酒見賢一は「後宮小説」「周公旦」、そして「墨攻」と三作読んだのですが、どれもめちゃくちゃ面白いです。今のところ酒見賢一にハズレなし!
そして今回ご紹介するのが「墨攻」なんですけど、これまた歴史上の出来事なのかフィクションなのか、曖昧模糊としております。それ故、何かこう、真に迫って来るような、リアルに感じることができます。
しかし、解説を読んだら、どうやらほとんどが作者によるフィクションだったようなんです。酒見賢一の特徴として、時折史実や歴史学の研究みたいなのを巧みに挿入してくるので、虚実がわかりにくいんですよね。そしてその混ぜ方がうまい!
だから、この物語の主人公・革離も実在の人物かと思っていました。多分、この話にある城攻めも架空の出来事なのでしょう。いや見事だったです。
ちなみにこの作品、漫画化もされ、映画化もされ、更には中島敦記念賞も受賞しています。更にちなみに、ジャケ写は近藤勝也。この方は「後宮小説」のアニメ版「雲のように風のように」でもキャラデザを担当。
ハリウッド的王道なエンタメ展開
まー、とにかく面白かったですね。全体としてはハリウッド的な王道エンタメ展開という感じです。
幾つも乗り越えなくてはいけない壁が立ち塞がり、その度毎に乗り越えていくのですが、それが徐々に高くなっていくんですね。次はどうなる?次はどうなる?って。
そして何と言っても、主人公の革離がカッコいいんですよね。
梁という小国が趙という大国の軍勢に攻められるということで、先頭集団でもある墨子教団に助けを求めるんです。
でも派遣されたのは革離たった一人。いわば、たった一人で素人集団の邑人を束ねてプロの軍隊に対抗しなくてはならない。どうすんの?!という感じです。こりゃもうダメだぁ、いや一人で対抗できるくらい墨子教団ってのはすごいのか?! もう冒頭から掴まれまくりです。
まぁ、通常墨子教団といっても複数人で応援に来るのですが、革離一人で来たのは教団内でいざこざがあったからなんですね。売り言葉に買い言葉というか。そこの展開もまた、非常に男気に溢れています。自分の信念を曲げないというか。
そして、この革離が八面六臂の大活躍をする、というのがこの物語の肝なのではないか、と思います。
その当時最新の兵器を教えて邑人に作らせ、非常なカリスマ性を発揮して、邑を統率し、そしてほとんど寝ずに誰よりも働きます。自分の国じゃないのに、です。これがいわゆる「兼愛」という精神なのでしょう。
そしてまた、酒見賢一の戦闘描写が非常に上手い。細かいながらも勢いのある描写で、ジリジリと手に汗握る感じというか。また、基本的にはフィジカルな戦いなんですけど、兵器がその当時の最先端のテクノロジーなのが面白い。
こうして戦闘のプロ中のプロである革離の周到な準備によって、邑人という素人が、趙という巨大な軍事力を誇る敵を相手に圧倒するという。その、小が大を倒す感じが非常に小気味良いです。
弱小野球部が甲子園常連校に頭を使って勝つ、というような感じに似てると思います。
墨子教団の矛盾?
墨子は「兼愛」という思想を唱えていたらしいのですが、平たく言えば博愛主義だと思います。
解説に書いてあったのですが、家族愛を基本とする儒教に対しての思想なのだそうで、家族を重視すると特権が生まれることになり(世襲制とかそうだと思います)、差別的な傾向が出てしまう。そうではなくて、家族という小さな単位を越えて、広く人々を愛する、ということらしいんです。
しかし、そういう博愛とは逆に思える面が墨子教団にはあって、それは戦闘集団ということです。これがまたかなり苛烈で、理論的にも技術的にもその当時最先端の戦闘能力を持っていたそうです。
ただこれは、戦国時代にあって兼愛を貫くには攻められることに対して守ることをしないと生き残れないから、ということらしいです。言ってみれば専守防衛ですね。
大国にやられそうな小国があり、そこから応援の要請があると、身を粉にして戦ったそうです。これもいわば兼愛、博愛の精神でしょう。困っている人がいたら、助ける。広く人々を愛するからこその行動でしょう。
しかし、この小説において、この戦闘、まぁ防衛なんですけど、これがさっきも言ったように苛烈なんですね。
墨子教団から派遣された軍師(この場合革離)をトップとする上意下達の命令系統は強烈に徹底され、大のためには小を捨て、異常なまでに禁欲的。
言ってみれば、統率する際の組織の作り方が非常に全体主義的なんですね。そうでもしないと守りきれないと言われれば、そうなのかもしれないんですけど、それが徹底されすぎてるようにも見えるんです。
この小説では、確かに、大国である趙の軍勢を幾度となく破ります。それはその徹底された組織力の為せる技だったと思います。
しかし、組織を重視するあまり、情の要素が欠けすぎていたようにも感じました。あまりにも杓子定規にすぎるというか。
革離が救うはずの小国の王子・梁適、その小国を滅ぼそうとする趙軍の大将・巷淹中、敵味方双方が墨子教団に対して何とも言えない不気味さを感じるのですが、それはこの点なのかもしれません。
博愛と言いながら、愛とは真逆のことをする。信賞必罰は大事なのかもしれませんが、禁を犯した者は平気で処刑する。解放された捕虜が帰って来れば処刑する。
