「鬼滅の刃」全巻感想、完走しましたー!(←うまい!)
第23巻、読み終わりましたよー! ようやく、読み終わりました!
一年以上かかってしまいましたねー。やはりブログと連動して、一冊一冊感想を書きながら、っていうのも大きかったと思います。
でも、そうでなくても、特に後半は一話一話の密度が濃く、重かったので、どうしてもバンバン読み進めるというわけにはいかなかったですねー。
なかなか読むにしても体力がいるような、そんな漫画だったと思います。
最初はね、第一巻読み終わった時は、そうでもねぇかな、っていうのがぶっちゃけた話正直な感想でした。
しかし、読み終わった今、真逆の感想となりました。最高だった!
最強形態は赤子!
鬼舞辻のこの漫画での謂わば「最終形態」はなんと赤子! しかも巨大な!
なんか、ぶっちゃけ、キモかったですねw
やはり日本では「AKIRA」以来、子供が最強、ラスボスというのはあるように感じます。
また、日の光からなんとか逃れようとしたためのその形態は、ある意味、人間がもっとも生命力に溢れた時の形態かもしれないですね。
そしてまた、鬼舞辻の、どんなことをしても生きてやろう、という執念そのものが、なんというか、生物の生命力を表しているように感じました。
太陽の光から逃れるため、日陰を探し、最後は土に潜ろうとまでします。その、もがき、逃げ、なんとか生きようとする鬼舞辻の姿は生物、生命の象徴のように見えました。
そしてこの赤子に、炭治郎は体の中に取り込まれてしまいます。
アンチスーパーヒーロー
そしてこの巨大赤子が街を破壊しつつ逃げ惑うのですが、もう怪獣です。巨大な赤ちゃんの怪獣。なんとも不気味で、怖いです。
鬼殺隊総出でなんとか追い込むのですが、柱たちは傷付き、それほどの力は出せません。一進一退の攻防が続く中、赤子に取り込まれた炭治郎が、内側から攻撃。それが引き金となって、なんとか勝利を収めます。
しかし、最後は柱でもなく、主役である炭治郎がきっかけとはなりはしたが、まさに全員で奪い取った勝利だったように思います。
なんとなく、ここにアンチスーパーヒーローというか、最後は「普通の人」(鬼殺隊隊士というだけで特別ではあるのだが)の力の結集というか、そういうものが大事なのだ、という風に感じました。
スーパーヒーローだった縁壱でも倒せなかった(逃げられた)強大な敵を、結集した皆の力が倒したということに、大きな意味があると思います。
だから、最後の勝利、そしてその勝利に喜ぶ一人一人に感動するんです。
そして時間という要素も大きいと思います。この戦いは千年にも渡って続けられてきました。そして負け続けてきました。それが遂に勝利した。
そういう時間の重さにも、グッとくるのだと思います。
まさに大ドンデン返し
そして、ようやく鬼舞辻を倒すと、今度は鬼舞辻の心の内が語られます。またしても一人称小説、自戒の話になるのか、と思いきや、取り込んだ炭治郎に自分の野望、すなわち鬼殺隊の滅亡を託すというまさかの展開!
