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僕が買ったもの、観に行った映画・ライヴなど、要は金を払ったものに対して言いたい放題感想を言わせてもらおうというブログです。オチとかはないです。※ネタバレありまくりなので、注意!

「ドライブ・マイ・カー」所収『女のいない男たち』ネタバレ有り読書感想。村上春樹のコンセプトアルバム!!

村上春樹の短編集が好きです。何冊か読んだんですけど、長編よりも好きかもしれません。

で、そんな村上春樹の短編集の中でも、特に好きなものの一つが、この「女のいない男たち」です。タイトルがまたいいですよねw

そしてこの短編集、一言で言ってしまうと、テーマは「コンセプトアルバム」です。これは前書きにも書いてあることなので、かなり意識的にそうやって作ったのでしょう。

それぞれの短編に、共通項がいくつも張り巡らされていて、全体を通して読むと非常に統一的であります。読んでる最中も、所収の他の作品のことを思い出してしまったり。

それでいて、作風はそれぞれ違うという。非常に面白い作りになっていると思います。

「言い訳がましいことは書きたくない」という、あいかわらずの言い訳がましい前書きの後から、本編は始まります。

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ドライブ・マイ・カー

映画化されて、それがかなり話題になってますね。

然もありなん、な女性ドライバー評から始まるのですが、大丈夫なんでしょうか、今これ?w 結構なミソジニー感な印象がなくはない。

そして、主人公の車についての描写が冒頭しばらく続きます。それはそのまま女性についての描写のようで。古くはロックンロールで車がモチーフとして使われる時、それは女の象徴であったらしいですね。そして、そんな自分の車をどこか亡き妻と重ねてるようなところがあります。

主人公・家福が免停を食らってしまい、車を使わないと仕事(俳優)ができないということで、ドライバーを雇うことから物語は本格的に始まります。

で、さっきも言ったように、この家福、妻を亡くしています。このことが物語の大きなキーとなるのですが、妻が存命の頃は専ら家福が運転していました。助手席には妻を乗せて。

しかし運転手を雇ったので、今は家福がその助手席に座っています。運転席にはもちろん運転手が座っています。しかも女性。しかも若い。しかも一つも可愛げがない。しかし巨乳。

状況がまぁ、真逆と言っていいくらいに変わってるんですね。この、まぁ、言ってみれば新鮮な状況が、気分転換的といいますか、そんな状況が家福に昔語りをさせた小道具というか。主人公に告白させるのに自然な状況作りなような気がします。

そしてこの「みさき」という若い女性ドライバーが巨乳ってのが、主人公の壮年めいた渋さとは裏腹の幼児性というか、男が終生持ち続ける特性を表しているようで、情けなくていいですね。

で、この家福、非常な後悔といいますか、疑問といいますか、そういうものを胸に抱えておりまして。

生前の妻が浮気してたんですね。

なんでだろう、と。もちろん、もうその答えはわかりようがないんですが、それがまた後悔や疑問に拍車をかけているようです。

そして、妻が浮気をするようになったのは、産まれたばかりの子供を数時間で失ってしまったことと関係があるのでは、と家福は思っています。

でも、その前に仕事の面で(妻は女優。しかもスター)、どうも年齢と共に夫の方が妻を逆転したことも、少なからず関係があるように、読んでて思いました。

それで、この子供というのが、生きていたらみさきと同じ年齢なんですね。そのことも、家福が自分語りをした大きな理由なのではないかと。娘の代わりというか。娘って、母親の分身的なところあるじゃないですか。だから、娘を通して、妻に語りかけると言うか、そういうところもあったような気がします。

それでドライブ中に二人の話の中で、家福に友人がいないように見える、という話題から唯一の友人らしき人物、高槻の話になります。ここからが話の本題中の本題と言いますか。

