「鬼滅の刃」全巻感想、今回は第五巻!
五巻まで来るとそこそこ読んだ感が出てくる一方、「まだ五巻」という感じもあります。まぁ全部で23巻もありますからね。マラソン企画、やはりまだまだ序盤といったところでしょうか。
いや今回、更にいよいよ本域という感じになってきましたねぇ!
前回は奇数巻が今一つで偶数巻が面白い、みたいなことを言ったんですけど、奇数巻の今回、一番ゴツンと来たかもしれません。
ちなみに、鬼という言葉は元々「隠」だったそうで、意味合い的には、形のない恐怖や不安のようなもの、だったらしいです。
それが、鎌倉時代以降、形が描かれるようになり、現在の形に至ったらしいです。
更にちなみに、鬼門とは、北東の方角で、丑と寅の間であるようです。だから、鬼には牛の角が生えており、虎のパンツを履いているらしいです。
そういえば、「鬼滅の刃」の鬼は角も生えていなければ、虎のパンツも履いていませんね。
絵、上手くなった?!
先ず、五巻全体を通しての印象なんですけど、絵、上手くなりました?
それまでは、時折光るものはあるものの、絵下手だな、と思ったり、雑すぎじゃね?と思ったりしたことも多々ありました。
しかし今回、一巻通して、絵の粗さを感じることはありませんでした。
長期連載によって、いよいよ絵がこなれ、上手くなってきた感じがありますね。非常に読みやすかったです。
やはり漫画にとて、絵ってすごく重要なんだな、って思います(当り前ですが)。
ただまぁ、こうなってくると、一巻にあったようなガロっぽさが、早くも懐かしくもなってきたり(^^;; いやー、身勝手なもんですけど、読者ってのはそんなもん。
多分、これからもっともっと上手くなっていくんでしょうね。
その点も、楽しみです。
DVではなく、偽りの家族
四巻では、蜘蛛の鬼一家がやたら家族家族と言ってるんですね。家族に手を出すな、とか、家族というものはこうでないといけない、とか、そんな感じ。
で、その割には、えらいDVがあったり、家族相手にけなしてたり、この家族ちょっと様子がおかしいな、とは思ってたんです。
僕は四巻の段階では、鬼を使ってDV問題に切り込んでいくのか、と思ってたんですけど、そうじゃなかったです。完全に騙されましたね。
なんと家族ではなかったという。
それは鬼にされた孤独な子供が作ろうとしていた家族だったんですね。つまり疑似家族。作品中では「家族ごっこ」なんて揶揄されてました。
でも、その子供の家族像はすごくいびつで、年長者は年少者を命がけで守らなくては「いけない」という、非常に強制的な役割論を振りかざすものだったんです。
まさに炭治郎と禰豆子とは対照的な家族のあり方でした。作品中でもすごくわかりやすくそういう描写があります。
そういう絆みたいなものって、強制的にされるもんでは決してなく、かといって始めから自然に、厳然とそこにあるものでもない。
それは双方必死に歩み寄ってようやく築けるものですからね。
疑似家族でも家族の絆はできると思うんです。逆もまた真なり、なんですけど。でも、ここでの鬼には、群れていても絆を作ることはできなかった。
鬼は群れない、というのがこの作品での定義ですが、逆に言うと鬼は常に一人なんですね。今回のように力の上下関係による恐怖で縛ることでもしない限り(今回の鬼の能力の蜘蛛の糸は、まさに「縛る」ということの具現化なのかもしれません)、群れることが「できない」のでしょう。
そこに何か、鬼の秘密というか、業というか、運命めいたものがあるようで、ちょっと今後そこにも目が離せません。
それで、なんでこの子供の鬼が家族を作ることに固執していたかというと、まぁ、ざっくり言ってしまうと、過剰に親に依存し過ぎていたから、なのかもしれません。