これには意表を突かれました。
主人公が最終章に来てのまさかの最大の敵になるという。
鬼舞辻の能力、縁壱の技、更には太陽でも死なない体を手に入れた炭治郎は、まさにこのマンガ最強でありましょう。
その最強の炭治郎が、ボロボロの鬼殺隊の前に立ち塞がる。
これ以上はない最悪の展開でしょう。愈史郎曰く、鬼舞辻とは死んだ後でも人を最悪の気分にさせる。
愈史郎のこのセリフは、非常に説明セリフ的ではありますが、読者の代弁でもあると思います。こういう読者の代弁としてのセリフは、むしろ重要であるように思います。
絶体絶命、もう万策尽きたか、と思ったその時、炭治郎の前に現れたのは禰豆子でした。
しかし、自我のなくなった炭治郎はそんな禰豆子をも傷つけてしまいます。でも、致命傷は与えないんです。明らかにヤバそうな攻撃も外します。
義勇曰く、炭治郎も戦っている。
炭治郎vs鬼舞辻、最後の戦い
そして、炭治郎と鬼舞辻の最後の戦いとなります。
それは物理的なものではなく、精神の戦いでした。
みんなの、炭治郎に鬼にならずに人として戻ってきて欲しいという声は、炭治郎にまで届いています。ですが、鬼舞辻がことごとくそれは嘘だ、としゃあしゃあと嘘をつきます。この期に及んでしゃあしゃあと嘘をつく感じはさすが鬼の王です。
ただ、思ったのですが、鬼舞辻の言葉はやけに空疎に響きました。全部嘘であるからそうなってしまうのですが、それにしても、炭治郎の心には全然響かないだろうなぁ、と思うようなものばかり。
ここは、作劇的に欲を言えば、もっと炭治郎を揺さぶって欲しかった気もします。その鬼舞辻の揺さぶりをかなぐり捨てて…、というのがちょっと欲しい気もしました。
ただ、なぜ、鬼舞辻の言葉が空疎になってしまったのかというと、炭治郎には強さへの欲求が皆目なかったからなんですね。もしこれが、上弦の第一位の鬼や、第三位の鬼だったら、かなり揺らいでいたかもしれません。
でも、炭治郎には物理的な強さに対する憧れは、全くなかったのです。思えば炭治郎は本来、戦いとか争いとか、そういう世界には全く無縁の人だったように思います。
だからこそ、そんな炭治郎が戦い続けなくてはいけなかったこの物語は、全体を通して、どこかもの悲しいトーンがあったように思います。
そしてこの戦いは謂わば、心の中の世界での戦いとでもいうべきシーンなので、舞台が観念的で抽象的な世界でした。この舞台設定も良かったですね。
炭治郎の帰還を応援するみんなを、引っ張り上げようとする手として表現している。そしてそれを阻みたい鬼舞辻は、引っ張り上げられる炭治郎の、なんと腕から顔を出し、炭治郎を引き摺り下ろそうとする。
この手を媒体としたイメージが良かったと思います。そしてどことなく、芥川龍之介の「蜘蛛の糸」を思い出してしまいました。
究極の生物
また、ここで鬼舞辻は炭治郎に対し、究極の生物、神に選ばれた者、と言います。ここにきて、平凡だった少年は選ばれし者となるのです。
思えば炭治郎は「鼻が効く」という以外は平凡な少年でした。特に才能があるわけでもないし、結局柱でもなかった。縁壱の技を使えたのも、ヒノカミ神楽を子供の頃から習っていただけにすぎません。
でも、そんな平凡な少年が家族への思いと人一倍の努力で鬼舞辻を追い詰め、勝利したことに意味があるのだと思います。ここでもまた「普通の人」の勝利なんですね。
そしてまた、「普通の」主役の炭治郎が一人では決して勝てなかったところにも意味があるのだと思います。
そんな平凡な少年が最後には「神に選ばれた者」になります。ここにきて、炭治郎が特別な存在になったというか。主役らしくなったというか。
でも、それをあっさりと捨ててしまうんです。捨てるという意識すらなかったでしょう。
おそらくその地位は、さっきも言ったように上弦の第一位の鬼や、第三位の鬼が求めてやまなかったものかもしれません。
でも、そんなスーパースター的なものよりも、平凡だけど幸せな生活をこそが掴むのが難しく、尊いもの、ということだったのかもしれません。
そういったところからも、やはり脱ヒーローという思想が見えるし、平凡で幸せな生活の再発見というか、様々な苦難を通ってきた平成以降の日本の世相を表しているようにも思います。
鬼の文化
また、ここで面白いのは、あれだけ個に執着した鬼舞辻が、鬼殺隊を見て、継承の強さを目の当たりにし、炭治郎に自分の跡を託そうとしたことです。
これは、言ってみれば鬼の「人化」で、目的こそ違えど、そこには一つの文化ができた(すぐに消えたけど)ように思います。
もし、炭治郎が鬼として続いたならば、そこには社会が形成されたかもしれない。そうなってくると、ますます鬼は人となっていったのかもしれない。それこそ、次の人類とでもいうように。
そもそも、このマンガでの鬼は、鬼舞辻が自分の血を分けた者が鬼になりました。そういった意味では鬼もまた血の繋がりで増えていったと考えると、それもまた継承と言えるのかもしれません。
血の繋がり
