める時は苛烈で、完膚なきまでに叩きのめして、二度と立ち上がれなくする感じ。

ただ、確かにお金持ちの家に生まれて、甘やかされたのかもしれないけど、この女性、それだけではなくて非常に優秀なので、付け入る隙を与えない、というのもあると思います。だから、全てを与えられた女性、なんです。

しかし、だからといって人を傷つけ倒していいというものではないですけどね。思うに、そこまで優秀な人って、二つに分かれるような気がします。

この女性のように他人を傷つけて平気でいる人と、人間関係もそつなくこなしてしまう人。まぁ、その違いの理由は色々あるのでしょうけど、機微な内容にも触れそうなので割愛させていただきます。

またこの話で「スポイル」という単語が何度も出てくるのですが、ダメにする、甘やかす、という意味らしいですね。

この女性はスポイルされすぎたがために、いざ自分が傷付いたら、なかなか立ち直れなかったらしいんです。この話の中でも、まだ立ち直り切れていないらしい。

そういえば、ドSの人って攻撃は得意だけど、ディフェンスがスコスコだから、いざ攻められると弱いという話を聞いたことがあります。

そうなのかもしれないけど、でも、それって勝手な言い分のような気がするなぁ。守るのが苦手なら攻めるなよ、という感じ。自分がやられて嫌なことを相手には平気でする、しかも「俺、ドSなんで」っていうのは通用しないと思います。

結局、想像力がないんですよ。相手の立場になって考える、という想像力の欠如。

ん? ちょっと話がズレましたかね?

なんつーか、やっぱ甘やかすのはダメですね(ざっくり)。でも、厳しすぎるのもなぁ(ざっくり)。

「嘔吐1979」

ホラーテイストの作品。村上春樹はたまにこういう作品も書きますね。

最後、村上春樹がこの話の主役を追い込むような発言をするのですが、この主人公が逆に村上春樹、そして読者までもを追い込むように切り返すんです。

ここら辺が怖くて、そして作品として上手さも感じました。

「雨やどり」

村上春樹が小洒落たバーで夕方雨宿りしてる時に、以前インタビューされた元編集者の女性と偶然会った話。

金で女を買うかどうか、という話になり(女性相手にすげえ話するなあ)、その編集者の女性は行きずりで金で寝てしまった話をするんです。

で、どういうわけか、そうすることを繰り返すうちに、それまで鬱屈していた精神が晴れたらしいんですね。

もちろん、その時寝た男たちとは二度と会わなかったらしいのですが。この場合、消費されたのは男の方かもしれないですね。いや、双方がお互いに消費し合ったのかもしれない。

ま、正直なところ、なんだかなぁ、という感じ。

最後に村上春樹が、自分と寝るとしたら幾らくらい?とセクハラ発言をしたところ、2万、とその女性にとっての最安値を更新していました。

「野球場」

自分は不思議な体験が多い、と言う男の話。

今で言うストーカーっぽい感じの話。ずーっと好きな子の生活を、その子の部屋が見えるアパート借りて望遠レンズで観察するという、純度100%のキモい話。

しかしこの男、覗きをすればするほど精神が病んでいきます。岡田斗司夫の「アンドロイドは電気羊の夢を見るか?」説、人の形をしたものを破壊すると、その人の魂が汚れる、というのを思い出しました。

また、孤独になって精神が病む、という点では「雨やどり」の元編集者の女性とも似てると思いました。

やはり人間、社会的動物ですからね。社会を作らなければ、ひょっとしたら哺乳類最弱かもしれませんから。

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「ハンティングナイフ」

今までの話は全て村上春樹が誰かから聞いている、という体裁で話が進んでいったのですが、ラストのこの話だけ、話の主は村上春樹(であろうと思われる)の一人称でした。主人公の境遇なども照らし合わせると、この話だけは本人の体験談なのかもしれません。

太った金髪の女との会話などが挿入されるものの、基本的には不思議な母子の話。子供といっても三十路前の男です。しかし、非常に美しく描かれています。

作品全体も、ちょっと幻想的な雰囲気があります。村上春樹らしいバブルなリゾート地を舞台としているので、「現実的な」幻想的というか。

最後の夜のシーンは特に秀逸で、月とナイフと車椅子、そして海の情景は非常に美しい。

それにより、何を描きたいのかはわからないのですが、この車椅子の男が、本人の話の印象からも、どこかしら「飼われている」印象があるんです。

その飼われている男が常にハンティングナイフを(しかもこのナイフが非常に良いナイフらしく、それでいて美しい)持っている、というのが、何か示唆的ではあります。それが何なのか、全くわからないんですけど。

母親の方も神経的な病気があるようで、思うに、その綺麗な佇まいと脆弱な感じは、どこか希少種を思わせます。

その弱く美しいものが武器を持っているというのは、何か人に感じ入らせるものがあるような気がします。

そういや、毒を持ってる蜘蛛って小さいのが多いんですよね。腕力が弱いから毒を持つ。タランチュラも毒持ってますが、毒性はそれほど強くないらしいです。やっぱ蜘蛛としてはデカいですからね。毒に頼らなくてもケンカ勝てるということでしょう。

ん? ちょっと話がズレましたかね?

 

「デミアン」ネタバレ有り読書感想。中二的少年成長譚は世界の変革を目指す!