この高槻というのが家福の妻の浮気相手の一人(複数いたそうです)だったのです。だら、家福は高槻に近づいたんですね。

もちろん、そのことを高槻は言わないし、家福も知らないふりをする。

そしてこの高槻も役者なんですね。割と二枚目の俳優らしくて。でも、まぁ大根役者で。だから名優と誉れ高い家福とは色んな意味で真逆ですね。そしておそらく、この高槻は人間的にも、家福とは丁度真逆なんだと思います。全然人を疑うということを知らない感じで。

だから、「友人」に成り得たのかもしれません。

それで、この高槻が大根役者ってのが効いているんですね。芝居をさせないためなんです。大根役者で嘘を吐けないから、家福に言った言葉が本当に聞こえるんです。

高槻は、家福にとっては一つ救いとなるようなことを話すんですね。そして、その言葉は、やはり本当でなくてはいけない。だから、高槻は大根役者でないといけないんです。

一方、家福は名優である故に、実に上手く嘘をつけてしまうんです。これが逆に、高槻の言葉が本当である、ということの一つの証というか、そういうものになっているような気がします。

妻が浮気してた時も、本当は知ってたんだけど、実に上手く嘘をつき通したんです。全然知らない、っていう風に。なんせ家福は名優ですからね。

でも、本当にそうだったのでしょうか?

本当は妻は家福の嘘を見抜いていたのではないでしょうか。なんせ、女の人は鋭いですからね。直感的なところは動物的ですらある。そういった意味で、女性の方が野性に近いのかもしれません。

話を戻すと、その高槻の言葉で、家福と高槻は初めて「繋がった」のかもしれません。そして「繋がった」が故に家福は高槻に会うことをやめたのでしょう。

家福は本当は高槻に復讐しようとしていたんですね。そしてそんな自分を恥じたのかもしれない。そういう復讐心を抱えていたわけだから、「友達になってしまった」瞬間、それは高槻を「裏切ってしまった」ことになってしまうわけで。

だからもう会えなくなってしまったのかもしれない。

それで、家福があれこれ悩んで考えたことをですね、24の小娘がさらりと一言で言い当ててしまうんですね。多分言い当ててると思うんです。

こういうところ、女性というのは経験ではなく、本能で生きているようなところがある気がします。生まれながらに女は女というか。壮年の男が小娘にコロッと負けてしまう。

男って、立派な男を女性は好きになるであろう、という前提で生きるところあると思いますが、案外そうではないのかもしれないし、そうではないなぁ、ということに直面することもままあったりします。

現代日本の女性って、但しイケメンに限る、とか、年収600万以下はモブとか、色々言ってますが、その実、やはりそんな基準では男を見ていないのかもしれません。

そういう事例は、結構見ます。

それで、この作品は後に掲載されている「木野」という作品と対を成しているように思うんです。

妻を失い、悲しみと向き合おうとしなかった、残された男というか。

二つの作品の男に共通するのはそういう心情を隠すのが異常に上手いということだと思います。

浮気されて悲しい、捨てられて悲しい。そういう気持ちを隠すのが非常に上手くあってしまったというか。

しかも、こちらの主人公はプロの役者です。しかもかなり上手い部類の役者という設定です。

そこが仇となってしまったのかもしれないのかなと。良かれと思ってやったことが仇となった。そんな風に感じました。

でも、こちらの主人公の方が、悲しみに対しては攻めというか、妻がなぜ浮気していたのか、もう答えがわからなくなってしまった問いに対して、積極的に向き合おうとしている感じがします。