それを考えると、このマンガは「血の繋がり」というものを何よりも重要視していたように思います。思い返せば多くの登場人物は親子や兄弟と血の繋がりを大事にしてきましたし、産屋敷家と伊黒さんの家は何百年も家が続いています。
一方、悲鳴嶼さんは血の繋がりのない擬似家族を作りはしましたが、結局裏切られてしまいました。最後は子供達の幻影が現れて、「誤解」を解いたのですが、なんかそれは取ってつけたような言い訳のようにも見えてしまいました。
思い返せば、蜘蛛の鬼も疑似家族を作りましたが、結局気持ちは繋がっておらず、崩壊してしまいます。
このマンガの中では血の繋がらない家族はことごとく破局を迎えています。一方、血の繋がりのある関係は後々、それは「あの世」になってしまったとしても、修復されています。
ここに「血の繋がりこそが至高」という吾峠呼世晴の思想が透けて見えるような気がしてならないのです。
そもそも、この物語の主人公である炭治郎の行動原理は「鬼にされた禰豆子を人間に戻す」ということでした。血の繋がりが、物語の始まりにして根幹でもあったのです。
また、「血の繋がりこそが至高」ということを思うと、敵である鬼が鬼舞辻が血を分け与えることで増える、ということも納得ができます。
血の繋がりこそが至高であるなら、最強でなければならない主人公の敵にも、そういった血の繋がりが求められるからです。
ただそれとは別の話なんですけど、最後の悲鳴嶼さんと子供達の幻影のシーンなんですけど、「明日さえ来ていれば」というセリフがあります。
これが非常に印象的で。やはり真っ先に思ってしまうのが災害ですね。災害はある日突然明日を奪います。それを思うと、やはり鬼とは災害の象徴で、このマンガの下敷きには東日本大震災があったのではないか、と思ってしまいます。
二度のクライマックス
鬼舞辻を倒して大団円、かと思いきや、もっとも嫌な形で更にまたクライマックスがあって、そこを乗り越えて、それぞれの登場人物の炭治郎への思いが明らかにされ(告白である)、更に大団円、という構成は見事だし、ホント、熱かった!
みんながボロボロになったところで、最後の最後に、これ以上はない絶望をばら撒く。吾峠呼世晴おそるべし。それでまた、みんなの炭治郎への思いが爆発するところもまたね、グッと来るポイントですよね。
そして最後、もちろん炭治郎はみんなのところに戻ってきて大団円。
思うに、この話は二度のクライマックスがあるのだと思います。絞り出したと思いきや、まだ絞り出す。これでもか、というところまで出す。
そしてそれが、作品の軸を明確にするようなもので、単に連載を長引かせる類のものではなく、ちゃんと意味があるのが良い。
普通の人たちが力を合わせて立ち向かう、そこには伝統という文化の力がある。そして二度グッと来て、二度目はもっと大団円というか。この怒涛の大感動の作り方は、ホントにすごいと思います。しかも意味がある。脱帽ですね。
後日譚
おそらく、この後日譚がいわゆる「本編」の最終回的な話だと思います。鬼舞辻に勝ってから3ヶ月後くらいの話。
禰豆子は無事人間に戻ったけど、炭治郎含め、それぞれに大きな後遺症を残してしまいます。
鬼殺隊で残ったのは冨岡さんと不死川の2名。仲の悪い(?)二人が残ったのは、どこか因縁めいています。その二人も今や仲が良さそう。
元柱の忍者や煉獄家の面々も炭治郎の見舞いに駆けつけたりして、まさに大団円。煉獄親父が炭治郎に顔向けできなそうなのが面白かったw もう酒もすっかり抜けたんでしょうか。割とどうでもいいことですが、禰豆子が割とアホの子っぽいのがまた可愛らしかったです。
あと、喩史郎が言った、炭治郎の「鬼としての才能」が気になりました。あの鬼舞辻をも凌ぐと言います。
やはりなんというか、ここに来て「主役として立った」印象を受けてしまいます。やはり、主役には他の登場人物よりも優れた点があった方が、立つのかな、と。そしてまた、やはりその方が「締まる」印象は受けますよね。さっき言ったこととは違うこと言いましたが。それは確かにそう思うし、そうなんだと思います。
そしてそれぞれに、痛みを伴いながらも、やさしい日常が描かれていく。こういう後日談を読むと、やはり「良かったな」と、どこか安心した気持ちになります。そしてやはり、悲しい。それは、みんなが揃っていないからでしょう。この話の激戦を思わずにはいられません。そしてその傷は炭治郎たちの心にずっと残っていくのでしょう。
最後は炭治郎が善逸と伊之助を伴って、禰豆こと一緒に故郷の家に帰ります。花の墓前で、幻影となった亡き家族と再会。ここで炭治郎の長きに渡る戦いの物語は完結。
やはり、この話は家族、血、そして地(土地、故郷)の話であったのでしょう。
勝ち取った平和は多くの人の犠牲の上に成り立っています。炭治郎は関わった全ての人のお墓参りに行くのですが、それはそういった犠牲を弔うことと、忘れないこと、繋げていくことの強い意志の表れでもあると思います。
そして最後のコマで唐突に現代のビル群が映されます。え? どういうこと?