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ヘルマン・ヘッセの「デミアン」という本を読んだんですけども、なかなか面白かったですね。

本を開いていきなり副題が「エーミール・シンクレールの青春の物語」とあって驚いてしまいました。なぜ驚いたかというと、「エーミールと探偵たち」という、僕が大好きな児童文学がありまして、その主人公と同じ人物だと思ったからです。

おー! あの男の子の成長物語かぁ、なんつって。

まぁ、全然違ったんですけどねw そもそも作者違うしw

エーミールって名前、ドイツでは多いのかな?

ちなみにこの話、多分欧米の小説にはよくあることかと思うんですけど、修辞が巧みすぎて、何が言いたいのか却ってよく解りづらくなっておりますw

それもあって、全体的にどういう話なのか、正直掴みづらくはありました。

男の子は不良に憧れる

この世界は二つあって、家族の正しい世界と、まぁ言ってみればそれ以外の不良の世界がある、と割と冒頭で言うんですね。

しかし、その不良の世界に憧れてしまうのはいつの世の男の子も同じようです。このエーミール・シンクレールという男の子も、そういった悪の世界の吸引力に抗いきれずにいます。

ただ、その不良の子に早速酷い目に遭わされるんですね(^^;;

ジャイアンみたいな子に弱みを握られ、なんと金をせびられるという展開。子供なのに!、とも言えるし、逆にまだ成熟していない子供らしい、とも言える。いずれにしろ、いきなり非常に悪質な展開であります。

ただ、その弱みの原因となった、無理に不良っぽく振る舞うため嘘をついてしまった、というのもまた、よくよく思い返してみれば子供らしいのではないでしょうか。

善と悪の包括

そして、そんなジャイアンスネ夫を足して2で割ったようないじめっ子に悩まされていたエーミールの前に颯爽と現れるのが、この物語のタイトルにもなっているデミアンです。

このマックス・デミアンは、おそらくは歳上の転入生。その大人びた立ち振る舞いで他の生徒の注目の的だったらしく、かなり目立つ生徒らしいのです。ただ、その容姿の要素も大きいのではないか、と推測されます。平たくいえばイケメンです。

ゆすられ、それが理由で盗みを働いてしまったエーミールは、自分がもはや家族のいる善の世界の人間ではない、と精神的に追い込まれていたんですね(不良の世界に憧れたのに)。

それをデミアンは、学校で習ったカインとアベルの話を独自解釈をすることで、善や悪は解釈次第(だと思う)、という助言をして、エーミールを救ってみせます。

実はカインが優れた人物なので、周りが恐れたから現在のような話が残っているのではないか、ということです。

これはキリスト教社会では大問題となるような解釈だと思うんですよね。これを書いたヘルマン・ヘッセはなかなかの革命者だと思います。

他にもデミアンは聖書の解釈をかなり自由に、詩的に、革命的に行います。それは、画一的なものの見方への反逆であり、子供世界からの決別であるように思うんです。そういう考え方をシンクレールにも促すんです。導いていく、という感じ。

それから、物語の後半に差し掛かる頃に、オルガン奏者が出てきて、エーミールと色んな議論をしていくなかで、エーミールに成長を促します。彼もまたエーミールを導く人、といったポジションなんですけど、この人の顔立ちが、大人と子供の要素があるような顔立ちなんですね。

デミアンは、さっき言ったみたいに、悪的なものにも新しい解釈をし、善的なものも悪的なものも包括した価値観、そんな神の存在が必要だ、というようなことを言うんですけど、このオルガン奏者の二つの要素を持つ顔は、その象徴のように思われます。

父親への反発

こういった、悪の道へと足を踏み外してしまった、と思っているエーミールの心情は、子供なら誰しもあることなのかもしれません。

また、その際、自分の嘘に簡単に騙されてしまった父親を軽蔑し、それが多分初めて大人への階段を登った第一歩だった、というような描写があるのですが、これもまた誰しも思い当たるところではないでしょうか。

思春期の一歩前、大人になる準備期間のそのまた準備期間、初めて自我が芽生える男の子、という感じ。

またこれは、父親は越えていくべき存在、として描かれた、ということなのかもしれません。

エーミールの家の門には紋章があって、それは古びて詳細はよくわからなくなっているんですけど、その紋章をデミアンがいたく気にいる、というか注目するんですね。

で、その紋章をエーミールが想像を足して絵にして描き上げて、デミアンに贈るのですが、出来上がったのは卵の殻を破る鳥の絵なんです。

これはまんま、エーミールの成長というか、巣立ちを表してもいるんでしょうが、物語的には、古い世界を壊して旅立っていくことの象徴、となっています。

父親というのは、その古い世界の象徴なのかもしれません。

こんな描写もあります。エーミールがまだいじめっ子にゆすられていた頃、そのいじめっ子にそそのかされて父親を刺させられる、という夢をよく見ていたらしいんですね。

このエピソードは、物騒な話ではあるけど、父殺し、というオイディプス王が始まりであろう、物語の系譜だと思います。それは、前の世代を越えていかなくてはならない、という、これまた古い世界の破壊、ということの象徴なのかもしれません。

