azzurriのショッピングレビュー

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僕が買ったもの、観に行った映画・ライヴなど、要は金を払ったものに対して言いたい放題感想を言わせてもらおうというブログです。オチとかはないです。※ネタバレありまくりなので、注意!

是枝裕和監督作品「怪物」ネタバレ有り感想。音楽坂本龍一、脚本坂元裕二の超強力三人タッグはやっぱすごかった!!


先日、ずっと観たかった「怪物」をようやく観に行きました。

いやこれ、ホント観たかったんですよね。自分にとっては絶対に観なくてはいけない作品でした。

というのも、僕が大ファンである是枝裕和の作品に、僕が大ファンである坂本龍一の音楽が乗るからです。

もう、好きと好きがかけ合わさって、そりゃもう二乗倍どころの騒ぎじゃありません。無限大倍です。

そんな感じで、両者の大ファンな僕からすると、これはもう本当に待ち望んだ作品でした。

で、映画の方はというと、これがまたすごかった。坂元裕二もすごい脚本家ですね。さすがカンヌで脚本賞

予告編

youtu.be

 

教授のピアノ曲

教授の曲は既発表曲と、新たに書き下ろされた2曲。全てがピアノ曲でした。

それがまた、非常に映像にハマッていたと思います。

確か是枝監督が、坂本さんの(既存の)曲を想定しながらシーンを作っていった、みたいなことを言っていたような気がしたのですが(確か聞いたと思う。未確認)、そういったこともあったと思います。さすがですね。

特に、主役二人の子どものシーンと教授のピアノの感じがハマッていたように感じました。是枝監督特有の映像美と、美しい子ども二人、そこに教授のピアノの音、響きが硬質な雰囲気を沿えていたようで。

元々、是枝監督の映画って、あんまりBGMが流れないのですが(それが良さでもあります)、そんな中に流れる音数の少ない教授のピアノ曲はすごく相性が良かったのかもしれません。もちろん、楽曲の良さもあると思います。

わかりやすい構成

基本的には三部構成の映画でした。

先ずは安藤サクラ演じる母親の視点、次に瑛太演じる担任教師の視点、最後に子供二人の視点。

第一階層、第二階層、第三階層、といった感じで視点が変わるごとに、より真実、本当は何が起こっていたのか、がわかっていく、という作りです。

視点が違うと、こうも見え方が違ってくるか、という人生の、あるいは生活、日常のありようの断片を切り取って見せられているような気分になりました。

第一層では事件が起こり、第二層では表面的な嘘、というよりは誤解がわかり、第三層では根本的な嘘が暴かれ、真実が明るみに出る。それも「真実の一端」と言うべきでしょうか。

ある面では非常にわかりやすい作りと言えるかと思います。

是枝裕和っぽくない

そういった「わかりやすい」という意味では、是枝監督にしては珍しい作風で、是枝監督っぽくないと言えば言えるかもしれません。

ただ、そこはやはり「監督」なので(映画は監督のものですから)、映画の全体的なテイストは是枝監督っぽさに覆われています。

ただ、是枝監督特有のユーモアが今回はほぼ完全に影を潜めていたようにも思います。

それまでの是枝監督だったら、何気ない普通の日常会話の中に随所にウィットに富んだ笑いが挿入されていたり、そして実はその面白会話の中に後に重大なエピソードが暗示されていたり引き金になっていたりしていたように思います。

でも今回は、そういった会話からはユーモアさがガッツリ差っ引かれていた印象でした。

やはりそれは脚本を坂元裕二に任せたからだろうと思います。おそらくそういったわかりやすさが、坂元裕二色なのかもしれません(他の作品、観たことないので断言はできませんが)。

そういったストーリー、セリフという点では、是枝監督は、監督でありながら、影武者に徹したように思います。

だからか、そういった点では、今回、是枝監督ではありえなかった、ある意味でベタな、ある意味ではわかりやすいセリフが多かったようにも思います。

例えば、病院からの車の帰り、安藤サクラに息子に向かって、やたら「結婚」だの「普通の生活」だのをこれみよがしに言わせていました。というよりほぼ「説明」のようにすら感じましたねー。