後日譚の後日譚
最終回は、後日譚の、更に未来の話。舞台は、前回の最後のコマで仄めかされていたように現代。炭治郎たちの、割と近い子孫たちの日常を紹介しています。
それぞれに生まれ変わったり、曽孫だったりが(中には「本人」もいるが)、幸せな毎日を過ごしています。そんな描写はちょっと二次創作っぽくもあります。でもこれは、公式が提供してくれた幸せな後日譚。だから、読者は公式に安心して「良かったね」と胸をなでおろすというか、少し幸せな気分に浸れるのだと思います。
しかしながら、これは単なる公式による二次創作ではなく、意図があるのだと思います。
それは元を辿れば平安から続いた、そして今に至るまでの一貫した繋がりの物語であることを表しているのかなぁ、と。その長い道のりはまだ続いています。時間を越えた繋がり。脈々と受け継がれていく文化。だから、現代までも描かなくてはいけないのだと。
実際、作者も帯のあとがきでも書いているように、昔話のその時は今であり、今もいずれは昔話となる。であるならば、その昔話は現代にも繋がっている、地続きであるということを描かなくてはなりません。公式による二次創作にして、作品のテーマを強く訴える。そんな最終回だったように思うのです。
そして、今の幸せは先人たちの艱難辛苦の末にもたらされたものです。それは先の大戦然り、明治前後の混乱然り、戦国の乱世然り、飢饉などもそう。そしてもちろん、日本特有の自然災害もそうです。
特に自然災害は直近の悲劇でもあったので、やはりそのことはかなり意識にあったのではないかと思います。
もちろん、今を生きる炭治郎たちの子孫の生活は単純に楽しく幸せで、それを感じるだけでも意味があるようにすら思います。
また、炭彦が、鬼も次に生まれる時は幸せになるといい、という果てのないやさしさを思うのですが、そこがまた泣けるんです。そして、時間がかかるかな、という問いかけは、多分作者の意図だと思います。
おそらく、この作品世界では、時間はかかるけど鬼とされた人たちもいずれは生まれ変わり、今度は幸せになる、という暗示のように思えます。思えば、鬼にされた人たちは、そのほとんどが同情に値するような人たちであったと思います。この作品はそういう鬼にこそドラマがあった。
吾峠呼世晴のやさしい嘘
また、この最終回は吾峠呼世晴のやさしい嘘でもある、と思います。
この物語世界では死後の世界があり、生まれ変わりがあります。最終回では生まれ変わったその先が、あたかも理想郷のごとく描かれていましたが、苦しい戦いを強いられたり、辛い思いを強いられたりした炭治郎たちもまた、前世の生まれ変わりです。
であれば、炭彦たち生まれ変わりもまた、決して幸せを保証されたものではないし、炭彦たち自身も、今後辛い目に遭うかもしれないし、おそらくは遭うのでしょう。
それを一旦全部スルーさせています。スルーして、幸せな二次創作的な展開になりいました。あの現代の理想郷的世界は、多分吾峠呼世晴のやさしい嘘だったのです。
なぜスルーしたかというと、多分、大団円の最終回でそれを描くのは野暮ってもんだからでしょう。吾峠呼世晴自身も、そういう嘘であることはわかっていると思います。でも、あえてそういうことは描かない。それはここまで応援してくれたファンのためなのだと思います。
そして最後は作者からの、各登場人物宛に見せかけた、メイン層である少年少女の読者へ向けたメッセージで締めくくられています。
少年漫画の最終回として実に見事な最終回であったと思います。これほど美しくまとめた最終回は過去例がないのでは、と思うほど。