似顔絵

エーミールは高等中学に入ると、御多分に洩れず、わかりやすくグレます。

夜毎飲み明かして、両親や学校からもほとんど匙を投げられ、退学寸前というところにまで落ちぶれます。

この間、デミアンとはほぼ音信不通なんですけど、そんな折、一人の女性に一目惚れしてしまいます。

エーミールはグレてはいますが、異性に対してはかなりの奥手。プラトニックな恋愛のまま、声すらかけられません。ただ、この女性を見かけてからは、ピタリと酒や、それに伴う悪い友達とは縁を切り、元の読書好きな真面目なエーミールに戻るのです。

で、その女の子の顔を絵にしよう、と思い立ち、そして出来上がった絵を見つめると、その絵はその女の子よりは他の誰かに似ていることに気付きます。

それが誰か、なかなかわからないんですけど、ある日、それがデミアンであることに気が付くのです。

この感じがすごく良くてですね。好きな人を絵にする、という発想がまず素晴らしい。詩的でもあり、物語的でもあります。

そして、その女性が、尊敬する美少年に変わっていくところがまた素晴らしい。なんと言ってよいのかわからないんですけど、女性が男性になり、男性が女性になるというか、性の倒錯でもあり、性を自由に行き来する軽やかさでもあり。そして、性を超えた何かでもある。

そして、その描いた顔が、自分にも似ている、というんですね。ここがまた面白いところで、尊敬する、憧れる人の中に、自分の似姿を見ていたのかもしれないし、或いは、そうなりたい、といった思いかもしれないし、そもそも人が憧れるのは、根本的なところで自分と似ている人が、その対象になるのかもしれない。

恋い焦がれている人の顔が自分の尊敬する同性の顔になり、それがいつしか自分の顔に見えてくる、というのは、非常に面白い展開だと思います。

アイデンティティ的な問題にも絡んでくるし、エロティックですらあるし。それは自己愛なんですかね?

思うに、この話は、父親が象徴とする偽善的な古い世界から、新しい世界への旅立ちの話であり、その意味で本当の自分を探す旅の話であるかもしれません。

この似顔絵は、そのことを表しているのかもしれません。

男はみんなマザコン

そんな感じで、どうもデミアンにはなんとなく女性性を強く感じもします。(初恋の人と似てるくらいですから)

そしてそれは、母親の象徴かもしれない、と思うのです。

思えば、エーミールは常に父親を否定したり衝突したりしていますが、母親は一貫してエーミールの味方で、やさしく見守る存在なんです。

中学生になってグレたエーミールを正しい道へと導くのは、きっかけは一目惚れの少女であり、最終的にはデミアンでありました。女性と女性性のある憧れの人、それは母親の象徴なのかもしれません。

また、エーミールはよく同じ夢を見るのですが、その夢ってのが、先ず母親を抱く夢なんですね(^^;; まぁ多分それは親子の抱擁であるとは思うのですが、それから、その母親が半男半女の大きな人になって、その人に対して非常な欲望を抱くのですが、それがデミアンに似てるというんです。

これはやはりデミアンは母性をも象徴しているのではないか、という僕の解釈の裏付けのように感じられて興味深かったのですが、それは合ってたような間違っていたような、なんですねぇ。

エーミールが大学生になって、デミアンと再会するんですけど、その際、デミアンの実家に招待されます。そして、デミアンの母親(エヴァ夫人といいます)と会うことになるんですけど、その母親ってのが、そのエーミールの夢に出てきた半男半女の大きな人そのものだったんです。

で、その後エーミールはこのエヴァ夫人に、なんと恋心を抱いてしまう(多分)というペタジーニ的展開になるんです。

なぜエーミールはデミアンの母親であるエヴァ夫人、つまりは母性の象徴に恋心を抱いた(多分)のか?

父親は打倒すべき敵で、母親は主人公を守り、導く存在、ということなのではないでしょうか。

思えば、母親とは子供を産む、謂わば作り出す存在です。この物語が古い世界を壊し、新しい世界を創造する物語なのだとすれば、母親は作り出す者の象徴となり、当然のようにエーミールを後押しする存在になるのです。

それを思うと、新しい世界を作る人であるデミアンは、やはりエーミールにとっては母親であり、エヴァ夫人は、まさに母親の母親というか、究極の母親の象徴だったのかもしれません。

そういえば、デミアンの母親は登場しますが、父親は登場しません。新しく作り出す人であるデミアンには、旧世界の象徴である父親はそもそも存在してはいけないのかもしれません。

こう考えていくと、父親を倒し、新しい世界を作らなくてはいけない男の子は、男である限りは必然的に全員マザコンと言っていいでしょう。

突然の中二的展開

エヴァ夫人の話では、デミアンは最初に会った時からエーミールの額に印を認めていたって言うんです。

どうも、「選ばれた人」にのみ、その印が見えるらしい。そして、その印がある人たちのサロンみたいなものがあり、世界の今後について話し合うんですね。

ここにきて、いきなりの中二的展開を見せ始めるんです。

よくよく考えれば、エーミールという人は、自分は人と違っていると感じ、周りの人間を見下しつつ引け目がある。本を読むのが好きな内向的な人柄で、そして女性には全くの奥手だという。こうしてまとめてみると、中二病満載のオタクそのものですね。

