azzurriのショッピングレビュー

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僕が買ったもの、観に行った映画・ライヴなど、要は金を払ったものに対して言いたい放題感想を言わせてもらおうというブログです。オチとかはないです。※ネタバレありまくりなので、注意!

「鬼滅の刃」第二十一巻ネタバレ有り感想。笑う子どもにグッと来る縁壱!! それを見てグッと来る俺!!


鬼滅の刃」全巻感想、第21弾!

そう、遂に21巻まで来ました! 残り2巻!

いよいよクライマックスが近づいてきた臭いがプンプンしてきました!

ただ、展開的にはちょっと急すぎるような気もしてはいるのですが、多分それが最近の漫画のテンポなのかもしれません。

とはいえ、今回も盛りだくさんです。そして実は、エピソードの間に挿入されたこぼれ話が面白かった。

できれば、こういうエピソード(縁壱に逃がしてもらった珠世さんのその後の話とか)を漫画内で描いて欲しかったですねー。

あと、甘露寺さんはやっぱり可愛いな。好き。

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無一郎の人生観

この巻の冒頭で、無一郎と玄弥が退場となってしまいます。

無一郎は、天国で兄と再会。でも、また怒られてしまいます。でも、兄は泣いてました。もっと長生きして欲しかった、とやさしい叱り。可哀そうだと言うんですね。

でも無一郎は、幸せだった、と自分の人生を全て肯定します。

このものの見方は、多分炭治郎の影響もあったように思うんですけど、どうでしょう。あるいは、元々の無一郎の資質でもあったのかもしれません。

日々の生活の、なんてことはないことに、ひとつひとつ幸せを感じるというのは、強さだと思うし、ひょっとしたら賢さでもあるのかもしれません。

なんというか、そう考えるとなにかこう、楽にもなるし、そういう目線を持つことで、日々の生活が鮮やかな色彩を帯びるようにすら思います。

この無一郎のシーンは、あぁ良いなぁ、と思ってしまいました。

一方、玄弥の方では天国の描写はなし。ただ、おまけのページで兄弟たちと再会する場面は挿入されていました。こういうところに、何か作者のやさしさが出ているようで、いいですよね。

思うに、無一郎、玄弥のそれぞれ二組の兄弟は、一位の鬼の兄弟の物語とも繋がっているのでしょうね。

この二組の兄弟と、一位の鬼の兄弟とは、関係性が似てたかもしれません。兄が弟を疎んでいる(少なくとも表面的には)という点では酷似しています。

でも、兄貴の方ではツンツンしていても、それぞれに兄弟で深いところで繋がっていたという点では、皆同じなのかもしれません。

バトルの感じが面白い!

今回はいよいよ鬼舞辻との決戦。

なんですが、マイlove甘露寺さんと蛇の人が琵琶の鬼にやられたー! かに思わせて、実は兪史郎が琵琶の鬼の、なんと脳細胞を操るという大荒技を敢行! これで、あの鬼舞辻を撹乱。すごいですねー。

そう、今回のクライマックスのバトルって、遠隔操作多いですよね。兪史郎は遠隔で偽の映像情報を送ることで攪乱するし、お館様たちはカラスを複数飛ばして城内部の情報を把握。

兪史郎の戦いはフェイクニュースだし、カラスはドローンを飛ばしての映像提供に喩えることができるでしょう。

舞台が大正時代でありながら、戦い方自体は現代のものですよね。ここらへんのバトルのアイデアが面白い。

ただですねー、どうしても好きになれない展開もありまして。それは、市街地に出た後の戦いです。

柱以外の鬼殺隊が何人も「肉の壁」となって炭治郎たちを守るんですね。その命を投げ出させる(物語内では自発的ではありますが、作劇的には「させる」と言うべきでしょう)展開がですね、どうにもこうにも好きにはなれない。というより、嫌悪感を感じます。

ここには明確な階級意識がありますよね。人の序列に対する志向というか。

自由主義社会であっても制度化されない序列、階級は確かにあります。それは間違いない。

でも、だからといって、それを賛美するかのような思想は危険だと思います。序列をなくそうとしても出来てしまうのが人間の社会なわけだから、それを助長してしまうと、それは当然、更に加速するということになる。

ここらへんの、階級賛美の思想は受け付けることは到底できないですねー。

そしてびっくりしたのが、まさかの炭治郎が退場! マジかあー!

残り2巻ちょっともあるのに、主役が退場するとは…。この先どうなるのか。

実はこの巻読んだ前日に「錆喰いビスコ」を観たんですね。そしたら丁度同じ展開だったんです。主役のビスコが退場したんです。しかもタイトルロールですよ。これにはびっくりしましたが、まさか二日続けて…。変な偶然もあるものですねぇ。

しかも、ビスコの方も、残り2話を残しての主役退場。この「2」という数字もまた妙な符号ですね。

鬼舞辻は偉い?!