エスタデイ

この短編集の第一話が「ドライブ・マイ・カー」で、第二話が「イエスタデイ」。

ここまでの流れは完全にビートルズ

完璧な標準語を操る関西人で早大生の主人公・谷村と、完璧な大阪弁を操る東京人で二浪生の友人・木樽。

対照的な二人が「友達らしきもの」になるという設定は「ドライブ・マイ・カー」を思い出させます。

序盤はこの二人の織りなす奇妙でおかしみのある関係性と、モラトリアムにして、それでいてどこか楽しげな学生生活(というよりバイト生活)が描かれます。

しかし、木樽の「俺の彼女と付き合うてくれ」という奇妙極まりない提案が成され、さてどうなるか、という話です。僕これ、この短編集の中で一番好きですね。

それぞれの登場人物がすれ違いきっている寂しい話なのですが、この年代特有の瑞々しさみたいなものを描き切っていると思います。そういう感じが、すごい好きですね。

で、この木樽という男。その強烈なキャラクターから質実剛健的な強い男、かと思われたら、実は繊細で弱い人間であろうことが徐々に語られていきます。

一方、木樽の彼女(えりか)はもう強い女の象徴というか、まぁ猛牛みたいなところがあります。猪かなw 猪突猛進的な。

強度という点では木樽とは本当に対照的で、普遍的な男女の形が一つの象徴となっていて、面白いですね。

えりかは今で言う意識高い系女子なんでしょうね。現状にもがきつつも、どこか力の抜けている谷村とも対照的。この谷村とのデートのシーンは余計にえりかの強さを引きたたせます。

その一方で、木樽と彼女のやり取りが熟年のおしどり夫婦のようで、そこは幼馴染の恋人同士という雰囲気が上手く出せていると思います。時間という大きな要素というか。そんな二人の関係性もさもありなんといった感じ。

だけど、男の方は彼女をもはや親族的な視点でしか見れなくなってしまっています。対して、女の方は肉食なんですね。もう、ガッツリ男として見ている。ここらへんも対照的です。

男ってそういうところありますよね。仲良くなり過ぎちゃうと、相手を恋愛の対象として見ることが難しくなってしまうというか。変に大事に思うようになっちゃうんでしょうね。ある意味、恋愛の対象として見るよりも大事な存在になってしまうというか。

そうかと思うと、お互いに「違う世界を見てみたい」と思ってるところは共通していたりするんです。この根本的な志向性というか、そういうものが非常に似ている。だからこそ、二人は全く対照的な存在ながら、お互いを大切な存在、それはもう一番に大切な存在として認識しているのでしょう。

だけど、ここがまた男と女で違います。男は観念的で家に閉じこもっているのに対し、女は外に出てさっさと行動してしまっている。

ここらへんの関係性も、大学に受かった彼女と、落ち続けている男、という設定がそこらへんを象徴していてわかりやすい。

ところが唐突に木樽が物語から姿を消します。突然バイトを辞めてしまうんですね。谷村とも音信不通となってしまって。以降、谷村は木樽ともえりかとも会うことはなくなります。

そして舞台は16年後。えりかと谷村はワインの試飲会で偶然にも再会します。これ以降の二人の会話がまー、読んでるこっちが恥ずかしくなるくらいオシャレにしようとしていて、逆に笑えてしまうのですがw

案の定、えりかと木樽は別れてしまっていました。おまけに木樽は大学受験まで辞めて、大阪の調理師専門学校に通います。その後、二人は会っていないのですが、ただ、アメリカで寿司職人となった木樽はたまに思い出したようにえりかに絵葉書を送って来るそうです。

そして、えりかが浮気相手のサークルの先輩とヤってしまったのが、谷村とデートしてから割とすぐということが分かります(しかし谷村、すげーこと聞くな)。それが木樽がバイト、そして受験を辞めてしまった原因だったのではないか、と推測されます。

特に証拠はないものの、木樽はそれを分かってしまったらしいのです。弱い人間というものは鋭い、というのもさもありなんというか。鋭いからこそ弱くなるのか。どっちなんでしょう。

ここらへんが木樽のめんどくさいところで、自分が公認した谷村相手なら浮気(と言っていいのかはわかりませんが)はOKだけど、知らない奴との浮気はNGという。まぁ、自分に黙って、というところが裏切り的でもありますからね。そういうところが傷ついたのでしょう。それにしても、めんどくさいことには変わりない。

思うに、木樽とえりかが同性同士だったら、こんなにめんどくさいことにはならず、それこそ無二の親友に成りえたのかもしれない。根本的なところでは非常に共感的であるし、二人の相違はただ一点、男女というところに起因しているからです。

