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よしながふみ「フラワー・オブ・ライフ」ネタバレ有り感想。闇を描くために光を描く!!


フラワー・オブ・ライフ」を読み終わったんですが、いやすごかった。

もう随分昔の漫画になっちゃうので、今更感満載ですが。ずーっと読みたかったんですけど、割と早々に単行本の方が絶版となってしまいまして(多分)。なかなか探してもなくてですね。

そんなとき便利なのが、電子書籍。基本的には絶版がない上、絶版した本も復活するし、どこでも読めるってのが魅力ですよね。「鬼滅の刃」を電子書籍で揃えて以来、その魅力にすっかりハマッております。

で、「フラワー・オブ・ライフ」なのですが、語り出したらキリがないくらい見所がありすぎるので、いくつかに絞って感想を書いていきたいと思います。

現代の問題として描いている

やっぱ、なんつってもね、これはビビった。物語ド頭から主人公・春太郎の白血病だったことを告白する自己紹介から衝撃的でしたが、その後は割と平和な高校生の日常群像劇風に話が進んでいきます

しかし、突然春太郎の父親から、自身が被爆二世であることが語られます。つまり、春太郎は被爆三世にあたるわけですね。だから、春太郎が白血病で苦しみ、その後の通院や将来のことに苦しんでいるのは、原爆のせいである可能性が高いわけです。

最初の白血病だったことの告白から、どこか物語全体に暗い影が落ちているのですが、それまではそれはもう治ったというエクスキューズがありました。しかし、この父親の告白により、その影は決定的となったのです。

実は、明るく楽しい高校生群像劇の裏には日本が抱える原爆問題があったのです。

いやこれはもう、読んでてびっくりしました。よしながふみはすごいですね。こういう、人に、世間に、社会に潜む影を裏に内包させ、それを突然表してくる。そしてその事象はその後の物語全体を影のように覆う。

これは「西洋骨董洋菓子店」でもそうでした。フラフラとチャラく、ひょうひょうとして不良オヤジっぽい、あの橘が、実は幼児誘拐事件の被害者でした。その時のトラウマがあるから、男なら必ず惚れてしまうという魔法使いのような魔性のゲイである小野に全く心惹かれることはありませんでした。そんなギャグっぽい設定が、実は橘の心の闇を強く照射する光だったわけです。

よしながふみのそういうところは怖いと思うし、その容赦のなさは、ある意味女性ならではのような気がします。男は基本弱いので、ここまで強烈に描くことはできないと思います。

これほど現代を舞台に真っ向から原爆を描いた作品はないように思います。

その意味で、日本でも戦争はまだ終わってないし、終わりようがない。

戦争とか武力を使った、人の争いって、一旦始めてしまったら延々と終わらない。

パレスチナの問題にしても、ウクライナの問題にしても、ずーっと昔のいざこざが現代まで続いて、あんなにもひどい形で尾を引いている。

しかも、この話、多分原爆が話のメインではないと思うんです。それが逆にすごいと思う。実はこういった問題は当たり前に日常に入り込んでいる、ということの現れ、表現のようにも思うからです。

「大人」が登場しない(おっさん・おばさんは出てくる)

あとこの話、最終巻になって、実は「大人」が一人もいなかった、一人も登場しなかったことが判明します。

例えば、主人公たちの担任の滋という女性がいるのですが、この滋、教え子の真島と付き合っていて、その真島に「ガキみたいなこと言わないで」と言い放つシーンがあります。しかし、男にだらしない滋の言い分がまさにガキだったりします。

その滋が国語の教師ってのも、なかなか効いてるんですよね。国語は言葉を教えると同時に人生まで教えている側面もある教科だと思うからです。

その国語教師の滋は、教え子に対して授業で教えるよりも、結果的に強烈に人生を教えてしまったのです。世間のリアルなんてこんなもんだよ、って。身をもってね。

で、この漫画、滋のみならず、「大人」が結局一人も登場しなかったことがわかります。春太郎の両親や姉も、いつまでも大人になりきれていないんです。あんなに堂々としていた母親でさえ、春太郎に真実を告げることが怖くてできなかった。多分それは相手を思ってのことだろう。それも真実だと思う。でも、ひょっとしたらそれ以上に自分のためだったのかもしれない。自分が言うのが怖くて、黙っていることにしたのかもしれない。相手の気持ちをわかったようでわかっていなかったのかもしれない。

そもそも、子供であることが過剰に求められる日本に、大人などいるのだろうか?

