基本的に僕は短編小説が好きです。
やっぱり読むのが遅いってのが大きいと思いますw 読むのが遅いと、いつまでも話が終わんない。
だけど、短い話だと割とすぐに読み終わる(それでも遅いけど)。もちろん、本一冊となると時間はかかっちゃうんですけど、それでも、短い方がキリをつけるのに便利だったりします。
村上春樹も好きでたまに読むんですけど、やっぱり長編よりも短編の方が肌に合う感じです。
特に村上春樹の場合はそれが顕著ですね。村上春樹の短編は長編に比べてスキッとまとまっていて読みやすいと思うし、切れ味も鋭い気がします。
人気がある故に酷評も多くて、割と最近出された「女のいない男たち」も結構批判されているのを見たことがあるんですけど。僕は面白く読めました。
「カンガルー日和」は、もう随分前に刊行された本なんですけど、これも好きです。
村上春樹の魅力が凝縮
「カンガルー日和」は短編と言うには短く、ショートショートにしては長すぎる、そんな分量の、掌編とでもいうべき長さです。これがまた個人的にはすごく読みやすかったです。読むの遅いですからねw
短編っつっても、大体50ページくらいあるじゃないですか。そうなると僕的にはもう長いw どんだけ読むの遅いんだ、って話ですけどねw
でも、「カンガルー日和」は一日一話読み終えられる感じ。一話10ページくらいですかね。実に短いです。ちょっと時間がある日は二つ三つ、できれば五つくらい読めちゃうし、時間がない日は一話でもOKだし。実に都合が効く感じです。
それだけ短いから、言ってみればその作家の物語性みたいなものをギュッと絞ってエキスにした感じになるから、より村上春樹の短編の良いところが出ていると思うし、短編集全体を見渡しても、村上春樹っぽさがよく出てると思います。
幻想小説的なところや、エッセイのような私小説のようなもの。お洒落な感じや、郷愁感を感じるところ。不気味なところや、ちょっとユーモアがあるところ。あと、料理に関する文章! たまらなく魅力的ですよね。こっちも食いたくなってきてしまいます。そんな、色々ある村上春樹の良いところが全てある感じ。
それに、今よりもまだ大分若いからか、文章に瑞々しさが感じられるんですね。まだ多分、30をちょっと越えたくらいじゃないかな。本人的には、もう若くはない、って意識が文章の端々から見えるんだけど、でもやっぱり30はまだまだ若い。
ただ、80年代当時としては、30はもうすっかりおじさん、おばさんって感じだったんですよね。今の30とは全然違う。今のイメージだと、40かそこら。それを思うと、今の人たちはホント若いですよねー。
あと、佐々木マキのイラストも村上春樹の小説に合っているんですよねー。実際、何度も装丁を担当していますし。ちょっとお洒落でちょっと不気味。それって村上春樹の文章の特徴でもあるし、実にハマッていると思います。それまでは表紙を担当していただけらしのですが、この本では挿絵も幾つか入っているんです。だから、大げさに言えば、ちょっとした絵本的にも楽しめるんですよね。そして、そういった挿絵が箸休めにもなって、読むのが遅い僕としては、何となく息抜きできて楽しかったです。
ちなみに、この本にはあとがきがあるのですが、村上春樹の何かの本でまえがきとかあとがきが嫌い、って書いてあったの読んだことあるけど、その後けっこう見かけますけどね。村上春樹の本のまえがきとあとがき。
「1963/1982のイパネマ娘」が一番好き
で、どの話も面白いんですけど、中でも「1963/1982のイパネマ娘」が個人的には一番好きでしたかねー。
ジョビンの「イパネマの少女」に登場する娘に対する、まぁ、夢物語というか、そんな感じ。レコードの中、或いは歌詞の中の少女は歳を取らない、という。そして、その少女と会話をする。ちょっと妄想的な小説、というかエッセイかもしれない。
とりとめのない連想を通じて、郷愁感を描いている。ブラジル音楽特有のサウダージを村上春樹なりに表現してみた、という感じかもしれません。
「イパネマの少女」に対する返歌のつもりで書いたのかもしれません。で、更にそれを、リオのビーチで起こったことを、都市的に表現してみた感じ。村上春樹の都会的センスが良い意味で爆発してますね。とても読み心地の良い作品って感じです。
個人的に思う「村上春樹の良いところ」が全部詰まってる感じですね。60年代の音楽が好きで、シャレオツで、食べる描写が美味しそうで、知らないはずの時代に懐かしさを感じて、ちょっとユーモアがあって、幻想的で。
懐かしの手紙の時代
「バート・バカラックはお好き」を読んだ時に、ちょっと思うところがあって。
これは手紙の通信添削の大学生の話なんですけども。添削の先生は生徒とは異性、という決まりが、そのバイト先ではあったらしく、主人公(多分村上春樹)は若い子からおばさんまでの手紙の指南を行なっている、という話。
思うに、この時代はラブレターとか、文通とか、手紙での交流が盛んだった時代だったかもしれません。多分60年代が舞台だし。
この物語では主人公は手紙を書くのは「寂しいから」だろう、と言っています。そして、この時代、手紙を出す相手は、おそらくは自分の手紙を、書いた文章を、ひいては自分を、受け入れてくれる人だったのでしょう。だから、手紙を書くということは、それだけで救いになっていたのかもしれません。
翻って現代はSNSの時代です。手紙なんか誰も書かない。手紙の代わりになるのがSNSだから。で、一人ではなく、一気に多数の人に自分の文章を見られてしまう。
でもそこは、基本的には悪意の塊だったりします。だから、今の時代、自分の文章を書いても、自分を受け入れてくれることは、あんまりない。
おそらく、この「不特定多数」というのがよくないのかもしれません。一対一ならば、真摯に向き合わざるを得ない(あるいはそのことを強要される)ことが多いと思うんです。
なんだか隔世の感を禁じ得ませんね。
こんな風に、昔のエッセイや小説を読むのは、今の時代と比較できるので、そういう楽しみ方もできて面白いと思います。
村上春樹は案外昔気質の人?
「五月の海岸線」ではですねー、村上春樹の意外な一面を垣間見れた気がして、そういった意味でも面白かったです。
結婚式で、おそらく地元の神戸に帰郷した時の村上春樹のエッセイといった話なんですけど、多分小説じゃないんじゃないですかねー。
もう、とにかく開発に対して否定的なんです。新幹線から、地元の海辺の町から、変わってしまうことに関して全否定(^^;;
個人的には新幹線から見える風景が(新幹線も)大好きなので、読んでてあんまり気分が良くはなかったのですが、ただ、なんとなく気持ちはわかります。
日本って、それまであった風景を台無しにして、画一的で無駄な建築を作り続けるところあるじゃないですか。そんな国、世界でも稀なんじゃないですかね? 歴史と伝統を大事にするヨーロッパを見習うべきだと思うんですけどねー。
そういうことは細野晴臣も、昔の東京オリンピックで東京はダメになった、みたいなこと言ってました。
でも、村上春樹にはそんなイメージなかったんですよ。でも、この話を読んで村上春樹も、戦後すぐ生まれの日本人、ていう感じがして意外でした。
近所の海で海水浴を楽しみ、井戸で冷やした西瓜を好んで食べていたそうです。井戸というのが良いですよね。
普段の文章では村上春樹は都市型スノッブを気取りまくっていますが、その根底にあるのは、まだ牧歌的だった日本の風景なのかもしれません。