この二人が男女でなかったら……、小説にはなりませんね。

でも、木樽とえりかは、不幸にも男女という関係だったけど、お互いにお互いが居たんです。対して谷村はこの時期、誰も友達と呼べる人がいませんでした。それこそ、木樽だけだったんです。

この時期、えりかは氷でできた月を木樽と二人で見る夢をよく見ていました。でもそれは、朝になったらなくなってしまうような、そんなはかないものでしかなかったそうです。

そして偶然にも、谷村も同じ夢を見ていました。でも、谷村は一人でその月を見ていたそうです。

不確かな関係性でも、そういう相手すら谷村にはいなかったんですね。

そんな谷村にとって、木樽は殊の外重要な人間であったはずです。

でも、その木樽とは、この物語の中では永遠に会えていません。絵葉書も、谷村の元には届きません。

独立器官

ガツガツしてないようで、今の基準に照らし合わせるとガツガツしている、いかにもバブル的な男の話。

この、渡会という男について谷村というライターが綴った、という形式の小説になっています。

谷村、ということは、おそらく「イエスタデイ」の主人公・谷村と同一人物なのでしょう。彼はえりかと再会した時、ライターになっている、と言っていましたから。

こういう繋がりがあるのも、この短編集がコンセプトアルバムを意識しているところだと思います。

基本的に、この渡会という男は不倫しかしません。相手が独身の女性であっても本命は他にいます。浮気です。そういうところも、バブル感満載ですねw

時代設定はわからないのですが、設定年齢は50代だし、舞台が現代であっても、バブルの亡霊、といった感じ。

で、そういったことが細かく念入りに記されています。そういう細かい描写って、登場人物を立体的に浮き上がらせますよね。ここらへんのフェチ的とも言えるねちっこい描写は村上春樹上手いですね。持ち味でもあると思うし。

独身主義者で家庭と子供を持つことを嫌悪していると言って良い男。ただ、ここでの彼の主張(多分村上春樹の主張)は、なかなか納得させられるものがあるのもまた確か。ま、それはいいとして。

問題となるのは、渡会が人生で初めて恋に落ちる、というところですね。

最初は、ここを微妙にギャグっぽく書こうとしている雰囲気もあります。あるのですが、後の悲劇的な展開もあるので今ひとつ乗り切れず、といった感じでしょうか。

だったらかえってシリアスに振り切ってしまった方が良いのかもしれないけど、独身貴族のモテ男が生まれて初めて恋に落ちて悩む、というのはやはりどう考えてもおかしみがあるのは致し方のないところかもしれません。

そして、単なるコメディには持っていかないのが村上春樹。渡会が自殺同然に亡くなったのを境に、喜劇的な方向から悲劇的な方向に一気に舵を切ります。

また、渡会が惚れた女が夫と子供すら捨てて第三の男(まー、おそらくかなり危険な感じの男なのでしょう)の元へ行ってしまったというのだから、また状況は更に酷くなります。この展開はさすがに意表を突かれました。

生まれて初めて女に惚れた渡会は、その女の道具でしかなかったんです。状況は最悪と言っていいかもしれません。

またこの女が酷くて、「恋煩い」(こういう単語を入れて、まだ面白くしようとしている村上春樹は性格が悪い)で拒食症になり、苦しんでいる渡会に「私には関係ないから」と言わんばかりに、決して会おうともしない。むしろ嘲笑うかのように見殺しにしたとも言えるかもしれません。

そうやって自分のために死んでいく男を思うと、むしろこの女はそこに快感を覚えている可能性もあります。

これ、俺の完全に私見なんですけど、女性って自分のために苦しむ男の姿を見るの、好きじゃありません?w なんかそんな気がするんですよねー。もちろん、そこにグッと来て、惚れちゃう、なんてこともなきにしもあらず。