そして、そんな自分が、デミアンエヴァ夫人という、たまらなく憧れ、この上なく美しい母子に「選ばれ」るのです。しかも額に印のある選ばれし人…。

なんだかすごい超展開になってきました。一人の少年の成長物語かと思っていたら、世界を救う中二的物語にメタモルフォーゼしてきました。

いや、元々デミアンという割とマジカルな人物がいたわけですから、そもそもがそういう話だったのかもしれません。

壊れる世界

最後は唐突に(というわけでもないけど)戦争が始まり、デミアンも、そしてエーミールも戦場へと駆り出されてしまいます。

デミアンはここで、戦争に行くことは本意ではないが、世界が新しくなるには壊さなくてはいけない、と言いいます。ややもするとある意味では戦争賛美と取られてしまうようなことを言うんです。

しかしそれは、戦争と対峙するためにはそう思わなくてはやっていけないような、方便のようにも思えます。

と同時にまた、やはり世界の行き詰まりを感じていたデミアンの、ある意味でのそれは本音であるようにも思えるんです。

これはおそらく、ヘルマン・ヘッセの、起こってしまった戦争に対して、せめてもの意味づけを行った行為なのではないか、とも思えます。全てを否定するには、あまりにも痛々しく、やるせない。そんな気がします。

訳者の解説が素晴らしい

ただまぁ、最初に言った通り、なんせ修辞が巧みなもんですから(笑)、全体としてはよく意味の分からなかった話ではありました。

しかし、訳者の解説が良かったんですねぇ。さすが原文に触れた人!

訳者の高橋健二氏によると「印のある人」「目覚めた人」とは「自己を求め自分の真の運命を生きることが義務」であるということなのだそうです。

「印のある人」「目覚めた人」という中二病的展開には、そういう意味づけがあったのです。で、あるならば、中二病とは自己を求める行為なのではないでしょうか。

そう思うと、中二病的行動が急に色彩を変えてきます。

それまでは黒歴史、自嘲気味の笑いの対象ですらあったものが、自分を探す行為の一環であって、人生の通過儀礼ですらあるのではないか。だから思春期真っ只中の「中二」なのです。

また、高橋健二氏の解説によれば、ヘッセは第一次世界大戦前の欧州の行き詰った世界に批判的であり、大戦の衝撃がこの物語を書かせた、とあります。

おそらくこの物語は大戦前、そして大戦によって壊れた世界を新しく作るべく、当時の若者たちへ向けたメッセージであったのではないかと思います。であるならば、物語の途中で大きく中二的展開に舵を切る少年の成長譚、として綴られたのは必定であったのかもしれません。

少年に課せられた課題は、古い世代を越え、より優れた人間になることです。それは行き詰った世界を変えていく人の姿そのものであり、また、進化し、刻々と変化する環境へ適応するための人間の宿命でもあります。

また、デミアンがエーミールに対して言った言葉の中に、様々な団体は腐敗し、人々の生活がそれまでの規範と合わなくなってきている、と語っています。

これはなんだか「ジュラシック・パークでマルカムが言ったことに似ていて興味深い。マルカムよりも、ひょっとしたら70年近く前に、既に同じような状況だったのかもしれない。

azzurri.hatenablog.com

「いぬやしき」ネタバレ有り感想。シリアス演技のノリさん最高!

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以前、ノイタミナ枠で「いぬやしき」というアニメが放送されてたんですけども。

冴えない老人(と言っても定年退職前)が正義のヒーローで、イケメン高校生が悪役というエキセントリックな内容のSFアニメなのですが、これがまためちゃくちゃ面白かったんです。

で、その本放送中に実写映画化のCMが流れまして。それだけでも、ファンとしては嬉しいのですが(まぁ、残念実写版が大量生産されている現状があるとはいえ、実写化=人気あるということなので)、それだけに留まらず、なんとなんと、主役が木梨憲武というではありませんか!

これは本当にびっくり&嬉しい! まさにフェスティバル&カーニバルです!

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とんねるず世代

一番面白いと思う芸人は誰かと問われるならば、それは色々いすぎてちょっと難しいのですが、一番好きな芸人は誰かと問われたならば、それはとんねるずです。

もう、ホント、夕ニャン世代ですからね。そういった意味ではとんねるず直撃世代です。

昔はとんねるずは本当にスターで、普通にゴールデンで連ドラの主役を張って、普通にヒットチャートの上位にいましたからね。

しかも、Hジャングルwith Tみたいな突発的な企画モノじゃなくて、普通にアーティストとしてコンスタントにシングルやアルバム出して、という流れでです(ダウンタウンで言うと、GEISHA GIRLSはCD買いました。その話はまた後日)。

そして、看板番組では視聴率30%とかいうお化けみたいな数字叩き出すし。

そんな芸人、とんねるずだけですよ。

というより、「芸人」ってイメージではないんですね。それとは一線を画する「タレント」「スタア」って感じ。アイドルですらある。二人とも背が高くてカッコいいし(石橋182、木梨178)。

最近は事務所の力関係や、色々とリテラシーが煩くなった世間の風潮で、めっきりテレビで見かけなくなってしまいまして、非常に寂しいです。

しかし、最近はタカさんがYouTubeで活躍していますね(あっという間に登録者100万人行ってました)。ノリさんは森山直太朗が作った歌を歌ってて、相変わらず歌上手かったです。活躍の場があることはファンとしては嬉しい限りです。

ノリさん最高!