ただ、そこにも理由があって、致し方ないところは、正直あると思います。そしてそこを鬼舞辻無惨につけ込まれた。ここでも鬼舞辻が暗躍していたわけなんですね。
どうも鬼舞辻は単に人を鬼にするだけでなく、何か、狙って人を鬼にしているような印象を受けます。誰でもいいわけじゃないというか。
それで、ここがこの話のやるせないところなんですが、親を殺した最後の最後に、この子は親の愛情に気付くんですね。でも、鬼舞辻によって、それを捻じ曲げられてしまった。
また、鬼になると人だった頃の記憶が消えるんです。これがまた辛すぎるところで。記憶がなくなると、もう、完全に関係性を絶たれてしまうというか。後悔という名の、ある意味絆すらもなくなってしまうんです。
だから、何で自分が家族を作ろうとしているのか、それすらもわからなかったんです。
でも、富岡義勇に斬られて、今度は命の尽きる最後の最後にわかるんです。それは炭治郎が鬼の体に手を触れることによって、思い出すんです。
謝りたかったんですね。ご両親に。
でもそれもできなくて、人を何人も殺したから、自分は地獄へ行くだろう、って悟るんです。
そしたら、これまた最後の最後に、ご両親が出てきて、一緒に地獄に行く、って言うんです。
これは、鬼が思った独りよがりな幻影かもしれません。でも、そう思えたんですね。
最後の最後、自分を殺そうとした親が、実は鬼と言う畜生道に堕ちた自分を救ってくれようとしていたことがわかって、そしてどこまでも寄り添ってくれる、そう思えたのは、せめてもの、救いとは言いませんが、まぁ、慰めみたいなものにはなったのかもわかりません。
是枝裕和の映画のキャッチコピーにもあったのですが、人生はいつもちょっとだけ間に合わないんです。
炭治郎、初めて鬼を語る
そんな感じで、子供の蜘蛛鬼の過去を、炭治郎は具体的にはわからないながらも、彼特有の鋭い嗅覚でそれとなく察します。だからこそ、鬼の遺体に手を差し伸べるのですが、こともあろうに、富岡義勇はその鬼の服を踏みつけます。
これに炭治郎は怒るんですね。
この時の富岡義勇は負ける寸前だった炭治郎を助けてくれた、謂わば命の恩人なのですが、それでも言わずにはいられなかったのでしょう。
そしてこの時、初めて炭治郎は鬼について言葉で語るのです。
曰く、鬼とは悲しく、虚しい存在、醜い化け物などではない。
そして、鬼は自分と同じ人間だった、と言うのです。自分と同じ。
何と言うか、ここからがいよいよ物語、というか、この作品のテーマの、本当始まりという感じがします。
ただ、このことは、鬼殺隊試験の時、初めて鬼を討ち取った時に、もっと描写して欲しかった気もします。
初めて鬼を倒した時、即ちそれは、鬼がどういう存在なのか初めてわかった時。既にそれは初めての時にあったはずです。
多分、それまでは炭治郎にとって鬼とは、家族を殺した憎むべき存在に過ぎなかったのだと思います。しかし、鬼を倒して、鬼の人生の臭いを嗅いだ時、鬼とはどういう存在か、初めて知ったと思うのです。
その時、炭治郎はどう感じたか。
ひたすら仇の存在から、悲しく虚しく、元は自分と同じ人間で、醜い化け物ではない。
それは、真逆とまではいかないまでも、相当な認識の変換だったはずです。
その時の炭治郎の心情を、もっと描いて欲しかった。
吾峠呼世晴はテクノファンか?!
それで、驚いたのが、手描きのあとがきにあった、読者からプレゼントされた平沢進のBOXへの感謝の言葉。
吾峠呼世晴って、多分、P-MODELのファンだったんですねー!
まさかのテクノファン!
これには驚きました。
ひょっとしたら、長州力のテーマソング「パワーフォール」も聴いてるかもしれません。いや、間違いなく聴いてるでしょう。
まさか「鬼滅の刃」と革命戦士が繋がるとは思いませんでした。
それにしてもP-MODEL…。いやあ、意外すぎました。