思うに、この女の詳細な描写はないけど、多分つまらない女なんだと思います。出来の良い男は得てしてそういうつまらない女に惚れてしまう、というのも然もありなん。

そして、そういうつまらない女が心底惚れるのが、よろしくない男だったりします。そう考えると、よくできた夫と子供すら捨て、つまらない男の元に逃げ、踏み台にした男を嘲笑う、そんなこの女の全体像が見えてきます。

しかも、その肝心の女は一行も登場しないんです。それでここまでわかってしまうのですから、これを上手いと言わずして何と言おう。

また、そんな騙された渡会のためにさめざめと泣く、部下のゲイである青年が、何か非常に清らかな存在のように見えてしまいます。涙を拭く時も、清潔な白のハンカチだったし。

やはり、男は純粋で、女は狡猾という、そういう「本当の真実」らしきもの(真実とは言いません)を、非常に繊細に抉り出してますねー。

しかしこの話、ドキュメント調で書いてあるのですが、事実を元にしているのでしょうか、それとも完全なフィクションなのでしょうか。

シェエラザード

これ読んでいた時、ちょうどFGO1.5部をやっててですね、シェヘラザード(表記は異なる)が出てくるんですよ。

1.5部アガルタ編の、言ってみれば主役はシェヘラザードだったので、だから、なんか必要以上に面白かったですw なんとなくシンクロするというか。もちろん、こっちの小説は現代が舞台で、千夜一夜物語のシェヘラザードとは直接的な関係はないのですが。

この物語のシェエラザードとは、ピロートークがめちゃくちゃ面白いということで、この名前の知らない女のことを主人公・羽原が便宜的にシェエラザードと名付けたんですけど、シャレているような気もしますが、大げさなような気もします。

で、この女の話が面白いという例として、前世がヤツメウナギであったことを挙げてて。それがまた確かに面白いんです。前世はヤツメウナギだったの、とかしゃあしゃあと語る感じがw 確かに話が面白い女だなぁ、と読者に思わせるにはうってつけのエピソードですね。

ヤツメウナギヤツメウナギ的なことを考えるので人間の言語には置き換えられない、というのがまたね、なるほど、って思いました。そもそも肉体はもちろんのこと、生態がまるで違うのだから、見えてる世界など、感覚も違う。それに「ヤツメウナギ的」と言うことで、むしろ読者に想像させて面白い。

で、この羽原、「ハウス」と呼ばれる家で生活しているのですが、なぜなんだろう? ニュースを見ない、とか言っていたし、かなり大掛かりな組織の下で隠れた生活をしているっぽいので、犯罪組織的な何かなんでしょう。そういう根本となるところを説明しないところは、読者にある種のミステリアスさ、不穏さを感じさせて良いですね。

シェエラザードはそんな「ハウス」に定期的にやってきて、食材やビデオなど、生活をしていく上で必要と思われるものを調達してくる、いわば世話係。ついでにベッドのお世話までやっちゃう、という設定。ちなみに割とくたびれたおばさんです。

で、ある日のシェエラザードの話なんですが、高校時代、好きな男の子の家に忍び込むんですね。何やってんだ、とw 確かに面白い。

で、この他人の家に忍び込む描写が妙にリアルで、シェエラザードの行動が生々しい。非常にフェチ的ですらあります。他人の家は静まり返っている、というのが、なんか妙に納得ですね。

また、ヤツメウナギの話が、単にシェエラザードの話が面白い、ということの象徴ではなくて、この、いわば本筋のエピソードに繋がってくるのが上手いですよね。忍び込んだ他人の家、しかも好きな人の家でじッと息を潜めているのは、なんだか実にヤツメウナギ的です。

そしてこのシェエラザード、色々と好きな子のモノを盗んでいくんですね、訪問する度に。でも、それだと窃盗になってしまうから代わりに自分のモノをわからないように置いていくんです。まぁ、窃盗は窃盗ですけどね。言い訳というか。

で、そういうことを繰り返していくうち、ある日、汗の滲みついたTシャツ盗んじゃって。これの代わりになるものは何か、っていうことで、まぁ結論から言うと、ふさわしいものがなくて何も置いていけなくて。もう言い逃れようがなく窃盗犯になってしまうんです。

