村上春樹の短編集が好きで、何冊かこのブログでも感想文書いてみたんですけど、今回も村上春樹の短編集です。
今回はこちら、「東京奇譚集」。
これはですねー、タイトルで買ったところもありますね。もちろん、村上春樹の短編というのは大きいのですが。
「奇譚」って、なんかいいですよね。どことなく乱歩っぽい雰囲気があって。
そこに加えて「東京」ですよ。これはまさに乱歩だろいう、って。
もちろん、村上春樹に乱歩っぽいケレン味とかは全く期待してないのですが、でもやはりこのタイトルは買ってしまいますねー。
しかも結構、粒ぞろいの短編集だったと思います。
映画「ハナレイ・ベイ」予告編
偶然の旅人
この短編集も冒頭は前書き的な文章から。
村上春樹は前書きは嫌いと言いながら書くことが多い気がします。本当は好きだと思う。
奇譚集というから不思議な話が多く、村上春樹自身、不思議な体験が多いのだと言います。
ただこの前書きは本人が言う通り、取るに足らない話ではあります。しかし、これがなかなか良いですよねー。
特に、音楽好きにとっては「あー、こういうの、いいですね」と思えるもので。ライヴ観てて「この曲、演ってくれないかなあ」と思ってたら演ってくれた時の嬉しさと言ったら半端ない。
それがこの話の村上春樹の場合は、割とそれが極端な形で起こったのだから、そりゃ何か運命的なものを感じてしまう。それは「勝手に運命的」なのだけど、ファンというものは常に身勝手なものですからね。音楽好きにとっての、ちょっとほっこりしてしまう、そんな話だと思います。
そしていよいよ本編。
本のタイトル通り、ちょっと不思議な話でもあると思うのですが、基本的には一人の男の長きに渡る心の旅路の一つの終着点、といった感じだったように思います。
「ピアニストになれなかった調律師」というのが、ゲイであることを認めた自分とリンクしていて、この主人公の人生とでもいうべきものを、更に印象強くしています。主人公の職業として、上手い作りだと思います。但し、これがフィクションであるならば。実話ベースの話、という触れ込みなんですけど、そこも含めてフィクションの可能性は捨てきれません。
フィクションであるならば、この主人公の、ショッピングモールを使ってるくせに、そこをディスってみたりするスノッブ感は、やはり村上春樹自身が投影されたもののように思います。
人は「ありのままの自分」と言う時、往々にして本当には解放されていないと思うんです。そこには一種の開き直り、強がりのようなものを感じてしまいます。
なぜなら、「ありのままの自分」というものを感じる、ということは、生きている世の中と齟齬があるからです。自分と外の世界との間に齟齬があるからこそ、「ありのままの自分」というものを感じざるを得ない。
齟齬がなければ、自分と外の世界とが「同一」であるならば、「ありのままの自分」というものをわざわざ感じなくて済むからです。「ありのままの自分」を感じた瞬間、人は強烈な孤独を感じるのかもしれない。
また、「ありのままの自分」を意識するということは、それまでの自分の否定でもあります。だから、そんな時、主人公の調律師は姉に無条件に抱きしめてもらいたかったのだと思います。そうされることが、それまで自分がいた世界と自分との齟齬を弱めてくれるから。
ハナレイ・ベイ
息子をなくした母親と、浜辺に現れる息子の幽霊の話、というと、どことなく能を思い出してしまいます。能には全然詳しくないけど。
若い日本人の男の子二人組に会ってから、主人公・サチのキャラクターの印象がガラリと変わります。それまでは、一人息子をなくした母親、ということで、どこか弱さというか、寄り添いたくなるような、そんな風に読む者は印象を抱きがちになると思うのですが、実はこのサチ、結構攻撃的な、一筋縄ではいかない人物であることがわかります。
サチの「一度覚えた曲は忘れない」という特性や、天才的なピアノの腕前、それでいて楽譜が読めなかったり、直情的且つ攻撃的な性格。それら、長所も短所もそれぞれに極端な点を考慮すると、サヴァン症候群なのかもしれません。それ故の生きにくさのようなものはあったのかもしれない。
サチとはやはり「幸」なのでしょうか? であれば、生きにくかったであろうサチの半生を逆に象徴しているとも言えます。
息子との接し方にも、その影響はあったかもしれない。若者二人に対する態度がそれを想像させます。若者二人は、サチにとっての息子との疑似的な再会というか、比喩のようにも見えました。
憎まれ口を叩くくせに世話を焼く。心配でしょうがないくせに憎まれ口を叩く。全く不器用です。
どことなく、人当りとしては若者二人に比べ、サチの方が子どもに見えます。
サチに口汚い言葉を吐かれても、こういう人間に対する対処の仕方は知っている、と言わんばかりにのらりくらりと、ひょうひょうとかわしていくように、若者二人は見えます。
一言で言ってしまうと、若者二人の方が世慣れている感があるんです。
