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僕が買ったもの、観に行った映画・ライヴなど、要は金を払ったものに対して言いたい放題感想を言わせてもらおうというブログです。オチとかはないです。※ネタバレありまくりなので、注意!

「ロスト・ワールド/ジュラシック・パーク2」(下)ネタバレ有り読書感想。マルカム先生、恐竜絶滅の真相を解き明かす!?


えー、すっかり寒くなってしまいました。10月です。下旬です。寒いです。

そもそも、夏のクソ暑い時季に同じ季節を舞台にしたクソ暑い小説を読んだら臨場感マシマシだろう、ということで読んだこの「ロスト・ワールドージュラシック・パーク2」!

そう、読んだのは夏なんですよね。しかし、更新をサボりまくってもう冬将軍の雄叫びが聞こえてきそうなサムサムな季節となってしまいました。

というわけで、今回は下巻の感想をば、書きたいと思います。

ちなみにこの本を読んだ夏って、去年のことですよ。

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マルカム、大いに語る

いや、マルカム先生、下巻も舌好調!

この作品の肝でもあるマルカム先生の大講演。これですよ、これこれぇ。

科学の客観性

客観性というものは存在しない、という観点が面白かったですねぇ。

マルカム先生曰く、科学と、文学や宗教の間には大きな壁があるそうなんです。

その壁とは客観性なんですね。

文学などには、観察者の視点というものが重要です。確かにそうですよね。その作者が何を考えているのか、何を訴えたいのか、そこが大事じゃないですか。

視点なくてしては文学はありえない。

一方、科学は客観性を重視したんですね。そこには逆に観察者の主観なんてありえない。

物事のありのままの姿、理をつまびらかにする。

それが科学でした。

ところが、この客観性は幻想だって言うんです、マルカム先生。

物事を観察すれば、その対象物に影響を与えずにはいられないんですね。

こことは今や自明の理だと。まぁ、「今」っつっても、90年代なんですけど。

まー、確かにそうかもしれませんねー。不確定性原理なんか、モロにそうですもんね。

恐竜絶滅の原因

先ず始めに言っときますけど、2021年の今では恐竜は絶滅していないことになっています。なぜなら鳥が恐竜だからです。

という説もある、という方が正確でしょうか。いずれにせよ、恐竜が完全に絶滅した、という説は現在では割と危うくなっている、とは言えるかもしれません。

この本が書かれた時は、まだ鳥が恐竜だとはわかっていないんですね(多分)。だから、一応ここでは「恐竜は絶滅した」という時代の話として聞いてください。

で、恐竜の絶滅なんですけど、恐竜が絶滅したのは行動の変化によるものではないか、とマルカム先生は仰います。

生物の行動の変化というものは、進化による変化よりも大きいのだそうです。そしてそれ故、適応力に欠けるかもしれない、とも言います。

変化が大きいと、それだけ、いざ変わった時に修正するのが難しいんでしょうね。

複雑な生物は、「進化」、つまり体の変化による環境への適合を必要としないそうなんです。頭良いですからね。こういう時はこうしたらいい、って考えて、やり方、つまり行動ですね、それを変えられる、ということだと思います。

たとえば、道具の使用、学習、協力などなど、それらで適応していくことができる。なるほど、そうだと思います。

シャチなどのクジラ類なんかは狩りの仕方を子供に受け継いでいきますもんね。

最近ではシャチがホオジロザメの狩り方を「発明」したらしいですね。

何年か前、はらわただけ食いちぎられたサメが打ち上げられることが多くなったことがあって、人間の仕業だろうと当初は思われていたらしいんです。密漁的なものだろうと。

でも調べたら、犯人(というのも変な言い方ですが)はシャチだったらしいんです。シャチはえらいグルメらしくて、美味しくて栄養もあるサメのはらわただけを食うらしいんです。

で、サメの狩の仕方なんですけど、サメって軟骨魚だから内臓を守る肋骨がないんですね。それで、シャチがサメの横っ腹を体当たりして内臓を破裂させるそうです。

なんせシャチは哺乳類の中で一番速く泳げますし、あの巨体ですからねー。タックルされたらひとたまりもありません。

それで仕留めたサメをゆっくりと食事するという。怖いですねー。

これも、言ってみれば「行動の変化」ですよね。体を変化させることなく、行動を変化させることによって対応する。

教育のために社会はある

でも、そうすることによって、自らの身体を進化させるということができなくなるらしいんです。そうする必要がなくなる、というべきか。

複雑な動物にとって、適応とは行動の変化であって、それは社会的に決定されることだそうです。

社会が決めるんですね。その種の個としては社会に適応しなくてはならない。環境の変化の適応は、個の社会への適応、という側面も多分に含まれているのかもしれません。

だから、社会が決める、つまり後天的に獲得しなくてはならないわけですから、教育がなければ、その種としての正しい行動が取れない、というわけです。

往々にして動物園の動物が子育てできないのは、そのような教育をされていないから、他の個体の子育てを見たことがないから、ということに由来するらしいです。

つまりは、あるべき社会の姿、即ち種としての自分の似姿を見ることができない、というわけですね。

だから、この話でのラプトルは秩序だった行動が取れません。頭が良い、という触れ込みなのにおかしいな、とは思っていたんです。そしたら、そういうことを描いていたんですね。なるほど納得でした。

この「頭の良いはずのラプトルがなかなかにして野蛮な頭の悪い行動をする」というのは第一作からあることなので、多分作者は続編も念頭に置いていたのではないでしょうか。

以上のことが理由で、この本の舞台となっている島のラプトルは、最も下劣な個体の方が生き残りやすいという…。

なんだか…、人間の社会と似てるな、と思ってしまいましたw

それでですねー、この教育ということに関して、下巻の冒頭の、大体100ページくらいまでですかね、そこにですね、人間が社会を作るようになったのは教育のためだ、ということが書いてあって、非常に感銘を受けたんですけども。

ここ読むだけでも、非常に価値があると思いますんで、是非、冒頭の100ページだけでも読んでみてください。お勧めです!

インターネットは人類の終わり

かなり大胆なことが書いてありましたねー。しかも90年代に。

サイバースペース、つまり今で言うインターネットですね。これは、人類の終焉を意味する、とも言うんですねー、マルカム先生。

進化が起こりやすいのは少数の集団である、と言います。なるほど。小回り利きますからね。

大きくなればなるほど、何も為すことはできなくなる、と言います。確かに大企業なんかはそういうこと、よく言われがちですw まぁ、実際はどうだかわかんないですけど。

で、マスメディアがやっているのはそれであり、全世界を均一化させている、と言うんですねー。なんせ「マス(大きな塊)」のメディアですからね。そりゃ大きいです。

ここでマルカムに憂慮されているのは知的多様性の喪失ですね。

多様性がない、つまり可能性、選択肢がなくなるということです。

そういうものが失われると、ヒトという種が停滞する。なんせ可能性がない、選択肢がなくなるわけですから、そりゃ停滞もします。

そしてマルカムは、精神の大量絶滅、と言います。

昨今の状況を見れば、それは当たっているように思えてしまいますねー。まぁ、こうやってワタクシもネットを利用してしまっているわけですが…。

90年代中盤にこういうことを予測しているのだから、マイクル・クライトンさすがだなー、とも思うが、その頃からそのような兆候は既にあったのかもしれないですね。

現代に甦った恐竜を描く

そして今回、やはり恐竜の観察の描写が多く、その点では前作よりも現代に恐竜が甦った、という醍醐味がありました。

しかも、その甦った恐竜が、本当はこうだったんじゃないか、という感じでかなり説得力ある感じで描かれており、それを観察しているわけだから、読んでて非常に楽しい!