それでですねー、この巻読んで思ったんですけど、ひょっとして鬼舞辻って、偉いのかな、とw いや、とんでもなく極悪非道な奴だとは思ってますよw どういうことか?とお思いでしょう。

なんでそう思ったか、というと、この巻で「俺に殺されたのは天災だと思え」と炭治郎に言って、炭治郎をブチ切れさせるんですけど。

まさにその台詞ですね。

全然偉くねぇじゃん、と、お思いでしょうw わかりますw

鬼舞辻の人柄は全然偉くありません。品性下劣とさえ言えるでしょう。でも、物語上の存在意義としては、偉いのかな、と。

どういうことかというと、多分この人、台詞通り「天災」の比喩なんですよ。そして、天災って鬼舞辻の台詞にある通り、どんなに被害を被っても、何を責めるわけにもいきません。誰が悪いわけでもありません(天災が起こったそのこと自体は)。

でも、どうにもこうにも行き場のない怒りは芽生えます。

この、行き場のない怒りをぶつける相手として、人の形を与えられた憎悪の対象が鬼舞辻なのではないか、と思ったのです。

言ってみれば、この世の怒りの対象を全て集約させ、この世の全ての怒りを受け入れる、そんな存在なのかもしれません。

この漫画を読む人は、天災だけじゃない、人生に置いて向ける場所のない怒りを、その代償行為として鬼舞辻に向けることができると思うんです。もちろん、読者はそうとは意識していないでしょうが、ひょっとしたら無意識の中ではそういう効果があるのかもしれません。

言ってみれば、カタルシス効果というやつですね。それに近いものを鬼舞辻を通して読者は得ているのかもしれません。

そう考えると、鬼舞辻って、ひょっとしたら偉いのかなぁ、と。

ま、嫌いですけどね。

またしても漫画で一人称小説!

前巻で、一位の鬼の物語の続きがあるのかと思ってたんですけど、あれで終わりだったみたいですね。でもそれでも、綺麗に終わってはいたと思いますが。何の救いもなかったかな、とも思います。やはり女性作家だからでしょうか、才能のない人間には容赦がないですねw

でも今回、弟の方からの一人称小説的な展開がありました。今回もアツかった。

それは、多分死の淵にある炭治郎がご先祖様の記憶から覗いている、という設定。だから干渉はできず、見ているだけ。だから、一人称小説っぽさの中に三人称小説というか、作者の観点みたいなものが入るような形になっていると思います。この作りはなんか面白い。

そして、弟の方から見ると、お兄さんはすごくやさしい子だったようです。父親に「弟と遊ぶな」と殴られても、その日のうちに笛を手作りで作って「助けて欲しくなったらこれを吹け。俺が助けに来る」とヒーロー的なことを言います。弟にとってはまさにヒーローだったのかもしれません。

弟の方が強いけど、でも強いばっかりがヒーローではありません。一緒に遊んでくれる、それだけでも十分ヒーローたりえます。剣術よりも兄上と双六や凧揚げをやりたいと言った台詞が思い起こされます。

おそらく、兄貴の方の記憶は自らゆがめてしまったのかもしれません。本当にその当時、弟を気味が悪いと思っていたのなら、殴られてまで会いに行かないし、笛なんか作らないと思います。

ただ、そうやって記憶をゆがめてしまったかと思うと、兄貴の嫉妬心はいかばかりかと思おいます。

しかし、それほどまでに嫉妬した兄貴の方から見れば、神様に愛された弟だったのかもしれませんが、弟の方は言うほど心楽しい人生ではなかったのかもしれません。そこはかとなく、みんなから疎外感を感じていたそうです。それはあまり、幸せなことではないように思います。

ただ一方、兄弟それぞれに幸せな結婚をしたらしく、一頃は幸せだったようで。それこそ、無一郎の言ったように、辛いことも多かったかもしれませんが、幸せなことはあったのです。

そう考えると、無一郎の見方では大抵の人は幸せであることになる。実はこの無一郎のセリフは作品全体を明るく照らすようなものになっているのかもしれません。

無一郎のこの人生観は、なかなかにして偉大かもしれない。人は兎角辛いことばかりを注視しがちですが、この一言に救われることがあるかもしれないし、なんとなく楽になるかもしれない。

しかし縁壱は、あと一歩のところで鬼舞辻を逃がしてしまいます。そのことで縁壱は言いようのない後悔の念に襲われているんですね。

そう、あの鬼舞辻に圧勝し、あと一歩まで追いつめるんですよね。めちゃくちゃ強い! 多分、この作品最強ではあるのでしょう。

つーか、子供の頃、一晩中歩き続けても全く疲れなかったそうです。なんか、鬼くらいの力ありそうですよね。

そんな縁壱を励ましたいと炭治郎のご先祖様は思うのですが、何も言葉が出てこない。どうしたものかとご先祖様も悩んでしまうところに、ご先祖様のまだ小さな子供が縁壱に「だっこぉ」と言って寄って行きます。

ご先祖様の頼みもあって、縁壱は子供を抱き上げるのですが、その抱っこされて笑う子供を見て、縁壱は涙します。

この説得力はなんだろう。

楽しそうに笑っている子供を見ていると、全てが許され、全てが解決し、全てが上手くいくように錯覚するのは、真実であるように思います(縁壱がそう思ったかどうかは定かではありませんが)。

このシーンは、すごく良いシーンだと思うし、今のところ、この作品のベストなシーンでもあるように感じます。

また、その後やってきたご先祖様の奥さんがいいんですよね。「きっと大丈夫よぉ」と、何の根拠もなく、ですがやさしくおおらかに言ってくれます。「ご飯食べさせてあげますから」と。

落ち込んでる時のご飯に勝るものもまた、ありませんよね。


 

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