確かにハワイではあまりに無防備すぎる若者二人よりもサチの方が比較の対象にならないくらい力強い。しかし、対人間に対しては、立場が逆転する印象があるのです。
実際、物語ラストでデブの若者はさっさとサーファーから足を洗い、就職活動をして、彼女候補とデートまでしている。サチからの『恋のアドバイス』もキッチリとメモしていてぬかりない。
で、この物語、息子の人間性が好きではなかったという母親が、その息子を失って、自分はどう感じていいのか、それを確かめる旅路だったように思います。
息子の幽霊(多分)はろくでもない若者二人には見えて自分には見えない、という事実を知り、息子の方でもサチを好きではなかったかもしれないことを知らされたような気持ちになったのかもしれません。
子供というものは、親の鏡です。人間は環境によって形成されます。環境を作るのは親です。だから、子は親そのものと言っても過言ではありません。
サチが息子を好きじゃなかったというのなら、それはとりも直さず、自分のことを好きではなかったということです。
また、息子の幽霊が誰にも見えないのなら、まだ納得もいったかもしれない。しかし、他人に見えて、母親である自分に見えないとなると理不尽のように思えてしまう。
しかし思うに、会わない、姿を見せない、というのはそれはそれで一つのメッセージと受け取ることもできます。なぜなら、若者二人には姿を見せ、10年もハワイに通ったサチには、ただの一度も姿を見せないのだから。とすれば、これもまた一つの死者との対話の形であり、やはり能を想起させます。
息子はまだ19歳でした。未成年です。その意味で、サチは、自分の子供が大人になって和解することができる、その前にいなくなってしまった。
和解できなかったのであれば、せめて幽霊でいいから見たかったのかもしれない。
いや、それよりも、なくしてしまった最愛の息子に最後一目でいいから会いたかったという、ただそれだけの、純粋な親の思いの話だったのかもしれない。
ちなみにこれは余談ですが、この物語のその当時、若者だった自分としては、若者言葉が上手く使えていない印象を受けました。下手に同時代性を出して失敗するよりは、普遍的な表現を試みるべきかな、と思います。
どこであれそれが見つかりそうな場所で
先ず、どういう状況なのか、それがわからない状況から始まるのがオシャレ感がありましたね。
主人公の几帳面な人物造形が、どういうわけか読んでいて小気味良い。こういう人物を作り上げるのが村上春樹はうまいと思います。
異様な失踪を遂げた夫を探して欲しい、という、言ってみればミステリー。しかし、主人公は探偵というわけではなさそう。あくまで趣味の範疇らしいのですが、趣味というには人生賭けてる感がありました。
おそらく、今回の場合のように「異様な失踪を遂げた人物」を探すことに心血を注いでいるのでしょう。だから、依頼料などは一切もらわない。そこも異様と言えば異様。
ただ、この物語に出てくる人物の全てが異様と言っても良い。
依頼人の夫が失踪を遂げたであろう階段を調査している最中、様々な人物と主人公は出会います。
ランナー、老人、女の子。
その誰もが異様なんです。異様と言うには大げさで、ちょっとズレているというか。ただ、そのちょっとのズレが異様さを醸し出しています。
依頼人の妻も攻撃的で冷たい印象を与えるのですが、その攻撃的で冷たい感じが、あからさまなものではないんですね。ジワジワと来る「攻撃的で冷たい」んです。その感じが異様さを加速させます。
そもそも主人公自身も癖があり、ちょっとズレています。メモに使う鉛筆を何本も揃え、その尖り具合にもこだわりを持っている。メモもさっさと書けばいいものを、いちいち丁寧に書く。いや、丁寧にしか書けない。
人物だけではなく「場」も異様です。そもそも三十階近くもあるマンションの階段に広々とした立派な階段があること自体異様です。しかも、回によってはソファと大きな鏡までが設えてある。そんなマンション聞いたことないですよ。
そしてラストは唐突に訪れます。主人公が解決したわけではありません。ひょっこり夫は現れたのです。しかも東京から遠く離れた仙台に。なぜそうなったのか、謎は明かされぬまま、誰も知らない。
思うに、この話においてはミステリーの解決などどうでもいいのかもしれない。どうでもいいとは言い過ぎだけど、さして重点を置かれていないのかもしれない。
おそらく、奇妙な主人公が出会う奇妙な人たちとの、奇妙な場所での会話こそがこの物語の肝なのかもしれない。
世間とはちょっとズレた人たちの、普通で異様な会話。
でも、世の中の人全ては、少しずつ、他人とはズレているので、そういったことの象徴かもしれない。みんなそれぞれ勝手にズレているというか。
そう思うと、実はミステリーではないのかもしれない。世間を描写し、それを極端な形で描いたある種の群像劇なのかもしれない。
日々移動する腎臓の形をした石
ネット上でたまに散見される、ステレオタイプな、言ってみれば「村上春樹構文」とでもいうような典型的な文章で綴られています。もちろん、中身はそんなアホな、退屈なものではありませんが。