一作目の単行本の帯文に藤子F不二雄が、恐竜を見るという夢が半分叶った、と書いてあったと記憶していますが、それはこちらのロストワールドの方がよりふさわしいかもしれません。

前作は確かに恐竜を蘇らせはしましたが、描かれ方として、人を襲うモンスターという側面が非常に強かった印象を受けます。

今回はどちらかというと、草食恐竜をのんびり観察するとか、自然としての恐竜、そこには食物連鎖があり、攻撃と防御があり、子育てがあったり、そういう「生活」があることが、丹念に描かれています。

実はこれこそ読みたかった、現代の恐竜小説だったかもしれません。

子供嫌い

あと、やはりマイクル・クライトンは子供が大嫌いだったのではないかと思いますw

キングという、謂わば敵役の一人がラプトルに襲われるのですが、それを観察小屋から子供たちが目撃するシーンがあるんですね。

大人たちは、見るな!と制するんですけども。そりゃそうですよね。でも、その制止を振り切るんですね、子供たちは。

そうまでして、子供たちは残虐な殺人シーンを見たがる。

これはハッキリと子供の残酷性を表したシーンだと思います。

よく考えたら、一種、異様なシーンでもある。

子供って、知識はないのはもちろんのこと、感覚もまだ完成されてないですからね。だから、大人よりも、そういうスプラッターな、残酷なものに対しても、変に耐性があるように思います。

そういう、子供の持っている怖さ、残虐性というものを、マイクル・クライトンは察知していたのかもしれません。

物語的にはイマイチ

そうは言っても、やはり恐竜の強さというか、怖さというか、そういうものは健在です。ティラノサウルスに延々と襲われたりとかね。

あと印象的だったのが、保護色を使って狩りをする恐竜。これはなかなか面白かったですね。カルノタウルスという恐竜なんですけど、もちろん実際には保護色を使ったかどうかはわかりませんが、物語的にはそういう設定を加えられていました。

この「見えない敵」というのがスリリングでしたね。しかも、設定的には現生の動物では考えられないくらいの保護色。

もう、ほぼ完全に後ろの景色と同化してしまうんですよ。もう、ほとんど光学迷彩ですね! 攻殻機動隊じゃないんだからw

そいういう動物がいるとすればイカとかですかね。透明になっちゃうってのは。あと、サフィリナという甲殻類がいるんですけど(攻殻?!)、それはもうかなり透明になっちゃうらしくて、最初その動画見た時はびっくりしましたけどね。

まぁ、そんな感じで「透明になる恐竜」ってのも危険度MAXでスリリングですね。ちなみに体長は7メートルくらいです。デカッ! そんなデカブツが透明になるなんて…、怖っ!

しかも、そういう恐竜に襲われるシーンの描写がすごいんですよね。手に汗は握る感じで。次から次へと襲いくる展開はスピーディだし、目が離せません。

でも…、ですね。割と退屈かなw 延々と続きますからねw その間、物語的には何も展開しないですから。ちょっと、そういうシーンが長すぎだったかな、というきらいはありました。

しかも、いかんせん魅力的なキャラがいないし、逆にスゲエムカつくキャラがのうのうとしているので、なんだか読んでて正直どっちでもよくなっちゃった感じですねー。

あと、善人であるエディがラプトルにやられた、てのもデカかったですね。その時点で、この一行がどうなろうと、もう興味はなくなっちゃった。

しかもエディのやられ方が、あっさりしてたんですよ。劇的な感じならまだグッと来るものがあったのかもしれないけど…。こういう展開は非常につまらないですね。

やはり読者に感情移入させる魅力的なキャラがいないと、せっかくハラハラする展開でも他人事になってしまいます。だから、そういうシーン読んでても、ただひたすら冗長なだけでしかなくなってしまいます。

ムカつくキャラと言えば、実は生きていたドジスンが、主役側の一人、サラに殺されてしまうんですね。サラは自分が生き延びるためにドジスンをティラノサウルスの生贄にしたんですけど、この展開は微妙でしたねー。

確かにドジスンはこの作品一番の悪役なんですけど、一市民がほぼ殺人行為をするってのは、僕の感覚からするとちょっと納得するのは難しい。

それでは、結局サラはドジスンと同じ穴の狢になってしまいますし、事実、そうなってしまった印象は拭えません。やはり、キャラ作りという面では、この作品は今ひとつ…、って感じでしたねぇ。

今回は、加害者が特に酷い目に遭うこともなくのうのうと生き延び、被害者が酷い目に遭う、という、まぁ登場人物的には読んでいてつまらない感じでしたね。

それにラストのシーンも、なんだか随分あっさり島を脱出しちゃった感じだし。その後あの島はどうなったかの言及もなし。

前作のようなカタストロフィ的なものはなく、後日譚もなし。正直拍子抜けした感じでしたねー。

そんな感じで、登場人物の感情移入とか、ストーリー展開という点では、今回は今一つ、という印象でした。

マイクル・クライトンの分身二人

でも、恐竜の描写とか、マルカムの台詞を使ってのマイクル・クライトンの主張とかは、実に読み応えがありました。

最後のマルカムとソーンの対になるセリフも面白かったですねー。

マルカムは、過去5回地球では大量絶滅があったが、次回それを引き起こすのは人間ではないか、と言います。

人間はひどく破壊的で、しかも効率良く破壊する。人間は地球にとって掃除屋の役割を担っているのではないか、と言うんです。

地球は何億年かに一回、舞台を掃除して、生物を次の段階に進化させているのかもしれない、と。

なるほど。なかなかにしてペシミスティックですけど、昨今の状況を考えると、この作品が書かれた当時以上にマルカムの台詞が刺さります。

この先見性というか、予言性というか、怖いくらいですね。

それに対してソーンは、それは所詮仮説であり、理論だ、と反対するんです。

仮説や理論は空想でしかない。後の世の人からは笑われる可能性も高い。それよりも、手で触れられるリアルなものの方がずっと大事だ、と言います。

順序立てて考えていけば、おそらくマルカムの方が正しいんです。でも、それもまた全部ひっくるめて、「お前が予想しただけでしょ」とソーンは言い放ってるわけなんですね。まだ現実に起こっていないし、これから起こるかどうかは未知数。

そんな先の予想よりも、今目の前で起こっていることに目を向けよう、という。最後に悲観的な予測を提出しながら、それを笑い飛ばすかのように希望を与えてくれる。なんだかソーンという人物そのもののような台詞です。

この人物は、この物語唯一の、そして本当に魅力的な登場人物だったと思います。

とまあ、最後に述べられた二人の論は両極端な話ですがが、二つともマイクル・クライトンの考えのように思います。

前者は警鐘、後者は科学や机上の空論に対する批判。

やはりこの話の本当の主役はマルカムとソーンなのかもしれません。

ただ、ソーンはそれなりに活躍したけど、マルカムは何も活躍できなかった…。まぁ、マルカムに語らせるにはモルヒネを打たないといけないらしいので、仕方のない展開だったのかもしれませんが。

 

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「ロスト・ワールド/ジュラシック・パーク2」(上)ネタバレ有り読書感想。映画は酷評されたけど、小説は面白い!!