というわけで、映画「いぬやしき」を観に行ったのですが、アニメが面白かった、というのもあるのですが、それよりはノリタケが主演という要素が大きかったです。

で、そのノリタケの演技はどうだったかというと、これがやはり良かった! ここらへんは、さすがにゴールデンのドラマの主役を何度も勤めただけのことはある、といったところでしょうか。

多分、自身初の老け役への挑戦なのに、その哀愁がなんとも言えなく味があって、当たり前なんですけど、おふざけ一切なし! もう、ホント役に徹していた感じで、実存感がすごくあった。木梨憲武の演技力の高さを改めて知らしめた形になったと思います。ノリさん、こういうシリアスな演技もできるので、もっともっと映画に出て欲しいです。

しかも、宇宙人によって機械に改造された、という設定なので、空を飛んだりして、体を張る役なので、運動神経の良いノリさんにはぴったりの役なんです。

敵役の佐藤健に相対した時、ノリタケの方がデカいというのもまた良い点で、なんとなく強そうな、頼りになりそうな感じを出せる。

演技陣は他にも、力のある役者ばかりが出演していたので、一つ一つのシーンはとても良くて、むしろ画面自体にはアニメよりも気持ちが入っていたように感じました。

ちなみにアニメ版では犬屋敷壱郎の声をあてたのは小日向文世! こちらもまたイメージに合っていて、とても良かったですね。こういう作風なので、変にアニメアニメした「作られた声」じゃなかったのが却って良かったと思います。それに彼は芝居も上手いし。実写版主役が小日向文世でも良かったと思います。

また、獅子神の親友・チョッコーをアニメで声をあてていた本郷奏多が実写版でも同じ役を演じていたのは胸熱でしたね。こちらもイメージにピッタリでハマっていたと思います。

更に、主題歌もアニメに引き続きMan with a Missionが担当。こちらもやはりカッコ良かったです。作品のイメージにも合っていますし(←ここ重要)。

残念な日本映画的実写化

しかしながら、じゃあ映画としてはどうかというと…、割と残念実写化の部類に入るのではないかと(^^;;

脚本や所々大事なところで、アニメとはストーリーが変更されていました。

結果良ければいいのですが、残念ながら作品としては悪い意味で日本映画的な予定調和的なオチに落ち着いてしまったように思います。

尺や予算の問題で仕方のない面もあったかもしれないのですが…。

特に残念だったのは、壱郎が徐々に家族との絆を深めていく描写がなく、ひたすら家族から疎まれ続けていた点ですね。あれではクライマックスで娘を助けるところに今一つ感情移入できません。

そして壱郎の娘・マリとチョッコーの関係性も大事だったのですが、そこも描かれていませんでした。この二人の関係性も、娘と父親の関係にとっては重要な要素だと思うからです。

とはいえ、好きなアニメの実写化を、ノリタケ主演で観ることができたのは良かったし、映画としても、色々腑に落ちない点もあるけど、まぁ全体的には楽しめたと思います。


「アンドロイドは電気羊の夢を見るか?」ネタバレ有り読書感想。人と似ているものを壊すと人間性が失われるか?

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劇場で映画を観たり、岡田斗司夫チャンネルの解説を観たりして、改めてまた読みたくなったのが、サイバーパンク映画の金字塔「ブレードランナー」の原作小説である「アンドロイドは電気羊の夢を見るか?」です。

そこそこ前に読んだので、やはり結構忘れてましたね(^^;;

一度読んだり観たりしたはずの映画、漫画、小説などが、時を経るとほぼその内容を忘れてしまうのはなぜでしょう?

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↑こちらは映画公開記念特別装丁

サイバーパンク描写はちょっとわかりにくい

もう地球は見捨てられた存在、という設定で、ある種の厭世感に溢れています。ここらへんがまずサイバーパンク

登場人物たちのセリフも、景気の良い内容はひとつもないw いやぁ、不景気ですねぇ。

また、未来の話(設定的には1990年代だけどw)なので、それっぽい道具がたくさん出てくる。いやぁ、サイバーパンク

しかし、それらがどういうものだか、文章からは今ひとつよくわからないです。

まぁ、そういうところは読み飛ばして、雰囲気だけ掴むようにしようと思って読み進めました。

二つの視点から物語が語られる

以前見た岡田斗司夫の動画で、人に似たものを壊すと魂が汚れる、というのがこの作品のテーマだ、という話を聞いていたので、そう思って今回読み返してみたのですが、確かに、なるほど、と思いましたねー。

ちなみにこの小説は主人公であるデッカードと、そして主役ではないけれども、もう一人イジドアという狂言回し的な役割の人がいます。

この物語は、この二人の視点から交互に描かれます。つまり二方向から物語が進んでいくのです。

イジドアはピンボケと呼ばれる、ある種社会不適合者のような人物なんですけど、その実、他人ばかりか猫にまで感情移入できる人です。

ま、ちょっと様子がおかしいところはありますが、なんというか、全体的な印象としては、今の我々からするとごく普通の、良心的な人です。

それに対して、主役であるデッカードはいつもイライラして、他人にも高圧的だったり、喧嘩腰だったりして、終始落ち着かない。

そして、やたら本物の動物を飼うことにこだわってるんですけど、感情移入の対象、というよりは、動物を買うことそれ自体が目的化してしまっている感じです。

やはり賞金稼ぎなので、何度もアンドロイドを破壊しているからこんな性格になっちゃったんだろうな、と思ってしまいます。これは多分岡田斗司夫の解説の影響がモロに出た解釈でしょうねw