自分にとって本当に意味のある女は三人しかいない、という父親からのある種哲学めいた、それでいて呪いのような言葉の呪縛に囚われた主人公が、キリエという女性に会うことによって、その呪縛から解かれる話、という感じだと思います。
主人公は学生時代に「自分にとって意味のある」と思われる女と既に一人出会っています。その意味ではキリエは二人目なのかもしれない。
でも、そんな風に女性をカウントする行為、つまりはモノとして捉えていた主人公が、言ってみれば初めて女性を女性として、人として見ることができる、そのきっかけをくれた人と捉えるならば「一人目」なのかもしれません。
というより、その呪縛から解かれた主人公にとってはもはや「何人目」という概念すら意味がないものなのでしょう。
また、キリエは主人公にとっては自分自身なのだと思います。
主人公は気鋭の小説家。キリエは高層ビル専門の綱渡り。
二人に共通しているのは、基本的には自分一人の世界、自分独特の世界、他人には理解できない世界を世界に向けて表現しようとしていることだと思うんです。
その意味で、二人の職業、二人という人間は似ていると思う。だから、主人公はキリエと話すことで、自分自身と対話をしているようなものだったのだろうと思います。
だからこそ、キリエと接した後の主人公は小説家としても一皮剥けたし、人間としても父親の呪縛から解き放たれた。
キリエの方としては、だからこそ、レストランのカウンターに一人座って酒を飲んでいた主人公が小説家と聞きつけて、声をかけたのだと思うのです。男と女の出会いとしては、一見実にご都合主義的に見えるけど、実は決してそんなことはなく、必然性があったんですね。
ここらへんの作りは実に上手いと思う。さすがである。
品川猿
いきなり主人公の女性・みずきが自分の名前「だけ」思い出せない、という地味ではあるけど、よく考えれば異様な幕開け。ある種のSF的な作品かと思わせます。
症状が、軽いといえば軽いからか、医者には相手にされず(それも酷い話だが)、困ったみずきは品川区役所のカウンセラーに相談しに行きます。
そこから、過去の話、みずきの高校時代に寮生活での出来事について語られるんですけど、ここから少しミステリー風味になります。
冒頭のSF色から一転して、作品が大きく舵を切る。でも、全然無理はなく自然な流れなのが上手いというか、面白い。
女子高の、学園のヒロインみたいな子・優子が突如みずきを訪ねてきて、寮の名札を預けていってしまう。その際、「猿に盗まれないように」という冗談めいた一言を残すんですけど、これがいわゆるタイトルの「品川猿」です。もちろん、みずきはその時は冗談だと解釈します。
そしてここで優子は「嫉妬をしたことがあるか?」とみずきに聞きます。そしてまた、おっそろしいことに、みずきは「ない」と答えるんです。
何か、みずきには人間らしいところが希薄なところがあるんですけど、ここに来てそれが「おかしい」レベルにまで達していることがわかります。
仙人じゃないんだから、一介の女子高生が嫉妬したことがないなんて、なかなかにして考えられないことです。
そしてその後、優子は自ら命を絶ってしまいます。みずきに名札を預けたまま。
結論から言うと、この時に預かった名札と自分の名札を一緒のダンボールに入れていたがために、優子のことが好きだった猿に名前を盗まれ、みずきは自分の名前を思い出せなくなっていたのです。
この猿に名札を盗まれると自分の名前の記憶まで盗まれるということらしい。原理はよくわからないですけど。
品川区役所の面々の活躍(?)で猿は捕まるのですが、この猿は名前と同時にその人物の心の闇のようなものまでも盗んでしまうらしい。だから今回、優子が実は心に深い闇を抱えていたことを知り、みずきの心の闇も知ってしまう。
猿曰く、みずきの母親と姉はみずきのことを嫌いだったらしく、みずき自身も薄々は母と姉のことに気がついていて、それを無理矢理意識の奥に押し込めていたらしいんです。
だから、みずきには人間らしさが希薄だったんです。それは嫉妬という感情すら湧かないほどに。
でも、それを自覚することで、みずきは前を向く、という話ではあります。
しかし、ひょっとしたら肝心なことは実は何一つ語られていない可能性もなくはないと思います。
それは、なぜ優子は自害したのか。そしてその原因は何か。更に、なぜ名札を託したのはみずきで、そしてなぜ優子は猿の存在を知っていたのか。
ここらへん、結構大事な点だと思うんですよね。でも、何一つ語られていない。
普通に考えれば、おそらく優子はみずきのことを好きだったんだと思うんです。でも、そんなことは言えない。学園のヒロインであるなら尚更です。
そしておそらく、流れからすると、優子はみずきに嫉妬してたのではないでしょうか。嫉妬するほどのものをみずきに見出し、それ故に好きになってしまった。って考えると、割と筋は通るのかな、って思うんですけど、どうでしょう。ベタすぎですかね。
でも、なぜ猿の存在を知ってたんですかね? それだけはさすがに想像できん。