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僕が買ったもの、観に行った映画・ライヴなど、要は金を払ったものに対して言いたい放題感想を言わせてもらおうというブログです。オチとかはないです。※ネタバレありまくりなので、注意!

「ロスト・ワールド/ジュラシック・パーク2」(下)ネタバレ有り読書感想。マルカム先生、恐竜絶滅の真相を解き明かす!?


えー、すっかり寒くなってしまいました。10月です。下旬です。寒いです。

そもそも、夏のクソ暑い時季に同じ季節を舞台にしたクソ暑い小説を読んだら臨場感マシマシだろう、ということで読んだこの「ロスト・ワールドージュラシック・パーク2」!

そう、読んだのは夏なんですよね。しかし、更新をサボりまくってもう冬将軍の雄叫びが聞こえてきそうなサムサムな季節となってしまいました。

というわけで、今回は下巻の感想をば、書きたいと思います。

ちなみにこの本を読んだ夏って、去年のことですよ。

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マルカム、大いに語る

いや、マルカム先生、下巻も舌好調!

この作品の肝でもあるマルカム先生の大講演。これですよ、これこれぇ。

科学の客観性

客観性というものは存在しない、という観点が面白かったですねぇ。

マルカム先生曰く、科学と、文学や宗教の間には大きな壁があるそうなんです。

その壁とは客観性なんですね。

文学などには、観察者の視点というものが重要です。確かにそうですよね。その作者が何を考えているのか、何を訴えたいのか、そこが大事じゃないですか。

視点なくてしては文学はありえない。

一方、科学は客観性を重視したんですね。そこには逆に観察者の主観なんてありえない。

物事のありのままの姿、理をつまびらかにする。

それが科学でした。

ところが、この客観性は幻想だって言うんです、マルカム先生。

物事を観察すれば、その対象物に影響を与えずにはいられないんですね。

こことは今や自明の理だと。まぁ、「今」っつっても、90年代なんですけど。

まー、確かにそうかもしれませんねー。不確定性原理なんか、モロにそうですもんね。

恐竜絶滅の原因

先ず始めに言っときますけど、2021年の今では恐竜は絶滅していないことになっています。なぜなら鳥が恐竜だからです。

という説もある、という方が正確でしょうか。いずれにせよ、恐竜が完全に絶滅した、という説は現在では割と危うくなっている、とは言えるかもしれません。

この本が書かれた時は、まだ鳥が恐竜だとはわかっていないんですね(多分)。だから、一応ここでは「恐竜は絶滅した」という時代の話として聞いてください。

で、恐竜の絶滅なんですけど、恐竜が絶滅したのは行動の変化によるものではないか、とマルカム先生は仰います。

生物の行動の変化というものは、進化による変化よりも大きいのだそうです。そしてそれ故、適応力に欠けるかもしれない、とも言います。

変化が大きいと、それだけ、いざ変わった時に修正するのが難しいんでしょうね。

複雑な生物は、「進化」、つまり体の変化による環境への適合を必要としないそうなんです。頭良いですからね。こういう時はこうしたらいい、って考えて、やり方、つまり行動ですね、それを変えられる、ということだと思います。

たとえば、道具の使用、学習、協力などなど、それらで適応していくことができる。なるほど、そうだと思います。

シャチなどのクジラ類なんかは狩りの仕方を子供に受け継いでいきますもんね。

最近ではシャチがホオジロザメの狩り方を「発明」したらしいですね。

何年か前、はらわただけ食いちぎられたサメが打ち上げられることが多くなったことがあって、人間の仕業だろうと当初は思われていたらしいんです。密漁的なものだろうと。

でも調べたら、犯人(というのも変な言い方ですが)はシャチだったらしいんです。シャチはえらいグルメらしくて、美味しくて栄養もあるサメのはらわただけを食うらしいんです。

で、サメの狩の仕方なんですけど、サメって軟骨魚だから内臓を守る肋骨がないんですね。それで、シャチがサメの横っ腹を体当たりして内臓を破裂させるそうです。

なんせシャチは哺乳類の中で一番速く泳げますし、あの巨体ですからねー。タックルされたらひとたまりもありません。

それで仕留めたサメをゆっくりと食事するという。怖いですねー。

これも、言ってみれば「行動の変化」ですよね。体を変化させることなく、行動を変化させることによって対応する。

教育のために社会はある

でも、そうすることによって、自らの身体を進化させるということができなくなるらしいんです。そうする必要がなくなる、というべきか。

複雑な動物にとって、適応とは行動の変化であって、それは社会的に決定されることだそうです。

社会が決めるんですね。その種の個としては社会に適応しなくてはならない。環境の変化の適応は、個の社会への適応、という側面も多分に含まれているのかもしれません。

だから、社会が決める、つまり後天的に獲得しなくてはならないわけですから、教育がなければ、その種としての正しい行動が取れない、というわけです。

往々にして動物園の動物が子育てできないのは、そのような教育をされていないから、他の個体の子育てを見たことがないから、ということに由来するらしいです。

つまりは、あるべき社会の姿、即ち種としての自分の似姿を見ることができない、というわけですね。

だから、この話でのラプトルは秩序だった行動が取れません。頭が良い、という触れ込みなのにおかしいな、とは思っていたんです。そしたら、そういうことを描いていたんですね。なるほど納得でした。