変わっていくデッカード

しかし、このデッカード。物語を通して変わっていきます。だんだんと、いわゆる人間らしい描写が増えてくるんです。

オペラ歌手になりすましている女性アンドロイド(ルーバ・ラフト)を始末しなくちゃいけないんですけど、そのアンドロイドに対して、あれだけ歌の上手い人は人類にとって必要なのではないのか、と自問してしまうんです。仕事しろよ、って感じなんですけどもw

そして、もう一人別の賞金稼ぎ(フィル・レッシュ)が出てくるんですけど、このフィル・レッシュがルーバ・ラフトを撃ち殺した時、怒りとも悲しみとも後悔ともつかない感情が、デッカードの中から溢れ出てくるんですね。

ここが非常に人間臭くてですねー、デッカードが徐々に変わってきたことがわかります。

あまつさえ、デッカードは殺された女性アンドロイド、ルーバ・ラフトの方に「同情」し、人間であるフィル・レッシュには、ある種の嫌悪感を抱くようになってしまうんです。

そして自分はルーバ・ラフトに出会うまでは、フィル・レッシュと同じように非情なバウンティハンターだったんだ、と気付き、悩んでしまいます。

なぜ、デッカードが人に似てるけど人ではないアンドロイドにも感情移入できるようになったのか、そのきっかけはよくわからないんですけど、多分、音楽なんじゃないかなぁ…と思います。いや、全然自信ないですけどw

ルーバ・ラフトの歌った歌があまりにも素晴らしくて心を動かされたから、ということなのかもしれません。まぁ、音楽には普通にそういう力があると思うんで、設定としては無理はないとは思うんですけど。どうでしょう?(^^;;

「人間らしい」って何だ?

また一方、イジドアの方にも動きがあります。自分の住んでいるマンションにアンドロイドたちが逃げこんで来るんです。

それで、彼らの身の上話を聞くんですけど、それがまた結構悲惨な話なんですね。まぁ、言ってみればアンドロイドは人間の奴隷ですから。

でも、見た目は人と全く同じだし、何より話してても人間と区別できません。完全にアンドロイドに肩入れするようになります。それで、アンドロイド達にこき使われながらも(←)、なんとか彼らを守ろうとするんです。

この物語の「視点」である二人の登場人物が、本来人間ではないアンドロイドに感情移入する。そして、何らかの形で同胞である人間に敵意を持つ。ここらへん、人間らしさとは何か、を問いかけ、その答えを探して話が進んでいく感じです。

じゃあ、その「人間らしさ」って何かと言ったら、まぁやっぱりこの物語の中では、人間に限らず、動物でもアンドロイドでも、他者への感情移入ができるかどうか、なのでしょう。フォークト=カンプフ検査もそのための装置ですし。

ただ、ホントにそれだけかなー?とも思ってしまいます。

デッカードにしても、イジドアにしても、それぞれの中にある正義というか、良心に従って行動した、或いは考えた、ということが大事なのではないかと。それは彼らが育ってきた環境に起因するものかもしれないし、元々持っている資質のようなものだったかもしれません。

とにかく、彼らは助けたり、考えを変えたり、悩んだりしました。行動したんですね。

それを思うと、多分「人間らしさ」って感情移入するだけじゃなくて、感情移入したその先に何をやるか、っていうことなのかなと思います。

展開は面白いけど…

で、物語の展開の方なんですけど、ちょっとこれがまたよくわからないところが散見されるんですよね。

デッカードがアンドロイドの罠に落ちて、見知らぬ警察組織に逮捕されてしまうんですけど、先ずこの施設は何なのか、そしてこの中の誰がアンドロイドで誰が人間なのか、もう謎だらけ。

確かにスリリングではあるのですが、いかんせん全てが薄ぼんやりと霞を透かして見るようで、よくわからなかったですね。

最終的にはアンドロイドの告白で全体のからくりが暴かれるのですが、それでも今ひとつ謎。割と辻褄の合わないところが多いです。

そしていよいよ物語は佳境に入っていく、というところもなんだか辻褄が合わないように思いました。

マーサー教のマーサーは売れない役者の過去の映像だったり、レイチェルは実は賞金稼ぎ相手に色仕掛けをして仕事をさせにくくしたりと、二転三転の展開は確かに息をつかせぬような意外性に満ちています。

でも前の展開と整合性がないように思うものも多々あるんですよね。面白くはあるけど、「あれ?」と思い、若干ついていけないところもある。

だってレイチェル、前半では自分がアンドロイドだと思ってなかったじゃんw

まぁそれもね、アンドロイド側、アンドロイドを製造するタイレル社側のチームワークによる人間側への揺さぶり、といった展開だと思えばそうなんだろうけど、ちょっと気をてらいすぎというか、複雑にすぎるような気はしますねぇ。考えすぎちゃったかな、というか。

それから、物語ラストに向けてのデッカードの行動や心情の変化が、その場その場で唐突過ぎて、ちょっとついていけなかったし、わからなかったですね。

結局、マーサーとは何だったのか? レイチェルはどうなったのか? 謎は残ったままだったし、最後もハッピーエンドなのかバッドエンドなのかよくわからず、もやもやした感じというのが正直な印象です。

ただ、奥さんとは冒頭とは打って変わって、しっくりと愛を取り戻した感じ。じゃあ、ハッピーエンドじゃん。

人と似ているものを壊すと人間性が失われるか?

