azzurriのショッピングレビュー

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僕が買ったもの、観に行った映画・ライヴなど、要は金を払ったものに対して言いたい放題感想を言わせてもらおうというブログです。オチとかはないです。※ネタバレありまくりなので、注意!

「ジュラシック・パーク」原作小説下巻ネタバレ有り読書感想。描いたのは恐竜ではなく科学信仰批判?!


ジュラシック・パーク」の下巻なんですけど、いよいよパーク内サバイバルが始まった感じです。

なんせ恐竜、脱走しちゃいましたからねぇ(^^;; しかもその中には当然の如く、最強との呼び声も高いティラノサウルスも含まれています。これはヤバいです。

恐竜だ!と思うとワクワクしますが、危険だ!と思うとヒヤヒヤします。シャチは好きだけど、海中では遭遇したくない、というのに似ています。

そんな感じで、アクション要素が上巻と比べるとグッと増してくるのが、この下巻なのです。

それと同時に、おそらくは作者であるマイクル・クライトンのメッセージ性も、より強く出てくるのが下巻でもあります。

ここらへん、非常に読み応えあります。

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専門用語は小道具

上巻でパークのシステムが産業スパイにブッ壊されてしまいましたから、その復旧が急務ということで、下巻ではプログラムの技術的な話が多くなっています。

ソースまで載っけちゃってねw しかもそれを元に話が進んでいく。もう、久しくソースとか見ていないので、このコマンド見たことあった気がすんなー、程度で、ほぼ忘れてしまったので訳がわかりませんでしたw

そんな感じで、かなり専門的な話が結構な枚数を割かれてまして。そんなもん見せられても、多分ほとんどの読者がわからないと思うんで、割と退屈なシーンが延々続いてしまいますw

しかしですねー、個人的にはここすごい大事だと思うんです。わかってもらえなくも、とにかく詳細に記述する。これが大事だと思うんですね。

プログラムのソースを詳しく描写することで、それが一つの小道具となっているからです。

科学的な裏付けを基に恐竜を描く、っていうのがこの小説の根幹ですので、こうして長々とソースを記述し、説明することによって、物語にリアリティを含ませ、迫真性を与えることができるんです。

だからこういうシーンは非常に退屈なんですけど、非常に重要だし、やはり雰囲気出るんですよね。そしてそれに成功しているとも思います。うわーなるほど(わかんないけど)大変だなーってw

冒険小説

また「ジュラシック・パーク」は冒険小説でもあるので(何せ現代に甦った恐竜と人間との戦いですからね)、アクションシーンにも多くページが割かれています。

恐竜に追いかけられる描写は非常に迫力があって、手に汗握ります。

でも…俺としては退屈なんですよねw

なんせ、追いかけっこが延々続くわけですから、その間、ストーリーは一向に進まない。なかなか物語が前に進まず、早く次の展開にならねーかなー、と正直思ってしまいます。

ただ、描写自体はよく描かれていて、そこは非常に秀逸でもあるんですよね。

フィジカルなアクション描写も良いんですが、未知の動物・恐竜との対決ってのがすごくよく考えられている。なんせ、恐竜なんて誰も見たことないんですから、想像で書かなくちゃならない。

その未知の生物の身のこなしが非常にそれっぽく、「あぁ、こういう感じだったんだろうなぁ」という描写は非常に説得力がありました。多分、現生の動物たちを細かく観察して参考にしたんじゃないかなぁ、と思います。

また、恐竜とのフィジカルな対決だけでなく、果てはコンピュータを復旧させるための操作をもスリリングに描いています。ここはむしろ人間対機械の対決、といったところでしょうか。

ここら辺の筆力はさすがで、物語に緩急を与え、読者を飽きさせない作りになっています(さっき、退屈って言ったばかりですが)。

科学者は業績が大好物!

