「うる星やつら2 ビューティフルドリーマー」をアマプラで観ました。
あと数日で終わってしまうリストに入ってしまっていたので、慌てて観たんですね。これは絶対に観なくてはいけない作品だ!と思っていたので。なんとか間に合った感じですね。
やはり素晴らしかったです!
多分、押井守の最高傑作と言って良いのではないでしょうか。
予告編
時間への懐疑性と夢
先ず思ったのは、最近本とか生前のインタビューとか展覧会とかでよく目にした坂本龍一の思想との類似性です。
どういったところが似ているかというと、「時間」というものへの懐疑性という点です。
教授は時間というものは、そもそも人間が作り出したものにすぎないのではないか、と時間そのものへの疑問を語り、且つそれをテーマにした作品を作ってきました。東北ユースオーケストラには「今時間が傾いて」という曲も提供してますし、これなどはタイトルからしてわかりやすい例ではないでしょうか。
本作でも、同様に夢というものを通して時間への懐疑性が登場人物の台詞として語られます。もし地球に人間がいなかったら時計もカレンダーも意味を成さない、時間というものは人間が作り出した概念ではないのか、と、教授とほぼ同じことを言うのです。
また、「夢」というテーマにも教授の思想や作品と相似性があって、「坂本図書」には漱石の「夢十夜」が付録でついていましたし、昨年末から今年の春にかけて開催された展覧会「音を視る 時を聴く」での一番最初の展示作品、高谷史郎とのインスタレーション「TIME TIME」でも、田中泯によって「夢十夜」「邯鄲」「胡蝶の夢」が朗読されました。
特に、「胡蝶の夢」はクライマックスでのあたると夢邪気の対決で、夢邪気によって語られています。
鏡の演出
そして、そういった時間への懐疑や夢を、特に冒頭ではデジャヴと絡めてサスペンス風にエンタメ化しているのです。
この時の描写が上手くて結構怖い。
♨︎先生(思えば、温泉マークはYMOもロゴに使っていた)とさくら先生の会話シーンでは回り込みだけでなく、歪んだ鏡を使って見る者に不安感を与える見事な演出。
他にもこの「鏡の演出」は上手く使われています。
あたると面堂が買い出しに行くシーンではビルの窓ガラスにあたるを映したり、みんなで遊びに行く時は水たまりが鏡の役割を担っていました。
この物語はほぼ終始夢の中が舞台となっているのですが、鏡も夢同様「もう一つの世界」の象徴として描かれることが多いと思います。
本作も例に漏れず、実に巧みに「鏡」という小道具を使っています。ただ写すだけでなく、微妙に歪ませている点が特に効果的で、よく考えられていると思います。また、不気味さも演出できています。
祭りの怖さ
また、怖いといえば、この物語は「終わらない夏休み」というある種の祭りを描いているとも捉えられますが、「祭りの怖さ」というのもあると思います。
実際、忍が消えるシーンでは風鈴やが路地を渡っていきました。風鈴も祭りを想起させる小道具でしょう。
この「祭りは怖い」ということについては、最近聞いたDaisy Holidayで細野晴臣とハンバートハンバートが語っていました。
思うに、祭りとは本来神へのもてなし、という側面もあると思います(普段のガス抜きという側面も強いとも思いますが)。
神をもてなすには、当然のことながら神を呼ばねばなりません。神を呼ぶには異世界への扉を開かなければなりません。そういった意味で、祭りとは異世界への出入り口というのもあるように思います。
だから、怖さがつきまとうのではないでしょうか。異世界への出入り口、という点では夢と共通点があるようにも思われ、その点でも上手い演出と言えるでしょう。
ルパンvs複製人間
類似性といえば、全体的にこの映画は「ルパンvs複製人間」と似たところがあるようにも感じました。
ひょっとしたら、そこを意識していたのかもしれません。大きな白い帽子を被った女の子などはわかりやすい要素だし、ルパンは夢を見ない、という点も逆説的に共通項となり得ていると思います。
また、黒幕が人類史の暗部で暗躍していた点もそっくりです。全体を包む、どこかアートな雰囲気も似ていると思います。
80年代風ドタバタ
以上のような硬派な面がこの作品全体を貫いていますが、それだけに留まらず、80年代風のドタバタ劇の要素も乗っけてくるところが流石です。
硬派な面だけだと、ややもすると、ただ暗い、陰鬱なだけの映画になってしまうけど、「うる星」のおなじみの面々を終わらない夏休みをいいことに、思い切り弾けさせている点が、この映画を名作たらしめている大きな要素でもあると思います。
そこに更に輪をかけて、東宝配給をいいことに、ゴジラなどの東宝怪獣や特撮要素をふんだんに使いまくってるところがまた笑えます。