ここで「あ、この映画はいわゆるLGBTQ+のテーマも内包していくのだな」とわかりすぎるほどわかります。

また後のシーンでも、喧嘩した麦野くんと星川くんを担任の先生である瑛太が「『男らしく』仲直りの握手な」と言ったりもします。

なんというか、いずれのシーンも唐突なセリフなんですよね。それまでの是枝監督作品には絶対になかった要素のような気がします。

そんな感じで、今回の作品は比較的わかりやすかったようにも思います。

怪物な皆さん

この作品はタイトル通り、誰しもがその内に怪物性を持っている、怪物であることを隠している、そんな表のテーマで進んでいきます。

安藤サクラなら、まぁ、わかりやすく「モンスターペアレンツ(シングルマザーだからモンスターペアレントか)」ということになるのでしょう。

ただし、作中の彼女を「モンスターペアレンツ」というのは、なんか気が引けますねー。勘違いとはいえ、彼女の中ではそれが真実である以上、当たり前の行動だと思います。

瑛太は…いや、彼はただの被害者だったようにも思います。彼にはあまり怪物性は感じられなかったかなー。

あるとすれば、暴力教師としての自分の記事の載った週刊誌を集め、付箋を貼りまくっているところかな。これは彼の自己顕示欲の裏返しなのでしょうか。ちょっとよくわからなかったけど。

思うに、安藤サクラ瑛太、この二人は被害者であったと思います。

言ってみれば、子供の嘘に翻弄された被害者なんですよね、見方によれば。そして、この被害者二人が、謎を解き、真実に近づいていったのは、必然であったのかもしれません。

そして麦野くんは、親である安藤サクラや担任である瑛太に嘘の証言を繰り返したり、星川くんに「クラスの前では話しかけないで欲しい」と約束させたり、いじめを傍観していたり。

その星川くんはゲイであることを「怪物」と父から称されます。星川くんで言えば、冒頭のビル火災は彼がチャッカマンで放火したことがほのめかされています(但しこれはミスリードかもしれない)。

それぞれに内包する怪物には理由があったと思います。理由があるから怪物にもなる。そういった意味では、それぞれの人物をある程度把握、理解はできた気がします。

ただ一人、わからなかった人物がいました。校長です。

校長

この校長だけは全くわかりませんでした。

とにかくこの校長は物語全編を通じて「悪役」として描かれています(いたように思う)。一切「人間らしい」面を見せないんですね。

でも、刑務所での、おそらくは夫であろう囚人との面会のシーンで、少し印象が変わります。

そのシーンでの会話の中身はどういうことかはわからなかったのですが、ここで初めて彼女は素の自分を見せたように思います。

そしてある意味のクライマックス、自分が嘘をついたと校長の前でだけ告白した麦野くんに対し、自分と同じだね、と呟いた校長は、麦野くんにトロンボーンを吹かせます。

自分はお手本としてホルンを吹くのですが、その時「人に言えないことはこの(金管楽器)中で言えばいい」(だったような気がする)と言って、一緒に吹くのです。

昔は音楽の先生だったそうで、全国大会にも行くような部を受け持っていたのだとか。麦野くんに楽器を教える校長は実に「人間らしい」良い表情をしていた(そのように田中裕子は演じていたように思う)。

それまでの一貫していた、安藤サクラ曰く「死んだ目」とはえらい違いです。

食品売り場で駆け回る子供の足を引っ掛けてすっ転ばせてみたり、果ては孫を轢き殺したり(作中では真相は語られず)、子供が嫌いなのか、と思わせておいて、やはり子供、そして教育が好きなのだろうか、とも思わせます。

まぁ、おそらくはどっちも真実なのかもしれませんが。人間は矛盾したものです。それを最も「わかりやすく」体現していたのは、この最も「わかりにくい」校長だったのかもしれません。

多分本当に描きたかったこと?

是枝作品としては比較的わかりやすいこの作品ですが、わかりやすいという点では、日本の社会を学校という小道具を使ってミニチュア的に再現しているところもわかりやすいと思います。それも一つの大きなテーマだったかもしれません。

ですが、観終わった後、思うに、そういったテーマだとか何だとかいうものよりは、麦野くんと星川くんの、まだ性というものから未分化な故に瑞々しい、少年二人の純愛とも違う純粋性をこそ、一番描きたかったように思えてなりません。

とにかくこの二人のシーンが綺麗すぎるし、ファンタジーすぎる!