やはり夏のクソ暑い時期には、クソ暑い設定の小説の読むのが臨場感も増し増しで良かろう、ということで読んだのがこの「ロスト・ワールドージュラシック・パーク2」!

マイクル・クライトンの名作「ジュラシック・パーク」の続編であります。

ジュラシック・パーク」は映画も公開されてバンバン大入り超満員。今日まで語り継がれる名作となったわけですが、原作小説の方も傑作でありました。まぁ、原作が良いから映画になったんだけど。

そんなわけでヒットが出れば当然の如く続編が作られるのがハリウッドの自然の摂理。御多分に漏れず、この「ジュラシック・パーク」も続編が作られ、それがこの「ロスト・ワールド」なわけです。

しかしこの続編、映画と小説、両方共観たり読んだりしたことのある人ならわかると思うのですが、「映画原作」と謳ってはいるものの、この小説、映画とは結構違ってます。

それもそのはず、この続編、映画は映画、小説は小説で、同時進行で各々別個に作っていったらしいのです。

随分変わった企画の通し方ですが、残念ながら映画の評価は散々(俺は好きだけど)。でも、こちらの小説の方は個人的にはなかなか面白いと思っています。

またこの小説中の登場人物・レヴィンが、白亜紀の生物が生き残っていてもおかしくない、と言うくだりがあるのですが、この小説の更に後の現代の視点から見ると、実は鳥は恐竜であることを知ってるので、なんというか、感慨深い。

時の流れを感じますねー。

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登場人物

今回も前回の「ジュラシック・パーク」同様、非魅力的なキャラが大挙して出てきますw

このシリーズは本当に非魅力的なキャラばっかり出てきますね。

今作品のガキどもも、前作のレックスに比べればはるかにマシだけど、やはりクソガキであることには変わりないです。

やっぱティムはよくできた子だったんだなぁ、ということが逆に浮き彫りになる感じですかね。

レヴィン

というわけで、先ずはレヴィンですかね。古生物学者の新キャラで、一応主人公格なんですけど、まー魅力ないw

本当にマジクソ野郎で、読んでて呆れるほど。トラブルメーカーのくせに(トラブルメーカーだから?w)心配してくれた仲間(と言ってよいかはわからないが)が助けに来ても「なんで来たの?」と感謝するどころか、むしろ馬鹿呼ばわりするくらいの勢い。

まぁ、レヴィンにはレヴィンなりの言い分があるんだろうけど、お前が連絡もなしに突然消えるからだろう!ということをわかっていない。やはり親しき仲にも報連相有りという感じですかね。そこらへんの人間関係のイロハのイが理解できない、そんな人。

相当優秀な人らしいんですが、異常に優秀な人って、えてして何かが欠けている場合が多いけど、その典型かもしれませんね。

また、描写として、レヴィンの病的なまでの綺麗好きが明るみに出たりもして、さもありなん、といった感じ。

やっぱりどこか異常な感じがする、という、こういう性格づけ的な生活レベルでの細かな描写はさすがですね。

ケリーとアービー

で、次は子供たちかな。今回登場する子供は秀才少女のケリーと天才少年のアービー。出だしは、前回と違って二人ともなかなか可愛らしいのかなー、と思ったんですけど、やっぱりそんなことはなかったですねw

二人とも少なからず問題がある子で、アービーは天才故か世間とのズレがある感じです。また、計画が狂うと思考停止になってしまいます。この性格付けも然もありなん、といった感じで妙にリアルなところが上手い人物造形ですね。

優れすぎてる人は何かが足りない、というのはレヴィンと共通しているところかもしれません。

もう一人の子供であるケリーも、勤勉な、なかなか頭の良い子ですが、いかんせん自己中心的で、自分が絶対的に正しいと思い込んでるやっかいなガキです。

アービーはまだ可愛げがありますが、ケリーの方は物語が進むにつれ、徐々に読んでてウザくなってきますw ああ、やはりティムはよく出来た子だった。

ドジスン

そして極め付けの非魅力的登場人物はドジスンですかね。まぁこの物語の悪役なので当り前なのですが。もう、殺人未遂とかしちゃったりしますからね。もう悪い悪い。

実は前作でも、悪事の手を裏で引いていたのはこの男で、事の発端を起こしたハモンドよりも、より直接的な悪であったように思います。

ドジスンの手引きがなければパークもあそこまでひどいことにはならなかったかもしれません。それだけに、物語にとっては重要人物ということになるんですけど。

でも、本来、それ故に物語的には粛清されなくてはいけない人物だったですが、のうのうと生き延びたんですよね、「ジュラシック・パーク」では。

ひょっとしたら、続編を書くのは既定路線で、その時にドジスンを粛清しよう、と構想していたのではないか、と邪推してしまいます。それくらいの悪党ですね。

ドック・ソーン

ひょっとしたらこのシリーズ初の魅力的なキャラかもしれません。それがドック・ソーンです。

まぁ、マルカムも相当魅力的だと思いますけど、ちょっと態度が尊大すぎるきらいがあり、残念ながら人好きのする感じではないですかねー(そこがカッコよくもあるのですが)。

しかし、このドック・ソーンという工学博士は、荒々しくもさっぱりとした、このシリーズにはいなかった魅力的な好漢です。

彼曰く、歴史も心理学も知らなければ、人のためになる設計はできない、いくら理論が完璧でも人が絡むとめちゃくちゃになる。

机上の空論ではなく、実践の重要性、総合的な、全人的な教育を重視している姿勢がよくわかります。

また、今回の子供達やレヴィンの弱点をも登場早々に看破している点もカッコいいですねぇ。彼もまた、マルカム同様、マイクル・クライトンの分身的キャラなのかもしれません。

で、今回もまたイアン・マルカムが登場するのですが、前回も出てきたし、割愛させていただきます。

描写

とにかく細部の描写が細かく、具体的!