それでも、メインの登場人物たち、高校生たちは、少しずつ大人になっていきます。大人になることとは、大人も大人じゃないんだ、とわかることかもしれない。

闇を描くには光が必要

で、さっきもちょっと書いたんですけど、よしながふみの中では、闇を描くには強烈な光が必要、という思想がすごくあるように思います。

だから、高校生の普通の日常が、明るく楽しく描かれる。まさに「フラワー・オブ・ライフ」です。人生の花盛りです。

そして、なぜこの作品が「フラワー・オブ・ライフ」なのか、最後の方でそれが明らかになります。そしてその理由に驚愕もするし、唖然ともするし、残酷さをも感じるし、理不尽さをも感じるし、なんというか…やっぱよしながふみ性格悪いなぁ、って思います。優れた作家は性格の悪い奴が多い、ということがまたしても実証されてしまったというか。

しかし、その明るく楽しい高校生活を送る子供たちのそれぞれに、それぞれの闇が垣間見えるのです。

いつメンの隣には仲間はずれがいたり、仲良く振舞っているようでも壁があったり。

そういうところすらも、明るく楽しく、スルッと描くところが、よしながふみの怖いところです。

でも、こうも感じます。しかしよしながふみは、その闇を前向きに捉えている。

脱却の出来ないその闇を、肯定的に捉えているように思うのです。あたかも、光を知るには闇を知らなければならないとでも言うように。

で、そういう闇に、よしながふみは強烈な興味があるように思います。だから、よしながふみの漫画の多くは、言い方はアレですが「世間からはかわいそうと思われているであろう人物」を主役に据えることが多い印象です。

アンチクライマックス

それから思ったのは、やっぱりよしながふみって、ベタな盛り上げ方が嫌いなんだなぁ、ってことですねw

この漫画でも、最後の方で春太郎が真島相手に「普通がいい」って泣くんです。そこって実はものすごい切実で、えぐられるような慟哭なんだと思います。

でも、春太郎の泣かせ方は、ちょっとギャグっぽいというか。「わーん」とか言って、机に突っ伏して泣くんです。

普通だったら、もっとこう、何と言うか、ある意味ベタっぽくシリアスに描くと思うんです。でもそんなことは、よしながふみはしないんです。

そこがカッコいいですよね。

シリアスなものをそのままシリアスに提出するのって、ある面ではカッコ悪いし、ダサい。なんでカッコ悪くてダサいかというと、多分、意図を感じるからだと思うんです、作者の。

あんまりにも普通に、ベタにシリアスなものをシリアスに描くと、「ほら、ここ感動ポイントだぞ。泣けよ」って感じてしまうこともあると思うんです。もちろん、そんなこと考えて描いてはいないと思いますが、なんとなくそう感じてしまう瞬間もあると思うんです(中にはそう考えながら書いてる作家もいるかもしれないけど)。

そうすると、途端に、せっかく浸っていた作品世界から現実世界に引き戻されてしまう。冷める、ってやつですよね。それが嫌なんじゃないでしょうか、よしながふみは。

それに何より、そういう気質なのかもしれませんね。正面から来たら反発してしまう、妙に斜に構えてしまう。何より、ベタな表現が恥ずかしい。

平たく言っちゃえば、都会的な、センスの良い人なのかもしれません。

でも、それやるのって、すごく難しいように思います。それをさらりとやってのけてしまうよしながふみって、やっぱい上手いような気がします。それこそセンスがあるというか。


 

 

 

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