しかし何と言っても、イアン・マルカムの科学者に対する評価がですねー、すごかったw 個人的にはこれがこの物語の最も根幹を成すところだと思っています。

もう、ホンット、ディスりまくり! そしてまたそれが、非常に説得力があるんですねー。

まぁー、とにかくすごいです。マルカム曰く、

1 科学者は見せかけの知能しか持っておらず、全体を見通す力はない。
2 科学は西洋史観的なものの考えであり、それ以外の世界では、そのような見方はうんざりしている。
3 科学者は自然の理から外れた存在で、新しい発見をする度に環境を破壊していく。

更には、進歩など何もなかった、とまで言い放ちます。そして、そろそろ何がためになり、何がためにならないか見極め、変革しないといけない、と締めます。

なるほどなー、と思ってしまいます。よくよく最近のニュースとか思い返してみれば、思い当たることが割と幾つか浮かんでしまいます。

で、上記のことが、すごいページ数を割かれて、細かい専門的な知識も交えて語られるのです。すごい読み応えあって、非常に面白いです。

細かく見ていくと、先ずマルコムが指摘した1のことは、これまたマルカムが指摘した次のことが原因になっているように思います。

・科学者が最も大事にしているのは真実の探究ではなく業績である。

初めは確かに真実の探求を求めていたのかもしれません。しかし、研究を続けるには金が必要です。資金を調達するためには業績があった方が有利です。だから、科学者は業績を求めるようになるのではないでしょうか。

ただ、もし自分がすげえ頭良くて、何かすごい発明や発見できそうで、資金を調達できるところにまで手が届きそうだったら、そりゃやっぱりお金は欲しいでしょう。その魅力に抗えるかと問われたならば、俺は難しいなぁ。

そうやって、よくよく考えてみるに、お金とか名声(それもお金ですが)の吸引力ってすごいですよね。ただまぁ、そうやって拝金主義に陥ると、視野狭窄となってしまい、後々大変なことになってしまうのはわかりきったことなんですけどね。

マルカムが指摘した1のことはこれが原因となっているように思います。

まぁこれ、90年代の小説なんですけどね。この段階で、既にこのような視点があったんですよねぇ。最近よく言われているプラスチックのゴミ問題なんかは、この30年間、何も変わらなかったことの象徴なのかもしれないないですねぇ。

科学者は二世気質満載?!

また、マルカムはこういったことも言っています。

力を得る人は、その力を得るために様々な努力と研鑽に励み、多大な犠牲を払わなくてはならない。そして、力を手に入れた過程で、自己抑制力を得ることができる。

なんかわかりますねぇ。本当に物知りな人って、あんまりその知識をひけらかさない印象。逆に「俺ギター弾けるゼ」って人にギター持たせたら、ハッタリギターしか弾けなくて、いざスタジオ入ったら化けの皮はがれるってやつ。

ところが、科学者にはこのことが当てはまってしまうらしいんです。悪い意味で。

曰く、科学は相続財産に似ているんだそうです。割と簡単に先人の知識を流用できるから、というのがその理由。

確かに、科学に限らず、学問って、それまでの知識を書物や、最近だったらネットで調べて吸収して、更にその上に積み重ねるものですからね。

しかもポイントは、それら先人の知識を手に入れるのが、かなり若いうち、というところなんです。だから、傲岸不遜になる。たまにいますよね。若手のうちに売れて、調子こいて、干される芸人w 増長するってのは、若い人の特性なんでしょうね(たまに若くなくてもいるけど)。

そんな感じなので、自然など、様々なものへの畏敬の念がなく、あるのは名声を得たいという欲だけ、ということになってしまうらしい。だから、世俗的な悪徳をしてもやむなし、と考える、というのです。業績を得るためには背に腹は代えられぬ、ということですかね。

これも、マルカムが指摘した1に通じることになってしまうのでしょう。

科学は宗教?!