そこは流してもいいんじゃない?と思うところも、これでもか、とばかりに描写してきます。そこがリアリティというか、実存感が表れているところかもしれません。

やはり恐竜を甦らせるという突拍子もないフィクションなのだから、小説世界の作りは細かくなくてはいけないのでしょう。

この細かい描写、設定が「恐竜が現代に甦る」ことに説得力が出るのですね。

そういうところは前回の「ジュラシック・パーク」を引き継いでいる点だと思うのですが、一転前回とは異なるところがあって、それは最初の恐竜出現シーンのところです。

あんまりもったいぶった感じはないんですね。しかも、グラント博士やティム君のような恐竜マニアはいないので、それほどの感動もありません。

今回は2回目だからなのでしょうかね。前回はもっと、こう、「練りに練った」感がありました。

なんせ、いるはずのない恐竜が出現するわけですから、謂わばこの小説の最も大切なシーンです。でも、割とあっさり。

2回目である今回の「ロスト・ワールド」は、「恐竜ありき」だからでしょうか。もう一回もったいぶっても意味はないのかもしれませんね。

ただ、島の全景を見る場面は、サバンナを見渡すような美しさと壮大さを感じさせます。今回は恐竜を、太古の、ある意味ロマンティックな存在というよりは、「動物」として描こうとしているのかもしれません。

そんなこともあってか、今回は恐竜を観察するシーンが面白い。

「こうだったんじゃないかな」を非常に理詰でリアルにシミュレートしています。それも実際のサバンナの動物の行動を参考にしてるっぽいので、説得力もある。

また、化石から推測することは連続写真を見てるようなものなのに、いつしかそれが現実のものと錯覚してしまう、という記述があるのですが、古生物研究が陥りそうなことかもな、と思いました。と言って、他にじゃあどうすればいいんじゃ、という感じですが…。

あとはですねー、今回は「ちょっとだけ近未来」の技術を投入した、秘密兵器的なマシンが登場。ちょっとだけだけど、来たるべき近未来SF、といった感じもあるところが、前回とはまたちょっと違うエッセンスですね。

マルカム先生、今回も大活躍

やはり、今回もまたマルカムのセリフが面白い!

しかも今回はいきなり始まるんですよねぇ。恐竜の絶滅は行動の変化が原因ではないか、とブチかまします。

曰く、カオスの縁より遠いとシステムは硬直化し、画一化する。近ければ、縁から落ちてしまう。

カオスの縁とは、適度に革新性を持ちつつ、適度に安定性を持っている状態らしいです。

いやあ、なんだかよくわかんないけど、なんとなく納得します。このマルカム先生の不思議な説得力。なんとなく分かった気になって、なんとなく頭が良くなった気分に浸れるので、気分いいですw

また、マルカムは絶滅のメカニズムについて、外的な要因よりも生物の行動の変化が絶滅に関与するのではないか、と言います。

マルカムは化石からは想像もできない「事実」を目の当たりにして(フィクションだけど)、恐竜はあれだけ複雑な行動をするのだから、やはりその考えは正しいのではないか、との結論に至ります。

例えば、氷河期の渦中にあっては絶滅は少ないんだそうです。でも、氷河期が終わりに入り、氷が溶ける時、つまり「二度目の変化」が起こる時、絶滅が起きるというんです。

二度の変化は相当な負担になる、ということですね。なるほど(←多分、よくわかってない)。今回も面白い論がいっぱいです。

マルカムの元カノ、恥をかく

それとは別に、ちょっと苦笑してしまう思想もありまして。

今回、サラ・ハーディングという、マルカムの元カノが出てくるんですけど、まぁなかなか、マルカムと違ってワイルドで肉体派な面もある、知的で、まぁなかなか魅力的な女性なのですが、ちょっと鼻持ちならない思想傾向があるのも事実。

どういうことかというと、この人、ハイエナを主に研究してるらしいんですけど、その研究対象の好きさ余って、あまりにもハイエナ上げにするためにライオン下げにするんですね。これが苦笑もので(笑)。

俺やっぱり、単純にハイエナは汚い下劣な肉食動物、っていうことでいいと思うんです。それが正当な評価だと思います。

ライオンがハイエナの仕留めた獲物を横取りすることを称して「下劣」と毒づく場面があるんですけど、それを言うなら、ハイエナなんかはチーターその他の肉食動物から獲物を横取りします。

更に言うなら、「下劣な」ライオンからも横取りしようとさえします。その事実をわかっていない(テレビで見たことがあります)。

思うに「人気者のライオンよりも、嫌われ者のハイエナの魅力がわかっちゃう自分スゲー」アピールをしたかったのでしょう。

しかし、狙い過ぎが見え見えで、失笑ものなんですね(笑) むしろ哀れというか…。

ストーリー

前回は「ジュラシック・パーク」という謎のテーマパークは何か、というのが物語前半の肝だったのですが、今回は「サイトB」がそれに当たります。

「サイトB」という施設が何なのか、それを中心にこの上巻は物語が進んでいきます。

そしてそのサイトBは、かなり闇の深い施設らしく、実はジュラシック・パークはその上澄みでしかなく、その暗部が今回の話っぽく進んでいきます。

そして今作では子供が活躍する場面が多いですね。

子供が大人に黙ってついて来てしまうというジュブナイルの王道的展開でもあるし、加えて上巻はあまりグロ描写が多くありません。

それを考えると、映画の成功もあってか、今回は多分に子供が読むことを想定して書かれているような気もします。

アービーなど、大人の能力を凌駕する子供の存在も、いかにも子供が好きそうな要素です。

だから、ある意味今回は「子供向け」と言って言えなくもないと思います。とはいえ、子供向けと言うには難しい話がいっぱい出てきますが(^^;;

また、マルカムが、前回あれほどまでにパークの建設に反対していたのに、なぜ今作でまた恐竜の島に来たのか、初めは理解に苦しみました。

しかしそれは、「絶滅」の謎を解くためだったのです。絶滅はなぜ起こるのか。

よく考えれば、そのメカニズムについては議論が喧しいですし、恐竜の絶滅ともなれば、更に議論は激化します。

よく言われる隕石(小惑星という説もある)衝突説も、有力ではあるらしいですが、決定的かというと、そうとも言い切れないものであるらしいです。

現代に蘇った恐竜を見れば、その謎が解けるかもしれない。マルカムはその一念で恐怖に打ち勝って「しまった」のです。

純粋な科学的興味は時に危険を顧みることができなくなるんですね。誰かが言ってたけど、勇気とは過大評価された価値観念、ということを思い出してしまいます。

そして、サイトBの恐竜は成体がいない、と妙なことに気付きます。

さあこれからどうなるか?! 次回下巻、乞うご期待!


 

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「鬼滅の刃」第十七巻ネタバレ有り感想。今回は色々と考えさせられる巻!!