そんな感じで、岡田斗司夫の強い影響の下、読み返してみたんですけどw ちょっと思っていたのと違いましたかねぇ。

何が違ったって、デッカードが人と区別のつかないほど人間そっくりであるアンドロイドを殺しまくったら、逆に人間性を取り戻していった、っていうところ。

なんかテーマと逆ですよね(^^;;

ただ、単純に逆とも言い切れないような気もします。

デッカードはアンドロイドを殺していく毎に、どんどん疲弊していってるように見えたんですね。

デッカードはルーバ・ラフトとの出会いによって、アンドロイドを殺す毎にその意味というか、自分のやった行為に向き合って、考えていったのかもしれない。

だから、アンドロイドを殺す毎にどんどん疲弊していくんですけど、その疲弊と引き換えに、だんだんと人間性を取り戻していったのかもしれません。

そして最後、デッカードが手に入れたのは妻の愛だったように見えるんですね。

ここは、人は人に似ているものを壊すと人ではなくなる、とは確かに一見逆なんですけど、作者のフィリップ・K・ディックが、主人公・デッカードを疲弊させ、考えさせることによって、人の心を取り戻させたのかもしれない。

そう思うと、なんとなく辻褄が合うような合わないような。

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「太陽の塔」ネタバレ有り読書感想。ひねくれきった恋愛小説。

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森見登美彦がすごく好きです。

最初はテレビアニメの「四畳半神話大系」を観たのがきっかけだったと思うんですけど、それ観てすごく面白くて、原作小説も読んでみたい!と思ったのがきっかけで、これまで結構読んでいます。

で、この「太陽の塔」で森見登美彦日本ファンタジーノベル大賞を受賞して、デビューへと至るわけです。

しかし、このデビュー作で、後の森見登美彦のほとんどの作品の要素が詰まっているように思えます。「あぁ、ここが源流なんだぁ」と、わかりやすいくらい原点です。

文章が巧み

もう、デビュー作から森見登美彦の文体が確立されていますね。やはり、村上春樹なんかもそうですけど、早くに自分独自の文体を見つけた人は強いですよね。もう、随所に森見登美彦節が炸裂しています。

ふられた彼女にストーカー行為をして、今の彼氏(っぽい人)に追い返された、というだけのくだりがあるんですけど(ホントに主人公か?w)、それを普通なら情けない感じでちょっと暗い感じで俯き加減で書くと思うんですよ。

しかしこの作品の主人公は、それを居丈高に、しゃあしゃあと述べるんです(ストーカーのくせに)。その感じがむちゃくちゃ笑えて。相当情けないはずなんですけど、すごい偉そうなんですよ、この主人公。

他にも、レンタルビデオにAVを借りる、っていうだけの行為もやたらと高尚な行為に美化してみたり。

あとは、常連になっている色んなお店の女の子の店員さんに、一方的な事実無根の妄想を膨らませ、ドラマティックな気分に浸ってみたり。

そんな、なんでもな(くもなく、割と異常だけどw)い日常を、微に入り細を穿ち、大げさに高尚に書くだけに留まらず、妄想も多分に交えて描いていくのが、すごく可笑しいんです。

とにかく文章が巧みで、情けなくもいじらしい主人公の個性は森見登美彦ならではで、唯一無二のものがありますね。

あと、地名などを意図的に、巧みに取り入れてるんですけど、これがまた見事で。やはり、その地名から来る雰囲気というかイメージというものは確実にあると思います。

しかもこの作品の場合、それが京都なんですね。京都っていうだけで、もう独特の土地のオーラのイメージがあるじゃないですか。

でまた、京都に住んでいる人じゃないと、言われたところで全然わかんない地名がバンバン出てくる。御影通り、白川通り、下鴨泉川町、田中大久保町、四条河原町という具体的な地名、果ては京阪電車叡山電車といった鉄道の名前まで出てきます。

知らない土地の具体性だけでもロマンがあるのに、字面からくる想像力の喚起という効果もありますよね。

なにより、そうやって嘘でもいいから具体的に名前を出して描写していくと、臨場感が出てきて、その効果を狙ってやってるように思うんですよ。これもまた見事な点ではないかと。

また描写力で言うと、この作品のタイトルにもなっている太陽の塔が出てくるシーンがあるんですけど、その描写力がまた素晴らしい。森見登美彦太陽の塔評がホンット、的を射てて、びっくりしました。ひょっとしたら、太陽の塔の評論だけではなく、それは岡本太郎に対する鋭い評論ですらあるかもしれない。それくらい素晴らしかったですね。

 

モラトリアムは理想郷

そしてそんな日常が、お前ホントに大学生か?と疑いたくなるくらい中二なんです。さっきも言ったように、とにかく妄想を爆発させまくって、そこに安住している。飾磨という友達の「我々の日常の90%は頭の中で起こっている」は、もう名言中の名言ですね。

しかし、そんなモラトリアムでありながら、自由な大学停学時代の日常は、ある種とても理想郷的で、なんともうらやましく感じてしまうんですよね。ここらへんは、又吉直樹の「火花」にも通じるところがあるような気がします。

 

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後の森見登美彦作品に出てくる、どうしようもなくも愛すべき京大生の友人が早くもこの作品で総登場するような感じなのですが、その紹介パートがまた可笑しくも素晴らしくて。