この「頭の良いはずのラプトルがなかなかにして野蛮な頭の悪い行動をする」というのは第一作からあることなので、多分作者は続編も念頭に置いていたのではないでしょうか。

以上のことが理由で、この本の舞台となっている島のラプトルは、最も下劣な個体の方が生き残りやすいという…。

なんだか…、人間の社会と似てるな、と思ってしまいましたw

それでですねー、この教育ということに関して、下巻の冒頭の、大体100ページくらいまでですかね、そこにですね、人間が社会を作るようになったのは教育のためだ、ということが書いてあって、非常に感銘を受けたんですけども。

ここ読むだけでも、非常に価値があると思いますんで、是非、冒頭の100ページだけでも読んでみてください。お勧めです!

インターネットは人類の終わり

かなり大胆なことが書いてありましたねー。しかも90年代に。

サイバースペース、つまり今で言うインターネットですね。これは、人類の終焉を意味する、とも言うんですねー、マルカム先生。

進化が起こりやすいのは少数の集団である、と言います。なるほど。小回り利きますからね。

大きくなればなるほど、何も為すことはできなくなる、と言います。確かに大企業なんかはそういうこと、よく言われがちですw まぁ、実際はどうだかわかんないですけど。

で、マスメディアがやっているのはそれであり、全世界を均一化させている、と言うんですねー。なんせ「マス(大きな塊)」のメディアですからね。そりゃ大きいです。

ここでマルカムに憂慮されているのは知的多様性の喪失ですね。

多様性がない、つまり可能性、選択肢がなくなるということです。

そういうものが失われると、ヒトという種が停滞する。なんせ可能性がない、選択肢がなくなるわけですから、そりゃ停滞もします。

そしてマルカムは、精神の大量絶滅、と言います。

昨今の状況を見れば、それは当たっているように思えてしまいますねー。まぁ、こうやってワタクシもネットを利用してしまっているわけですが…。

90年代中盤にこういうことを予測しているのだから、マイクル・クライトンさすがだなー、とも思うが、その頃からそのような兆候は既にあったのかもしれないですね。

現代に甦った恐竜を描く

そして今回、やはり恐竜の観察の描写が多く、その点では前作よりも現代に恐竜が甦った、という醍醐味がありました。

しかも、その甦った恐竜が、本当はこうだったんじゃないか、という感じでかなり説得力ある感じで描かれており、それを観察しているわけだから、読んでて非常に楽しい!

一作目の単行本の帯文に藤子F不二雄が、恐竜を見るという夢が半分叶った、と書いてあったと記憶していますが、それはこちらのロストワールドの方がよりふさわしいかもしれません。

前作は確かに恐竜を蘇らせはしましたが、描かれ方として、人を襲うモンスターという側面が非常に強かった印象を受けます。

今回はどちらかというと、草食恐竜をのんびり観察するとか、自然としての恐竜、そこには食物連鎖があり、攻撃と防御があり、子育てがあったり、そういう「生活」があることが、丹念に描かれています。

実はこれこそ読みたかった、現代の恐竜小説だったかもしれません。

子供嫌い

あと、やはりマイクル・クライトンは子供が大嫌いだったのではないかと思いますw

キングという、謂わば敵役の一人がラプトルに襲われるのですが、それを観察小屋から子供たちが目撃するシーンがあるんですね。

大人たちは、見るな!と制するんですけども。そりゃそうですよね。でも、その制止を振り切るんですね、子供たちは。

そうまでして、子供たちは残虐な殺人シーンを見たがる。

これはハッキリと子供の残酷性を表したシーンだと思います。

よく考えたら、一種、異様なシーンでもある。

子供って、知識はないのはもちろんのこと、感覚もまだ完成されてないですからね。だから、大人よりも、そういうスプラッターな、残酷なものに対しても、変に耐性があるように思います。

そういう、子供の持っている怖さ、残虐性というものを、マイクル・クライトンは察知していたのかもしれません。

物語的にはイマイチ

そうは言っても、やはり恐竜の強さというか、怖さというか、そういうものは健在です。ティラノサウルスに延々と襲われたりとかね。

あと印象的だったのが、保護色を使って狩りをする恐竜。これはなかなか面白かったですね。カルノタウルスという恐竜なんですけど、もちろん実際には保護色を使ったかどうかはわかりませんが、物語的にはそういう設定を加えられていました。

この「見えない敵」というのがスリリングでしたね。しかも、設定的には現生の動物では考えられないくらいの保護色。

もう、ほぼ完全に後ろの景色と同化してしまうんですよ。もう、ほとんど光学迷彩ですね! 攻殻機動隊じゃないんだからw

そいういう動物がいるとすればイカとかですかね。透明になっちゃうってのは。あと、サフィリナという甲殻類がいるんですけど(攻殻?!)、それはもうかなり透明になっちゃうらしくて、最初その動画見た時はびっくりしましたけどね。

まぁ、そんな感じで「透明になる恐竜」ってのも危険度MAXでスリリングですね。ちなみに体長は7メートルくらいです。デカッ! そんなデカブツが透明になるなんて…、怖っ!