鬼滅の刃」全巻感想というこのマラソン企画。今回は第17巻です。

今回遂に、第150話に到達! これもね、第100話に次ぐマイルストーンではないでしょうか。

そしていよいよ物語も更に佳境に入っていく感があります。

鬼殺隊と鬼との戦いが同時多発で展開され、それが鬼舞辻との戦いへと集約されていくようであります。

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やっぱりしのぶさんは…

前巻の感想で予想した通り、胡蝶しのぶは上弦の鬼の第2位の奴にやられてしまいます。

フラグが立ちまくっていたとはいえ、あのいけすかないイケメン鬼、しかも姉の仇である鬼に、まるで歯が立たず、あまつさえ、最後は鬼の中に取り込まれてしまう、という屈辱以外の何ものでもない結末を迎えてしまいます。

ある意味、朝日が昇ったので食われることは免れたお姉さん以上に無残にやられてしまったと言っても過言ではありません。

仇を討つどころか、返り討ち以上の仕打ちを受けてしまったのです。

いやー、なんというか、性格悪いなぁ、吾峠呼世晴(苦笑)

ただ、ですね。多分、いやほぼ大方、いや十中八九、いや確実に、絶対、この上弦の第2位はカナヲにやられると思います。

どういう風に倒すのか。それは勝つのか、相打ちなのか、わかりません。

しかし、間違いなくカナヲはこのいけすかないイケメン鬼をやっつけます。

なぜなら、フラグは立っているからです。

先ず、カナヲはしのぶさんの継子である。柱が勝つのであれば、継子の存在は必要ありません。

そして、しのぶさんはカナヲにあの鬼の倒し方を伝授しています。

そして何より、しのぶさんはカナヲさんに何やら手でサインを送りました。多分、鬼を倒すための重大なヒントでしょう。

更に言ってしまえば、カナヲ以外に胡蝶姉妹の仇を討つべき人はいません。

これはもう、絶対に、絶対に、カナヲが勝ち名乗りを上げます! つーか、上げてくれ。

善逸の話

前巻で何やら秘めたる動きのあった善逸ですが、その秘密が明らかになります。

善逸の育手の一番弟子、善逸の兄弟子でもある獪岳という鬼殺隊員が、こともあろうに鬼になってしまったんですね。しかも、自ら望んで。鬼に土下座までして。

まぁ、この獪岳の話をすると、結局自己顕示欲の塊みたいな子だったようです。そして、元々の属性としても悪というか。

というのも、悲鳴嶼さんが鬼殺隊に入ったきっかけとなった事件の張本人、つまり、悲鳴嶼さんの寺に鬼を招き入れた子供がこの獪岳だったのです。

しかも、悲鳴嶼さんの禁を破り夜外に出歩いたのは、他の子供達に追い出されたからです(悲鳴嶼さんはそのことを知りません)。何でかって言うと、お金を盗んだから。……。

ね?悪でしょ?

鬼と共闘して悲鳴嶼さんや子供たちを殺そうとし、挙句強さを手に入れるため自ら進んで鬼になる。そして泥棒である。もう最悪ですね。

そんな、鬼と因縁というか繋がりのある獪岳がなぜ鬼殺隊に入ったのか、ちょっとわからないのですが、多分、彼の自己顕示欲の強さ故だと思います。

強くなってみんなに認めてもらいたい。その一心で、強さを求めて、強くなるべく鬼殺隊に入った。そう考えると納得できます。

事実、鬼になって善悪の判断もつかなくなったか?と善逸に問われた時、「自分を認める者が善、認めない者が悪」と即答していました。まさに自己顕示欲の塊。彼の所業からすると、それは鬼になる前からそうだったと考えるのが自然です。

マジでクズです。この獪岳自身に関しては特にドラマもありません。この漫画って、なんか鬼によってその扱い方が全然違いますよね。

心ならずも鬼になってしまった、違う人生を歩んでいれば鬼にならずに済んだ、そんな同情の余地のある鬼、「人としての」鬼も数多くいました。

一方で、同情の余地を一切拒むかのような、生まれながらにしての「鬼としての」人、なるべくして鬼になった、という鬼もいます。

なんか、この違いの容赦のなさは、まぁやっぱり女性作家ならではの感じがします。

女性って、もう受け付けない時は全く受け付けないじゃないですか。「私、あの人ダメなの」とか言って。理由を問うても、これといった明確な理由はない場合もあります。

受け付けないものは受け付けない。ダメなものは一切ダメ。そういった女性の残酷性っていうんですかね、そういうのが如実に表れている感じがします。

そして、その獪岳のせいで、鬼を倒さなければならない鬼殺隊から、よりにもよって鬼を出してしまったことにより、師匠である育手の爺ちゃんは責任を取るため、介錯もつけずに腹を切って自害してしまいます。

そしてその爺ちゃんは善逸の師匠でもあるわけです。

善逸が怒ったのは自分のためじゃない。人のためだったんですね。

なにかこの善逸という人も不思議な人で、普段は割とエゴ丸出しの、自分が可愛くて仕方がない感じの人なんだけど(この人の場合は、むしろその感じが面白いし、愛らしい)、そのくせどこか自分が希薄な印象があります。

本気で怒る時は人のためだし、鬼殺隊で頑張っているのも、どうも育手の爺ちゃんのためのような気がします。

鬼殺隊なんて、命がいくつあっても足りないようなところですからね。それなのに、爺ちゃんのために頑張ってるように見える。

そんな善逸なんですけど、めちゃ強いです。

急遽の穴埋めのためとはいえ、上弦になった獪岳相手に、苦戦する場面もあるものの、実力的には圧倒している感がありました。

速さに関しては上弦が全くついてこれないくらいの速さです。

最後は自分で開発した七番目の型で一刀のもと鬼の首を斬ります。

そう、壱ノ型しか使えなかった善逸は密かに開発していたんですね。

それも獪岳と肩並べて戦うためです。善逸は一番弟子の獪岳に並べるように、技を開発していたんですね。実はめちゃ努力家なのです。

この「肩を並べる」というのがポイントで。「追い抜く」ではないんです。「並べる」んです。

実は善逸は、こんなクズな獪岳ではありますが、心から尊敬していたんですね。努力もしてるし、ひたむきでもある。

ところが、その獪岳は師匠の仇になってしまったわけです。師匠の仇を討つために尊敬していた兄弟子を倒す。

善逸の心根はいかばかりだったでしょうか。

善逸は強いです。確かに強くなりました。でも、ひょっとしたら人間、自分の強さに気付かない方が幸せな人生なのかもしれません。

産屋敷のお館様も言ってましたが、鬼がいたから強くならざるを得なかった。強くなるためには悲しい理由があります。悲鳴嶼さんなんかはその典型だし、そもそも炭治郎がそうです。

だとしたら、自分の強さに気づくことなく過ごせる方が幸せな人生であると言えるような気がします。

あとですねー、さんざん獪岳のことをこき下ろしましたが、この人、誰に似てるかと言ったら俺なんですね。

他人に認めてもらいたくてしょうがない、ってのは、割と誰しもあるんじゃないでしょうか。御多分に洩れず、僕もそういう傾向は、まぁ割と強めだと思います。

なんで獪岳見てイライラするのかっていうと、自分に似ているからかもしれません。

自分の、ダメで醜いところを見せつけられているよう、というか。

ただ、認めてもらうために鬼相手に土下座までする気概があるだけ、獪岳の方がマシかもしれません。

まぁ、そんなこともあって愈史郎の、欲しがってばかりいる奴は自分では何も生み出せないから何も持っていないのと同じ、という言葉は割とキツいですね。

時折、「鬼滅の刃」って、こういう教訓めいた名ゼリフが牽制球のように来ますよね。

義勇さん急激成長はスポーツのよう

また、この巻では義勇さんの戦いもあるのですが、超強敵である上弦の第3位を前にして急激に成長するんですね。そのことを本人も自覚して。

これ、なんかに似てるなー、って思ったら、スポーツ選手のインタビューとかドキュメンタリーとか見ていて、たまに出てくることなんです。

例えば、日本シリーズなんかそうみたいですね。

ああいう、その年の優勝を決める大一番ってのは、各リーグのチャンピオン同士のぶつかり合いじゃないですか。当然相手も強い。

そういう短期決戦の強敵を相手にすると、選手がその試合中に急成長することはよくあることらしいです。

だから、戦いの中で成長していく描写は、なるほどなぁ、って思いながら読んでいました。

弱者は悪、という思想は相変わらず

でも、この義勇さん。弱者は悪である、という思想は相変わらずです。

強くなった炭治郎を見て、出会った頃を思い出すんですね。あの時はただ俺に土下座するしかなかったお前がよくぞこここまで云々、って感じで。

やはり弱いということは悪である、という思想が垣間見れます。

そして、その後のシーンで煉獄さんの弟である千寿郎くんが仏壇に向かって必死になって祈っています。義勇さんの考えだと、この千寿郎くんの態度も悪となってしまうのでしょう。