シェエラザードは完全に空き巣に堕ちてしまうんですけど、でも、その堕落した感じが、何か良いんですよね。もう、言い逃れようがなく、完全に汚れてしまった感じが。

結局その後、シェエラザードはもう好きな子の家には忍び込めなくなってしまいます。罪の意識から、ではなく、母親が気づいちゃったらしいんですね。

そしてこの母親に対しては、一貫してシェエラザードはある意味憎しみのようなものに満ちて描写しているんですね。これがまたね、女性っぽくて。やはり女にとって好きな男の母親というものは天敵のようなものなんでしょうね。今回はまさに直接的な(会っていないので間接的とも言えるが)天敵となったわけです。

で、好きな子の家に忍び込めなくなると、だんだんとその子に対する興味を失ってしまうんです。シェエラザードの行動は病的ですらあったのですが、「おそらく実際に病だった」とシェエラザード自身言うんですね。

なんとなく「独立器官」を思い出させます。両者とも、恋の病の話なので。そして、実に対照的かもしれません。方や男、方や女。方や53歳、方や17歳。

ただ、女の恋は基本、上書き保存です。一旦消えた気持ちはそのまま本当になくなってしまうように思います。

シェエラザードは、この話をしている最中に羽原にセックスを持ちかけるんですね(村上春樹節炸裂ですね)。で、それまでは割と事務的に羽原とヤッてたのですが、今回は案の定激しくなるわけです。シェエラザードがあたかも17歳の頃に戻ったようで、好きだった子を想像しつつ、って感じで。

こんな風に、シェエラザードのように17歳の時に好きだった人を思い出して、17歳の自分に戻る、なんてことは女性にはないような気もするんですね。

実際、シェエラザード曰く「一旦潮が引くように消えてしまった」のだから、その後思い出す、ということになんだかすごく違和感を感じました。

これは男である村上春樹の妄想的理想論のような気がしないでもない。シェエラザードの考え方や行動が非常に男性的なんですね。

シェエラザードは好きな子の家で、かなりフェティッシュな行動を取ります。モノに異様なまでにこだわるんですね。そういうのって、男では割と聞くけど、女性でもそうなのでしょうか? なんか、違和感感じるんですよねー。

それでですね、この続きの話があるらしくて、それがまた面白そうなんです。なんですけど、そこでこの小説はおしまい。

そしてまた、羽原はシェエラザードと二度と会うことが出来ないことが示唆されています。

多分、二人が頂点まで上り詰めてしまったからだと思います。そうなると、後は下るだけなので、この物語の続きを書いても仕方ないと思うし、ひょっとしたら、どう書いても蛇足的になってしまうかもしれない。

だから、その、続きの面白い話は羽原と同じく読者も聞けないというのが、この物語が現実にまで少し侵食しているようで、そこもまたなんか面白い。

木野

最後まで読んでみると、割と怪奇的な小説なのですが、冒頭では全然そんな雰囲気はないですかねー。むしろ、どちらかというと生活をリアルめに淡々と描く、という感じ。

主人公・木野自身は実にありふれた男として描かれているし、彼の生い立ちも、まぁありふれています。実直ですらあり、現実的ですらある。

でも途中、神田の登場あたりから、段々と怪奇的な雰囲気を纏いだします。そんな「現実的」な木野と、怪奇的な雰囲気が強引に結び付けられていきます。なんだか不思議な作風です。

「木野」というのは、木野が経営するバーの名前です。ボン・ジョヴィみたいなものですね。で、その「木野」に集まる客が、なんだか怪しげなものばかり。半グレ風の二人組、謎の女とその連れの男。そして灰色の猫。そもそも神田が怪しい。

皆、どこか人間離れした雰囲気です。まぁ、猫と神田は木野に悪さをするわけではないので「怪しく」はないかもしれませんが。

神田は、描写からすると、多分「木野」の前庭にある柳の木の精霊みたいなものなのでしょう。神田のレインコートが灰色なので、最初、店を訪れる灰色の猫かと思ったのですが、一緒に登場したりもしたので、それは違いますね。