マルカムの指摘した2のことはマルカムが後に語る次のような「科学は信仰」ということなのかもしれません。

科学ってのは、中世的システム、つまり宗教ですね、それを払拭して、新しい、絶対的な価値観念になったわけですが、それもマルカムが言うには、そういった中世的システムが、その頃出現しつつあった新しい社会に適合しなくなったから、ということらしいです。

そして科学は今や500年に及ぶ「信仰」となってしまい、現代の世界に合わなくなった、と言うんです。

しかも、科学は不確定性原理ゲーデルの原理などで知的正当性すらも勝ち得なくなってしまったらしく、科学はその力を自らで制御できなくなってしまった、と言います。

最後の「制御できない」というのが、非常に未来予測的で怖いですね。思い当たることは幾つもあります。

でも確かに、科学的であることは正しさの象徴として広く流布してて、それが常識となっています。でも、よくよく考えれば、科学の知識で以前言われていたことは実は間違いでした、てなことはそれほど珍しくありません。

恐竜で言えば、僕が子供の頃はティラノサウルスなんかは尻尾引きずって歩いて、鈍重な生物、って感じでしたもん。それが実は間違っていて、今じゃ尻尾立てて、俊敏な動きしてた、ってなってますからね。

結局科学って「今はこうなっています」ってことで、それを「信じる」ことでしかないような気もします。これって、信仰ですよね。

科学者は反自然?!

また、3のことの言い換えかな、と思うのが次の点です。

マルカムは、人間が自然をコントロールしようとした時、その時点から深刻な問題を抱える、なぜならそれは不可能だからだ、と言うんです。

これは、当り前のことなんでしょうけど、刺さりますねぇ。これはここ数年の状況を鑑みると、特に刺さります。

自然に祈りを捧げるのは、自然をコントロールできないことがわかっているからだ、というような台詞もあって、これもなかなか深いですよね。「科学以前」の人の方がむしろ自然というものをわかっていた、とも取れますよね。そう考えると、人間は科学の力を手に入れたことによって、むしろ退化してしまった、とも言える。

科学は自然の理から外れた存在、というのは、自然をコントロールする、ということと同義のように思えます。というのも、コントロールするためには、一旦その外に出なくてはできないからです。

そうかぁ、やはり人間は地球を滅ぼす愚かな生物なのかー、と、よくあるペシミスティックな一言も漏らしたくなるのが人情というやつですが、その瞬間、マルカムは更に指摘します。

人間には地球を滅ぼすこともできなければ、救うこともできない、と言うんですね。

地球が滅びる、というのは、あくまで人間中心の考え方で、地球規模となると、もっとスケールがデカい。滅びるのは人間と、その巻き添えを食らう生物で、地球本体は別に滅びない、というのです。また、救うなんてことは当然スケールがデカすぎてできない、というのです。なるほど!と思いました。

とはいえ、人間にとっては、人間が滅びる、というのはそのまま地球が滅びるとほぼ同義なのですがね。

それでも、まだまだ科学

これを読むと、確かに科学は信仰で、これを指摘した30年前から何の進歩もないなぁ、と思ってしまうんですが、その間に科学に代わる新しい強力な価値観念の転換が起こり得るようなものが出てこなかったのもまた事実。

しかし、「やがて哀しき外国語」で村上春樹が、アメリカに取って代わる明確且つ強力な価値観を持つ国はなかった、と言った30年後に中国が台頭してきました。これと同じように、これから何年か先にそれらしい価値観念が出てくるかもしれない。

ただ、科学信仰は500年続いたので、たかだか30年かそこらでは、代わり得るものが出てくるのは難しいかもしれないですけどね。

ちなみに上記のイアン・マルカムの発言は、主にジョン・ハモンドに対して言う台詞なんですが、思うに、ハモンドは多くの科学者、もっと言ってしまうと人々の象徴で、マルカムは作者マイクル・クライトンの代弁者なのだと思います。