逆に、そんな千寿郎くんもいずれは強くなって戦うようになるのでしょうか。

人の決定は自分の意思ではなく、脳が既に行なっている

上限第3位の鬼との戦いの中で、炭治郎と義勇さんは徐々に窮地に陥っていくんですね。で、その最中、炭治郎は炭治郎の親父さんとの会話を思い出すんです。

炭治郎の親父さんはヒノカミ神楽を踊る時の極意のようなものを教えてくれます。

ヒノカミ神楽は日没から夜明けまで踊り続けるという大変過酷なものです。これを踊る時、覚えたての頃は、なんせ色んなことを覚えなくてはいけないので、動きや感覚の全てを拾わなければならないそうです。

それこそ、体の血管ひとつひとつまで認識するくらい自分の体を意識するそうです。

それが、一通り覚えて吸収した後、必要でないものは削ぎ落とすそうです。

多分、炭治郎の親父さんが言うところの「透明な世界」とは、この必要なものだけを使っている状態であると言えると思います。

思うに、「意識」というのが問題なのかもしれません。

以前、NHKで放送していた織田裕二司会の身体についての番組があったんですけど、その中で、人は自分の意思で行動していると思いがちだけど本当は意思の前に脳が決定しているらしい、ということを言ってました。

自分の意思で決めているのは錯覚らしいのです。脳にそう思い込まさせられているというか。

で、その際面白いことを、誰だか博士が言ってたんですけど、人間意識している時は大抵上手くいっていない時だ、っていうんですね。

自然な、無駄のない行動というのは、よくよく考えたら意識なんてしていません。

例えば、朝起きたら、気付いたら歯を磨いて顔を洗っていた、なんて経験はないでしょうか。習慣化、というやつですね。

習慣化した動き、って無駄な動きなくないですか?

よく考えれば、「意識しなくちゃできない」ってことは、結局その人のモノになっていない、とも言えるわけで。

だから、ヒノカミ神楽でいうと、意識して動いているうちは無駄な動きも多い、ということなのだと思います。

そして、その習慣化された状態を「意識的に」開いたり閉じたりできるのが「透明な世界」であるのかもしれません。

無意識の領域を意識的にコントロールする、という、とんでもない神業なのかもしれません。

回り道が最短距離

そんな神業の領域なんですけど、炭治郎の親父さん曰く、力の限り?いて苦しんだからこそ届くのだそうです。

なんとなく、以前見たイチローのインタビューを思い出してしまいました。

インタビュアーの稲葉が、最近は知識も多いので最短距離で辿り着ける可能性はあるのではないか、と問うたところイチローは即答で「無理ですね」と返しました。

そして、(辿り着けないけど、仮に)全くミスなく辿り着いたとしても、深みは出ないですよね、と続けます。

イチロー曰く、遠回りはすごく大事、無駄なことは結局無駄じゃないっていう考え方はすごく大好き。

もちろん、無駄なものに飛びつくのではなく、その時は最善だと思って取り組んでたけど後から考えたら無駄だった、ということなのですが。

思うに、炭治郎の親父さんが言った「力の限り?いて苦しんだ」というのは、この無駄な遠回りのことなのかもしれません。

そして、そうして辿り着いた場所が「透明な世界」なのかもしれません。

それはイチローの言った「深み」と、何か相通ずるようなものがある気がするのです。

炭治郎の石頭

それにしても、この巻で特筆すべきはやはり炭治郎の石頭でしょう。

生身の人間が、上限の鬼、しかも第3位の奴にヘッドバットかまし、「いい頭突きだ」と言わしめます。

とても人間業のヘッドバットとは思えない!

炭治郎、頭の硬さではワールドクラスですね。色んな意味で。


 

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「鬼滅の刃」第十六巻ネタバレ有り感想。急転直下、怒涛の展開てんこ盛り!!


鬼滅の刃」全巻感想というこのマラソン企画も遂に第16巻となりました。

そして、物語が大きく動きます。

もう最後のクライマックスか、という勢いですが、残りの巻数(全23巻)から考えて、多分その一つ前の段階の、主人公に立ち塞がる壁、といったところではないでしょうか。

おそらく、本当のクライマックスはもう一つ後にあると思うのですが如何に?

そしてこの巻は主に三つのパートに分かれていました。

1.特訓パート
2.鬼舞辻の急襲パート
3.しのぶさん戦闘パート

なんですけども、1から2のジャンプが凄まじかったですね。

まさに急展開! 風雲急を告げるとはまさにこのこと!

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修行は部活の合宿感の一方で善逸は…

先ずは前巻からの続き、柱稽古なんですが、「稽古」という響きから来る生易しいものではありません。「地獄の特訓」です。「修行」と言っていいでしょう。

今回は入道柱こと、玉ジャリジャリ親父こと、岩柱の悲鳴嶼さんのとこで修行です。

もう、これがパワー全開の力修行で、多くの人が「修行」という響きから想像するようなステレオタイプな修行となっております。

滝に打たれ、丸太を担ぎ、岩を動かします。

ね? 「修行」でしょ?

善逸なんか、説明を聞いただけで気絶します。

しかし、悲壮感や絶望感はあまりなく(やってる本人たちはあるだろうけど)、同じような年代の男子たちが寝食を共にし、修行の辛さを(割と楽しげに)語らう姿は、どことなく「部活の合宿」を想起させます。

そんな中、炭治郎は魚を焼いたりお米を炊くのが抜群に上手いことがわかり、みんなから「お袋」というあだ名をつけられてしまいます。

同世代の男子にお袋って…。

そしてこの修行の中で悲鳴嶼さんの弟子(継子ではないらしい)であるところの玄弥によって「反復動作」なる「呼吸」に継ぐ新たなスキルがもたらされます。

こうして炭治郎たちは更なる成長を成し遂げるのですが、その一方、何やら善逸に動きがあります。

善逸の雀から手紙をもらうのですが、そこにはどうも、善逸の秘めたる目的に関することが書いてあるらしいのです。

善逸がどういう思いで鬼殺隊にいるのか、そこはまだ明確には語られていません。

いつになくシリアスな善逸の過去は、次巻以降語られることでしょう。

悲鳴嶼さんの話

そして今回、悲鳴嶼さんの過去が語られます。

前回の鬼との戦いの話を聴き及んでいたのか、炭治郎のことを「認める」って言うんですね。鬼である自分の妹を見捨て、里の者を助けるとは剣士の鑑だ、というわけです。

まぁ、悲鳴嶼さんは勘違いをしていたのですが(決断できずにいる炭治郎を見かねて、禰豆子が炭治郎を突飛ばして里の者を助けに行かせた、というのが事の真相)、その勘違いを訂正して「認めないでください」と正直に言う炭治郎に、むしろ更に感服します。