博愛を突き詰めていくと、それは全体主義になってしまうというパラドックスがあるような気がします。よく考えれば、全員を平等に愛するということは全員を均一化するということで、それは全体主義と繋がるようにも思うんですよね。
兼愛と戦闘。一見、真逆とも思える墨子教団のこの二つは、実は根っこでは繋がっているのかもしれないのかな、とちょっと思ってしまいます。
梁適、巷淹中の感じた嫌悪感は、おそらくこの全体主義的な傾向だったのではないかと思います。そういった意味では、この二人は反全体主義的な感覚を持った人たちと考えることもでき、逆にものすごく広い意味で人類的な博愛の感覚を持っていたのかもしれないのかな、と。というより、情の部分が厚い二人だったのかもしれません。情って、そういう全体主義とは真逆のものだと思いますからね。
その一方で、梁城を守り、邑が生き残ることを一番考え、そして一番働いていたのは革離であったと思います。邑人に対する気配りにも骨を折っていました。邑があと少しで存続できそうなところまできたのは、紛れもなく革離のおかげです。
そして、革離は墨子教団の祖である墨擢の唱えた兼愛ということを強く信奉しているように思えます。自分のことは顧みず、人のためになることをする。彼を動かしていた根本はそういうことのように思えます。彼が示したのは、博愛の精神そのものと言えるのかもしれません。
とはいえ、全体を優先すれば、個は消される。さりとて、個を重んじれば、滅んでしまう。
そう言うと、非常時の場合は全体を優先すべき、と返される雰囲気が今は世界のどこにでもあるように感じられます。
この物語では、最後、革離は梁適に殺されてしまいます。理由としては、恋人(愛人と表記されていましたが、多分こういうことで合ってると思います)を処刑されたことへの恨みでした。
そして、革離を失った梁城は、趙軍に手もなく滅ぼされてしまいます。
全体のためと考え、情の部分をないがしろにした結果、負けてしまいます。
おそらく、この梁適は作者である酒見賢一による、墨子教団の戦い方へのアンチテーゼだったように思えてなりません。疑問というか。
梁適は、最初から革離に対して不快感を露わにし、革離に対して、元々の墨子の兼愛という精神からは革離の戦闘方法はかなり乖離しているようだ、と指摘もしました。
問われた革離の方でもそれには気づいていたようで、反論はしませんでした。というより、できなかったんですね。それは、革離の根本にあるのは兼愛の精神だったからだと思います。
そういった矛盾点を抱えながら、杓子定規的に全体主義的な墨子教団の戦い方を推し進めていった革離は、最後は梁適に殺されてしまいます。
何を優先すれば良いのか、実はものすごく難しい問題なのかもしれません。
負けを描いた方が面白い
この話、面白いのは、梁城、趙軍の双方が負けるんですよね。
趙軍は幾度なく、分厚い梁城の守りに跳ね返され、多大な損害を被ります。
一方、梁城の方は、梁適の?個人的な恨みによって革離を殺され、柱を失い、最終的には負けてしまいます。
やはり、勝ちよりも負けを描いた方が面白いと思うんです。
負けの方こそ、見えることも多いと思うし、勝ちよりも負けから学ぶことの方が多いと思います。実際、偉大な発見とかも、失敗から学んだ結果のものも多いように思います。
それに、敗者の方が、より濃いドラマがあるようにも思うんです。そこには悩みや葛藤や悔恨があるから。より人間臭さが出ると思うんですよね。それに、大抵の人はそうだと思うけど、人生、勝つよりも負ける方が多いじゃないですか。あのイチローだって負けの方が多い、って言ってましたからね。
二つのあとがき
僕が買ったのは文春文庫版の本なんですけど、元々は新潮文庫でも発売されていたそうです。それで二つのあとがきがあるんですね。
新潮文庫版は酒見賢一が、多分、まだ若かった頃の文章で、なかなかトンガっていて、硬い感じがしました(^^;;
いきなり、最近の小説はつまらない、とか、小説の未来が危うい、などと喧嘩を売ってくるんです。で、その後は「想像を絶する話」はありえない、ということについて延々と語っています。いやー、なんか、若さ爆発、って感じですね。
一方、文春文庫版のあとがきは、もう結構年を取ってからの文章なのでしょうか、かなりC調な、面白い感じの語り口になっています。
随分前に、墨子事件という事件が日本で起こったそうなんですけど、その際警察に意見を求められた時の話を語ってるんですけど、これがなかなか面白い。
これで自分も作家探偵だ、とが言って、その当時テンションが上がっている感じを書いてるんですね。その感じがなんか良くてですね、やはり人間歳を取ると、角が取れるというか、むしろ面白いものを求めたくなる、という傾向はあるのかもしれないですね。逆に若い頃は深刻ぶってトンガリたくなるというか。
その二つがこうして並んでるのがなんか、可愛らしいというか、面白いというか、面白いんですけど。この二つのあとがきを並べてくれたのは、なかなかの文春文庫のGBだと思います。
あとですね、酒見賢一があとがきで語ったところによると、詩の方が小説よりも言葉の力が強い、らしいんですね。いとうせいこうやアジカンゴッチなど、そういうことを言う人は多いんですけど、個人的にはそう感じたことはないですねー。
むしろ、詩だけでは足りない、とすら思います。そこには音楽の要素が必要なのではないか、と思うんです。