ただ、チーフエンジニアのアーノルドが、マルカムのは机上の空論で俺たちのは実践だ、みたいなことを言うんですけど、その実践にあぐらを組んで、かえって盲目的になってしまっている点が逆説的な論や展開で、結構皮肉が効いていて面白いです。

大抵の場合、机上の空論、ってのは役にも立たないことの喩えなのですが、ただやってるだけで思考停止になるってのもまたよくあることで、これは自戒の念も込めて、考え直してみる価値はあるかもしれません。

そしてこうやって改めて科学のことを考え、自分の暮らしぶりを振り返っていくと、やはり科学の恩恵に浴しまくっているなぁ、という結論に辿り着かざるをえないわけです。うーん、科学。

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グラントは果たして『正義の』主人公だったか?

で、ですね、最後のクライマックスシーンのラプトルの営巣地のシーンでは、おそらく、グラント博士のエゴが出てしまった場面でもあると思うんです。

グラント博士もマルカム言うところの科学者です。自身が研究してきた、そして見ることはできないと思っていたラプトルの営巣地を見ることに抗い切れなかったのでしょう。

ラプトルの営巣地にことについて、色々それっぽい言い訳は言うものの、よく考えると、必然性はありません。解決の手段としては、駆除は軍に任せればいいだけの話で、そしてそれが最上の手段でもあると思います。これはジェロームの主張する通りでです。

ちなみにこのジェロームという人は、マルドゥーンを手伝い、不慣れで危険なことにも、ある種積極的に手伝い、且つハモンドの妄想である、危険なパークの閉鎖を強く心に決めていました。言わば、物語的には「正義」の役回りなんです(ちょっと違うかもしれないけど)。

しかし、グラントはエゴを全開にしてしまいます。そのジェロームを危険に晒してまで、自らのエゴを優先させたグラントは、やはりマルカム言うところの悪徳科学者でしかなかったように思います。

ただ、映画版では、ラストでハモンドに、このパークは承認できません、と言う。ハモンドハモンドで「当然だ」と切り替えす。こんな感じで、登場人物の人物造形が映画と原作で少しずつ違うのも、面白い点で、スピルバーグの方がより、どの登場人物も善属性多めに描かれています。

ラストは映画と違って詩的

そして、この物語のラストなんですけども、映画版とはかなり違っていますね。

夕闇の中、ヴェロキラプトルの群れが、遠くを横切る船を見つめるんですけど、このシーンは詩的ですらあります。それを見たグラント博士曰く、彼らは「渡り」をしたいんだとか。鶴とかツバメとかがやるあれですよ。

なんせ、恐竜は鳥の先祖ですからね(現時点での学説。諸説あり)。彼らも渡りをしたがっているのではないかと。

でも、人間によって強引に甦らされ、島に捉われたラプトルたちは、遠くに航行する船を見つめ、何を思うのでしょうか? という詩的な感じ。これ、いいよなぁ。最後の最後にこれを持ってくるんだから、さすがはマイクル・クライトン(でも実は本当の最後の最後、後日譚的なものがあって、そっちは陰謀論的に結構ブラックな感じで終わりますが)。

ただまぁ、結構地味っちゃあ地味な絵柄なので、詩的ではあるけど映画的ではないですね。だから、スピルバーグもこのシーンは使わなかったのでしょう。まぁ映画のラスト、ティラノサウルスが一発吠えてそれ終わりってのは非常にカッコ良かったですけどね。あれは、「この映画の主役はティラノサウルスだ、ってことに気付いたから」らしいです。うーん、さすがスピルバーグ

ただ、そんな感じでですね、ジュラシック・パークの原作は、読んでみると「パークを作ることは、自然の摂理に反する愚かな行為」ということで、決して完成させてはいけないもの、と定義されていることがわかります。

ところが、映画の新シリーズの「ジュラシック・ワールド」は無邪気にそれを作ってしまいました。つまり、ジュラシック・ワールドは原作者のテーマをないがしろにした、三流の映画である、と言って過言ではないと思います。

 

 

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