この子供は他の子とは違う、というわけです。

悲鳴嶼さんは子供という「生物」を看破していたんですね。

よく、子供というと、純粋で汚れを知らない無垢な、天使のような存在、みたいに語りたがるじゃないですか、みんな。

でも、天使って割と簡単に堕ちるらしいですからね(^^;;

現実の子供も同様です。確かに無邪気で純粋です。でも、それは良いことばかりではありません。

無邪気で純粋ということは、裏を返せばまだ何も知らないということです。何も知らない故に、平気で人を傷つけたり、いじめたり、場合によっては嘘をついたり、まぁ、そういう色々と悪事を働きます。

そういう子供の残虐性を、悲鳴嶼さんはある事件をきっかけにして知ったんですね。

細かい話は割愛しますが、まぁ、ざっくり言ってしまうと、一人の子供の裏切りで一緒に住んでいた身寄りのない子供たちと悲鳴嶼さんが鬼に襲われてしまうんです。

悲鳴嶼さんは必死になって鬼と戦ってなんとか勝つんですが(強ぇ)、女の子一人だけしか助けることができませんでした。

そして、その助かった女の子に、子供たちを殺したのは悲鳴嶼さん、みたいに言われてしまうのです。

それで悲鳴嶼さんは逮捕され、処刑を待つ身となったのです。そこを助けたのが産屋敷のお館様なのです。

まぁ、この女の子の証言の真相は、全然違ってたんですけどね。事実をありのまま話そうとしてたんですけど、ショックが大きすぎてうまく喋れなくて、こんなことになってしまったわけなんですが。

そんな感じでですね、子供の生態をあまりに残酷な形で知ってしまったわけなんですが、そんな悲鳴嶼さんだからこそ、炭治郎の本質を見抜くことができたんでしょう。

その子供の一件以来、悲鳴嶼さんは疑り深くなってしまったそうです。もちろん、疑り深いのはそんなに良くないことなのかもしれません。

でも、こうも思います。一旦、人に限らず物事を疑い、そこから自分なりに考察を加えたり観察したりして判断するのは、そう悪いことではないのではないか。

特に、悲鳴嶼さんの場合は色眼鏡で見ることはしていないように見えます。

疑い、観察し、考察し、そして色眼鏡なしで判断する。悲鳴嶼さんはそういうことができる人なんだと思います。

逆に不死川の兄貴の方は、たまには色眼鏡を外した方がいいと思う。

義勇さん、実はかわいいか?!

で、悲鳴嶼さんの修行が無事修了した炭治郎が次に向かうのは義勇さんとこでの柱稽古です。

ここは小休止というか、箸休め的な場面で配分も短いんですけど、まぁ、義勇さんと不死川の兄貴が戦ってるんですね。柱同士の稽古で。

でも、不死川の兄貴は殺気満載だし、何より偉そう(に見える)な義勇さんが大嫌い。

そんな不死川を鎮めようと、炭治郎は不死川の好きなお萩を作る、と申し出ます。でも、不死川は自分がお萩好きなことはあまり触れて欲しくないんですね。硬派で売ってる自分が甘いお菓子好きだとイメージが崩れるからだと思うんですけど。

で、不死川のお萩好きを知った義勇さんはそんな不死川の本心に気付かず、次回からは懐にお萩を忍ばせて、不死川にプレゼントする、ってんです。炭治郎も、それ良いアイデアですねー、て賛同するんですけど、いやいやいやいや、火に油を注ぐようなもんだろw

なんか、義勇さん、って天然なのか?w

なんとなく炭治郎とウマも合いそうだし。

そうそう、後のエピソードで義勇さんは炭治郎と共闘するんですけど、なんか、相性が良い感じなんですよね。

同じ天然同士、相通ずるものがあるんでしょうねw

鎧塚さんところ出身の鬼殺隊は、割と天然が多いのかもしれませんね。

ってことは、錆兎も…。

まさか、鎧塚さん本人も…。

いきなりの急展開

で、割とほんわかムード(って程には、ほんわかもしてませんが)で進んできたこの巻に、いきなりの衝撃が走ります。

なんと、鬼舞辻がいきなり産屋敷亭に乗り込んでくるのです!

これには意表を突かれた。いきなり主人公側の本丸に敵のラスボスが乗り込んでくるとは! こんな展開見たことないかも(多分)。

ややもすると、ちょっと拙速とも思えるこの展開ですが、読者に衝撃を走らせるには効果的抜群!

そして、産屋敷のお館様と鬼舞辻の対決の中で、秘められた真実が明るみに出ます。

先ず、産屋敷のお館様と鬼舞辻は元は同じ血筋だったというのはびっくり。今はもうかなり遠くなってしまったようなのですが、かつては近い間柄だったのです。

皮肉にも、鬼となった鬼舞辻がその長すぎる人生を謳歌している一方、産屋敷家は鬼を出してしまったことにより呪われてしまったんですね。

その呪いを解くための戦いだったのです。

もちろん、お館様がそれまで戦っていたのは、罪の償い、という意識もあったと思います。一族の者が犯した罪は自分の罪、という意識があったように、その言葉の端々からは感じられるように思います。

もう一つ新たにわかったことは、鬼舞辻が死ぬと他の鬼も全て死んでしまうようなのです。

しかしそのことがどうやってわかったのかは、まだわかりません。しかし、鬼舞辻自身もそのことについては自覚的でした。ということは、鬼舞辻が鬼を作るとき、「そのように」作っているのかもしれません。

産屋敷の作戦は女性作家ならでは?

そして、遂に鬼舞辻がお館様に手をかけようとした時、産屋敷亭は大爆発を起こします。

その時、産屋敷亭にいたのは、お館様と鬼舞辻の他には、お館様の妻と子供二人。

つまり、お館様は鬼舞辻を倒すため、油断させるため、自分の妻と子を道連れにしたのです。

思うんですけど、この物語的発想って、女性作家ならではだと思うんですけど、どうでしょう?