そんな、人ではないような登場人物たちに徐々に徐々に現実っぽい木野が絡みとられていくのは、なんとも不気味。特に謎の女。この女が決定的に木野を怪奇の世界に引きずり込んでしまった気がします。

で、結局蛇が家の周りに集まって来てしまったことから、どうもおかしいということになり、神田の助言に従って、木野は家を離れる、つまり旅に出ることになります。

その際、木野は神田から定期的に木野のおばさんに絵葉書を出すように言われるのですが、文章を書いてはいけない、と念を押されます。そして案の定、木野は文章を書いてしまい、妖怪の類(だと思う)の急襲を受け、破滅に向かってしまいます。

「書いてはいけない」と言われた時点でフラグは立っていたのですが、やはり人間「やるな」と言われるとなぜかやりたくなってしまいます。おそらく、そこには生物としての進化の心理が働いているのかもしれません。「やってはいけない行為」とは即ち、「別の可能性」のことでもあります。仮にそこで失敗しても、可能性を探ることが生物の進化の基本であるから、「やるな」と言われるとかえってやりたくなってしまうのは自然なことなのかもしれません。

ちなみに、絵葉書は「イエスタデイ」でも登場しました。こういう小道具が一つの短編集の中に二度も印象的な使われ方をするあたり、上手いというか、やはり統一感のようなものが出てきます。

おそらく、「木野」というバーは、木野が理想とした引きこもるための心の隙間の象徴だったのかもしれません。

そもそも、木野がなぜ会社を辞めてバーを開いたかというと、妻が同僚と浮気をしていたからです。しかも、事の最中を目撃してしまいます。

で、本当は妻にめっぽう傷つけられたんですけど、悲しみと向き合うこともせず、それをごまかして自分の殻の中に閉じこもってしまったんですね。多分、そういう悲しみから自分を守るためだったんだと思います。そのための場所が「木野」だったのでしょう。そして、そんな居心地の良い場所を作ったこともあって、木野はそんな自分の気持ちを上手くごまかせてしまっていたのです。

ちなみに、この「木野」というバー、おそらくは村上春樹の作りたいバーではないかなぁ、と思います。作家になる前、実際にバーを経営していましたからね。その、未練ではないんでしょうけど、やりたかったことの一つとして、小説に登場させたように思います。なかなか良い感じのバーだと思います。

最後にやってきた妖怪の類は、よくわからないけど、多分引きこもった木野を糾弾する何か、傷ついた本当の木野自身だったのかもしれません。

だから、ちゃんと悲しめよ、引きこもってんじゃねーよ、という村上春樹のメッセージ的な話かもしれないし、ひょっとしたら村上自身に起こったことを自戒めいて書いた小説かもしれません。

神田とは、多分、木野を引きこもりから外へと導く存在なのかもしれません。木野が出た旅とは、引きこもった部屋から出る散歩のようなものかもしれません。

女のいない男たち

村上春樹の前書きから引用すると、タイトルナンバーとしての書き下ろし作品。

そういうこともあってか、多分急ごしらえ感はある気がします。

特に明確なストーリーもなく、とりとめもない感じで、村上春樹の独り言が延々続いていく感じ。

かつての恋人が命を絶ったと、会ったこともないその恋人の夫が深夜一時に電話で知らせてくる、しかも主人公の付き合った女で命を絶ったのはこれで3人目という不気味な出だし。

しかし途中から、その元カノの魅力を延々と村上春樹特有のあまりおもしろくもない、それでいてちょっとシャレたユーモアを交えて語ってくるので、本当にとりとめがない。

ただそこは村上春樹。そのとりとめのない独り言がなかなか面白かったりするんですよねー。

そして、そんなとりとめもない独り言こそが村上春樹の真骨頂な気がしないでもないです。


 

 

 

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