ここらへんの人物描写や日常の細かい描写が非常に実存感があるんです。それでいて物語的に一息つけさせるというか、緩急を演出しているんですね。

それで、やはりすごくツボなのが、この人たち、ホンットにモテないところですねw 他人ごとにはまるで思えなくてw

クリスマスは恋人の季節、っていう日本特有の風潮を「クリスマスファシズム」と呼ぶなど、モテない男連中のひがみが満載でありつつ、それでいてどうしようもないパワーもあるよくわからんリビドーに満ち溢れているんです。

この感じは後の森見登美彦作品にもほぼ一貫して見られるモチーフであり、それが既にデビュー作にしてほぼ確立してるんですよね。ひょっとしたら、それが森見登美彦の全てかもわからんですねw

そして、それと同時に、将来に不安を抱く若者の苦悩の色もですねー、物語が進むにつれ、徐々に濃くなっていくんですね。で、あからさまにそれを描くんじゃなくて、ユーモアの合間に忍ばせる感じで、そのヒュッと牽制球を投げられる感じが、逆にこう、胸にスッと入って来るというか。そういうところも、上手いと思います。

虚実入り乱れるファンタジー

そんな感じで、モラトリアムな学生の生活を時に大げさに時にリアルに描いているのですが、物語全体としては、虚実入り乱れる風変りなファンタジーといった感じで、これがまた面白い。リアルの中に入り込むファンタジーというか、そのバランス感が絶妙なように思います。

物語の核は、主人公が水尾さんという女の子とヨリを戻す、ということなんですけど、それが徐々に徐々に進んでいくんですね。全体としては「後退」していくというか。どんどんどんどん水尾さんが遠ざかっていく。そして、水尾さんの謎が深まっていく。

元カノの彼氏かと思われていた男の正体(遠藤)がわかっていったり、後輩の近所に通るはずのない叡山電鉄が通ったりと、物語の革新に迫る描写が、主人公の下らない日常(笑)の間に徐々に徐々に現れてくるんです。

そして、主人公自身も叡山電車を見かけ、水尾さんが出演する謎の映画を鑑賞し、遂には主人公が水尾さんの夢の中へ入ったりと、虚実が渾然一体となっていき、幻想小説的な色合いが濃くなっていくのです。

この、徐々に非日常の世界に読者を連れて行く感じが、非常にいいんですね。

ただ一つ難点

しかし、暴漢から助けてくれたとはいえ、美味しい珈琲を振舞ってくれたとはいえ、作中ではものすごく嫌な、ある種ライバルであるはずの遠藤に、やすやすと、自分が未練タラタラの水尾さんとの恋路を応援するのは、ちょっと意味がわからなかったです。

そこに何か明確で納得のできる理由づけや動機があれば良いのですが、それがわからなかったです。唐突なんですよね。

だから、ここだけはいただけない。読んでいて気持ちが乗っていかない。しかも、水尾さんへの強烈な未練は、この物語の通奏低音のようになっているので、とても重要なところだと思うんです。

それなのに、主人公の行動は理解しがたいものがある。ここは大きなマイナス点だと思います。

クリスマスを台無しにしてやる

で、この物語の一つの大きなクライマックスは、クリスマスイブのええじゃないか騒動なんですけど、それはどうやって起こすのか?というのが読んでいてポイントでした。

そんなこと言って、また言ってるだけで起こせないんじゃないのお?と思って読んでいたんですw ホント、この人たちの日常はまさに「我々の日常の90%は頭の中で起こっている」でしたからねw どうせまた何もできずに終わるのだろう、と高をくくっていたのですが。

そしたら、主人公の友人・飾磨の、何気ない「ええじゃないか」の一言から大騒動に発展していくんです。これがまた、然もありなん、といった感じで無理なく読めましたねぇ。なんか、妙なリアリティがある。

またこのクリスマスイヴにええじゃないかをブチ当てる発想がまた秀逸。クリスマスを台無しにし、破壊するのにこれほど適したものはない。

僕もクリスマスファシズムはなんとか打倒したいと思っている派なので、ここのクライマックス、クリスマスを破壊する(しかも平和的に、お祭り的に)感じは本当に胸がすく名シーンでした。

ラストが粋すぎる!

そして最後の最後、本当のクライマックスです!

主人公の恋愛否定は論理的にも高まりを見せ、残りページも最後の見開きとなり、このまま振られたままで終わるのかな、と思ったていたら、さらりと大逆転(だと思う)!

そのさりげなく、何気ない感じ、そして詩的とすら言え、こう胸にさわやかにストンと落ちるという。

そして、最後のおそらくはハッピーエンドを、そんなもの見たくないだろ?という感じで一切描かない。そうとは匂わせるものの、最後どうなったかは敢えて書かない。

そして、最後の一文、冒頭の言葉をちょっとひねって終わる。

こういう余韻の弾き方、突然に、それでも印象的に胸にグッと切なく来る感じで終わる余韻の弾き方、これはもう本当に切なく、爽やかで、粋です。

これは幻想小説でもなく、青春小説でもなく、恋愛小説だったんですね。

こんなひねくれた恋愛小説はまさに唯一無二!

しかし、解説が本庄まなみで、切ない余韻をブチ壊しにしてくれたのは、意外と森見登美彦の罠なのかもしれない。

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