しかも、そういう恐竜に襲われるシーンの描写がすごいんですよね。手に汗は握る感じで。次から次へと襲いくる展開はスピーディだし、目が離せません。

でも…、ですね。割と退屈かなw 延々と続きますからねw その間、物語的には何も展開しないですから。ちょっと、そういうシーンが長すぎだったかな、というきらいはありました。

しかも、いかんせん魅力的なキャラがいないし、逆にスゲエムカつくキャラがのうのうとしているので、なんだか読んでて正直どっちでもよくなっちゃった感じですねー。

あと、善人であるエディがラプトルにやられた、てのもデカかったですね。その時点で、この一行がどうなろうと、もう興味はなくなっちゃった。

しかもエディのやられ方が、あっさりしてたんですよ。劇的な感じならまだグッと来るものがあったのかもしれないけど…。こういう展開は非常につまらないですね。

やはり読者に感情移入させる魅力的なキャラがいないと、せっかくハラハラする展開でも他人事になってしまいます。だから、そういうシーン読んでても、ただひたすら冗長なだけでしかなくなってしまいます。

ムカつくキャラと言えば、実は生きていたドジスンが、主役側の一人、サラに殺されてしまうんですね。サラは自分が生き延びるためにドジスンをティラノサウルスの生贄にしたんですけど、この展開は微妙でしたねー。

確かにドジスンはこの作品一番の悪役なんですけど、一市民がほぼ殺人行為をするってのは、僕の感覚からするとちょっと納得するのは難しい。

それでは、結局サラはドジスンと同じ穴の狢になってしまいますし、事実、そうなってしまった印象は拭えません。やはり、キャラ作りという面では、この作品は今ひとつ…、って感じでしたねぇ。

今回は、加害者が特に酷い目に遭うこともなくのうのうと生き延び、被害者が酷い目に遭う、という、まぁ登場人物的には読んでいてつまらない感じでしたね。

それにラストのシーンも、なんだか随分あっさり島を脱出しちゃった感じだし。その後あの島はどうなったかの言及もなし。

前作のようなカタストロフィ的なものはなく、後日譚もなし。正直拍子抜けした感じでしたねー。

そんな感じで、登場人物の感情移入とか、ストーリー展開という点では、今回は今一つ、という印象でした。

マイクル・クライトンの分身二人

でも、恐竜の描写とか、マルカムの台詞を使ってのマイクル・クライトンの主張とかは、実に読み応えがありました。

最後のマルカムとソーンの対になるセリフも面白かったですねー。

マルカムは、過去5回地球では大量絶滅があったが、次回それを引き起こすのは人間ではないか、と言います。

人間はひどく破壊的で、しかも効率良く破壊する。人間は地球にとって掃除屋の役割を担っているのではないか、と言うんです。

地球は何億年かに一回、舞台を掃除して、生物を次の段階に進化させているのかもしれない、と。

なるほど。なかなかにしてペシミスティックですけど、昨今の状況を考えると、この作品が書かれた当時以上にマルカムの台詞が刺さります。

この先見性というか、予言性というか、怖いくらいですね。

それに対してソーンは、それは所詮仮説であり、理論だ、と反対するんです。

仮説や理論は空想でしかない。後の世の人からは笑われる可能性も高い。それよりも、手で触れられるリアルなものの方がずっと大事だ、と言います。

順序立てて考えていけば、おそらくマルカムの方が正しいんです。でも、それもまた全部ひっくるめて、「お前が予想しただけでしょ」とソーンは言い放ってるわけなんですね。まだ現実に起こっていないし、これから起こるかどうかは未知数。

そんな先の予想よりも、今目の前で起こっていることに目を向けよう、という。最後に悲観的な予測を提出しながら、それを笑い飛ばすかのように希望を与えてくれる。なんだかソーンという人物そのもののような台詞です。

この人物は、この物語唯一の、そして本当に魅力的な登場人物だったと思います。

とまあ、最後に述べられた二人の論は両極端な話ですがが、二つともマイクル・クライトンの考えのように思います。

前者は警鐘、後者は科学や机上の空論に対する批判。

やはりこの話の本当の主役はマルカムとソーンなのかもしれません。

ただ、ソーンはそれなりに活躍したけど、マルカムは何も活躍できなかった…。まぁ、マルカムに語らせるにはモルヒネを打たないといけないらしいので、仕方のない展開だったのかもしれませんが。

 

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