星川くんがもう、可愛いすぎる! 麦野くんがカッコ良すぎる! それにしても麦野くんは是枝監督の好きな少年の系譜にガッツリいますよね。言っちゃうと柳楽優弥

ラストシーンの雨上がりの山野を、泥だらけの二人が笑いながら叫んで駆け抜けていくシーンは、本当に美しかった。

それで、ちょっと思ったんですけど。やっぱり…最後の、嵐が過ぎた後の、あの抜けるような青空のシーン。あれってやっぱり常世なんでしょうか?

というのも、二人の「秘密基地」は廃トンネルの向こうの打ち捨てられた電車でした。電車と少年、と言えば思い出すのは「銀河鉄道の夜」です。

そしてまた、トンネルというのもまた、違う世界へと繋ぐメタファーとして使われることも多いと思います。

更に、電車を見つけたはずの瑛太安藤サクラは、最後のシーンではいませんでした。発見しておきながら、いないってことは考えられないですよね。

ということは…、やはりそういうことなのでしょうか?

あの、全てから解放されたかのような、明るい世界。二人にとっては、まるで天国のようでもありました。

多義的な「怪物」

劇中、星川くんは「ナマケモノは捕食される時、全身の力を抜く」と言います。なぜなら、「その方が食われる時、痛みを和らげられる」のだそうです。

それに対して麦野くんは「星川くんはナマケモノですか?」と聞ききます。

星川くんは、ゲイ(多分)ということで家では父親(一人親らしい)に、どうも「治療」と称して折檻を受けているらしいんです。そして学校ではいじめられている。

学校ではどんなにいじめられてもリアクションは薄く、受け流していました。おそらく家でも似たように対応しているのでしょう。

それはまさに捕食される時のナマケモノのようです。

力を抜いて受け流す。力を抜いて、食われても痛くないようにする。それは、いわば、ナマケモノの怪物的能力であり、同時に星川くんの怪物的能力でもあります。

おそらく、タイトルにもある「怪物」とは、多義的に使われているようにも思います。悪い意味合いばかりが与えられているわけではない。

様々な「怪物」

また、怪物と言えば、この作品に出てくる子どもたちも怪物的側面を見せます。

担任である瑛太を裏切り、皆で嘘の証言をするところなどは、実に子どもらしい怪物性を露わにしていると思います。

おそらくは先生に言われたのでしょうが、子どもってそういうの、敏感に察知します。ヤバいと思ったら、簡単に裏切る。それは未成熟な幼体である子どもが、弱い存在であるからでしょう。その点は星川くんに対する麦野くんのクラスでの態度とも共通しています。

更に怪物について言うなら、ひょっとしたら事の元凶は組織としての学校なのかもしれません。それは校長を始めとする一人一人の教師、人間ではなく、それら個々人が有機的に結合し、一つの生命体のようになった組織なのかもしれません。

学校がなければ、いじめもない。学校がなければ、麦野くんは星川くんにまつわる嘘を自分の母親に言わなくて済んだ。学校がなければ、教育熱心で実直だった瑛太も学校を追われることもなく、恋人に捨てられることもなかった。

人だけが怪物じゃない。おそらくは学校そのものも、組織そのものも、施設そのものも、怪物なのかもしれません。この映画で扱われる「怪物」とは多義的であり、概念も広いように思います。

理解不能なのが「怪物」

そしてまた、優れた作家は子供時代のことをよく覚えているように思います。

よくよく思い返せば、子供って、子供だけの社会があり、文化があります。

それは大人になると忘れてしまうもので、大人になったら全く理解不能なものです。それゆえ、子供も大人には本当のことは言えない。どうせ理解してくれないことをわかってるから。

だから、親に問い詰められた時、手段の限られた、手札のない子供はどうするか。嘘をつくしかない。

それが、この映画の全ての事の発端だと思います。それは、大人からすれば怪物なのかもしれません。怪物とは、理解不能な化け物なのだから。

 

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