X星人はまだ可愛い方で、第一作ゴジラをアニメで表現してしまったところは製作者の、むしろ「意地」や「矜持」すら感じてしまいます。
1984
80年代と言えば、この映画が上映されたのは1984年。奇しくも、かのディストピア小説の名作「1984」の舞台と同じ年です。
「ビューティフルドリーマー」の舞台も、人気のない夜の街や、特に後半の廃墟と化した友引町などはディストピアと言っても過言ではないでしょう。
また、1984年は「風の谷のナウシカ」も封切られています。ナウシカは核戦争後の世界を描いた、まさにディストピア映画。製作者が意図したのかもしれないけど、妙な符号ではあるように思います。
諸星あたる最強説
物語の方は、最後に残ったのはやはりあたる。
さくらや面堂が必死に「この世界」の謎を解こうと躍起になっていたのをよそに、いち早く「この世界」がラムの夢であることを見抜いていました。
面白いのは、あたるだけでなく、メガネたちもとっくに気づいているということ。秀才の二人より、「野性味」のある面々の方が一早く真相に近づいたというのは、然もありなんといった感じ。まさに理論より実践。
自分たちのいる世界が非常に不安定であることに皆気づいていても、楽しいからいいじゃん、と泥舟に乗っかる者もいれば、現状を打破しようとする者がいるのも、何やら風刺めいていますね。
話を戻すと、この作品ではやはりあたるが最強であり、ルパンのポジションなのだと思います。よく考えたらそれはそうで、ラムという宇宙人との鬼ごっこを地球代表として制したのだから強いはずです。
それに、あたるという男はどこか達観してるところがあるように思います。忍が本作で「男そのもの」と言及しているように、あたるの美女と見れば飛びつく様は、まさに男としての本懐、本職を実行しているとも言えます。
言い換えれば、自然の摂理そのものに従っているとも言えます。そういった意味ではあたるは自然そのものなので、だから最強なのです。
答えを出していない
しかしながら、そんなあたるも所詮は人間。夢邪気には敵いません。
しかし、最終的には白い帽子をかぶった女の子(ラム)の助けもあり、現実に戻ることに成功するのですが、正直ここは何だか無理矢理な感じがしました。
なぜなら、夢から覚めようとするあたるは、なぜ夢だといけないのか、その理由を最後まで見出せなかったからです。
最後は夢邪気がどこかへ行った隙に帽子の女の子(ラム)が現れ、帰り方を教えてくれる。しかし、夢邪気が言った「夢でいいじゃないですか」の問いには答えていないのです。
しかし、よくよく考えたら、夢にも二種類あります。寝ている時に見る夢と、起きている時に抱いている夢です。
この作品では、これが混同されているように思うのです。寝ている時の夢ならば、誰かが「いい加減起きろ」と言ってこづくか、水をぶっかければ否が応でも起こされる。しかし、起きている時に抱く夢は、そう簡単には捨てられない。
同じ「夢」でも全く質が違うのです。
高橋留美子は否定
とはいえ、この作品は面白かったし、やはり名作だと思います。ところが、高橋留美子はこの作品を否定したといいます。
なぜかはわからないですが、思うに、あたるがラムのことを好きだとハッキリ言ってしまったから、ではないかと思います。
あたるは底が知れない。その底の知れなさは、ラムのことをどう思っているのか、がわからないところに集約されると思います。そして、それがわかってしまったら、この作品は終わりのような気がします(最終回読んでない←)。
ラムがあたるを好きだと「ハッキリ」言う瞬間。それは最終回をおいて他にはありえないでしょう(多分)。それをこの作品はやってしまった。だから高橋留美子は否定したのだと思うのです。
また、男は一度モノにした女には興味を失う、ということも、高橋留美子は知っていたのかもしれません。
そういった点では、あたるはもう、ラムには興味がない。それなのに、この作品ではあたるはラムのことが好きだと言いました。あたるが自然そのものなら、一度落とした女には用はなく、子孫を残すために他の女を探すのは当然だと言えるでしょう。
高橋留美子にしてみれば、押井守のこの作品は「わかってねぇなあ」と一笑に伏すようなものでしかなかったのかもしれません。
じゃあ、「うる星」関係なくこの作品を作ればよかったかというと、それは全く不可能だと思います。
なぜならこの作品は、「うる星」を土台にしてしか成立しない作品だからです。
それぞれのキャラクターの関係性を前提として作っています。
逆に言うと、「うる星」を踏み台にすることによって、この作品は作られています。
だから、高橋留美子は怒ったのかもしれません。