女性って、というより、母親って、父親、つまり男に比べて、自分の子供をより「自分のもの」と捉えているようなところがあると思うんです。

それは、お腹を痛めて子供を産めるから。

それは「自分のもの」=所有物という図式も成り立たないわけじゃないと思うんです。

これは超個人的なものの見方なんですけど、男の側からすれば、妻は基本的には血を分けていない他人だから巻き添えにするってことは、頭では理解できる。

でも、血を分けた子供を巻き添えにする、って考えはちょっと理解の外にあります。

だけど、もし、女性が「子供=自分の所有物」という考えがあるのならば、こういう発想が出てきても不思議はないかな、と思うんです。

自分のものだから、自分の思い通りにできる。思い通りにしてもかまわない。

何か、この、お館様の家族もろともの自爆作戦には、そういうところがあるような気がします。

しのぶさんはどうなるのか

お館様の作戦は功を奏し、あの鬼舞辻が焦ります。ここまで追い詰められた鬼舞辻を見るのは初めてです。

そこから、まさかの珠世さんが鬼舞辻を捕らえます! ここで出てくるか! ここもまた意外でした。しかも、珠世さんは鬼を人に戻す薬を開発したと言います。それを鬼舞辻にブチ込んでるわけです。

更に岩柱・悲鳴嶼さんも応援に駆けつけます。他の柱たちも次々に駆けつけますが、鬼舞辻の下僕である琵琶の鬼の能力で全員異界へと落とされてしまいます。一気に形成逆転です。

そこで、しのぶさんは仇である上弦の鬼と対決します。

しかし、しのぶさんの攻撃はまるで通じず、鬼にいいようにやられて万事休す。

しのぶさんの最後の攻撃で次巻!ということになりましたが、多分、しのぶさんは勝てずにやられてしまうんでしょう。残念ながら完全にそういう流れです。

というのも、しのぶさんには継子のカナヲがいます。多分、カナヲがこのスカしたイケメン鬼を倒すのだと思います。

なぜなら、しのぶさんはカナヲにこの鬼の倒し方を教えていたのだから。

思うんですけど、継子がいる、ってことは、多分その柱は鬼には勝てないってことなんでしょうね。

だって、そうじゃなければ継子いなくていいんだもん。もし、柱が鬼を倒せれば、特に必然性がある存在じゃないですからね。

なんか、次巻が早く読みたいような、読みたくないような。そんな感じ。

 

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「鬼滅の刃」第十五巻ネタバレ有り感想。様々なことが起こる激動の巻!!


鬼滅の刃」全巻感想、今回は第15巻です! 四捨五入すると20巻に突入です!

いやあ、遂に20巻が見えてきましたねぇ。

それと同時に、面白くなってまいりました!

物語の方もね、いよいよ加速してくる、その前段階といったところなのですが、キャラクターがですね、もう完全に一人歩きしている感じですね。

もう作者の管理(という言い方が妥当かはわかりませんが)を離れて、独自に動いてる、生きてる感じがします。

それは、メインキャラ以外もそんな感じなんですね。

だから、いわば、この物語の世界が完全に構築されたんではないか、という感じです。

でまた、展開的にも割と激動の巻。

一冊の中に様々なエピソードが描かれていました。
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上弦の鬼との戦いが決着

最後の最後まで息が抜けない展開となっていました。

「もうダメだ」と、最後の方はね、思いながら読んでましたが。

この「もうダメだ」感を出すのが、さすがに上手いですね。

当然、腹の中では読んでる人みんな、勝利を信じてますよ。わかってると言ってもいいでしょう。

でも、それでもなお「もうダメだ」と思わせてくれる。

その展開力、スピード感。相変わらず素晴らしいですね。

それに今回、割と本気で「もうダメだ」と思わせる要素もありまして。

「鬼の討伐」という勝利は信じて疑わないものの、今回はそれとは別に「禰豆子を救う」というのがありました。

夜明けが近くて、このままだと禰豆子は日の光で燃えてしまう!という危機があったんですね。

で、実際禰豆子は燃えてしまうんです。

ここがですねー、ええええー!って感じで、もうダメだ、どころじゃないですね。ダメだったんですけどね、燃えてるから。

この後どうなんダァー!?ってなって、戦いの最後の方はハラハラしっぱなし。

でも、個人的には言っちゃうと、それでも大丈夫だろう、というのは心の奥底でありましたけどね。

23巻(最終巻)の表紙に笑顔の炭治郎と禰豆子が描かれていますからねぇ。

禰豆子が進化?!

そして案の定(ハラハラはしましたが)、禰豆子は無事ですw

で、なんで禰豆子が大丈夫だったか、って言うと、「日の光の中でも大丈夫なように進化したから」。

とんでもないウルトラCですw

でももちろん、大きな流れの中の展開としては作者の中では無理なく決まっていたことなのでしょう。でもそれは読者には知らせない。意地悪ですねーw

で、禰豆子が日の光の中でも大丈夫になる、というのは珠世さんは予期していたそうで。まぁ、順番的には後出しジャンケンですが(笑)展開的には予定通りでしょう。

その理由はまだ明かされませんが、兎にも角にも禰豆子は日中も出歩けるようになります。

ただ、このことが更なる鬼舞辻無残の苛烈な攻勢を招くことになるというのです。

一つ良かったことが起こると、それは更なる悪いことの引き金になってしまう、というこの展開。さすがですねー。

鬼舞辻が青い彼岸花を欲しがるのは、それが自分が完全体、つまりは日中でも出歩けるようになるための薬に必要だからです。

しかし、禰豆子が日の光の下に出れるようになった今、薬は必要ありません。鬼として、ある面では自分よりも進化した禰豆子を、多分欲しがるのでしょう。

今後はいよいよ鬼舞辻が禰豆子の元へ直接乗り込んでくるかもしれません。いよいよ全面対決ですね。

また、いち早く禰豆子の「覚醒」を予期した珠世さんにも動きがあります。より正確に言うと、動かれた、というか。

産屋敷のカラスが珠世さんの隠れ家に接近するんですね。

どういう経緯で産屋敷サイドが珠世さんの情報を知り得たのかは定かではありませんが、結構組織デカいですからね。そこらへんは諜報部隊みたいのがいるのかもしれません。むしろ、いる方が自然かな。

ただ、この産屋敷が放ったカラス、本当に産屋敷のものかどうかは、まだわかりません。次号、要注目ですね。(多分、本物の産屋敷のカラスでいいと思うけど)

痣とは何ぞや?

今回の戦いの中で、炭治郎の他にも、無一郎、甘露寺さんの二人に痣が発現します。

炭治郎が見る夢の中に痣のある剣士が出てくるのですが、この痣が発現する、というのが殊の外重要なことだそうです。

鬼舞辻をかつてあと一歩のところまで追い詰めたのは痣のある剣士だったそうです。だから、鬼を倒す力と何か関係があるのではないか、ということだと思います。

そして、柱合会議では急遽、なぜ痣が発現したのか、二人に私見を述べさせます。

ここでの二人の対比が面白いですね。

感覚的な、シゲオ長嶋的な擬態語のオンパレードで説明しようとする甘露寺さん(可愛い)。対して無一郎は理路整然と、具体的な数値も交えて説明し、「条件さえ満たせば痣は誰にでも出る」と結論を下します。

甘露寺さんのアホっぽいけどナチュラルな強さと、一見天才的な無一郎の、実は努力に裏打ちされた知的さが鮮やかに描き出されているように思います。

こういう、設定的な説明シーンにも、それぞれのキャラを際立たせる感じが、見ている人に飽きを感じさせなくて上手いですね。

やっぱり、どうしても説明シーンって退屈になってしまうきらいがありますからね。

そして、鬼舞辻の過去も語られるのですが、どうも鬼舞辻、元は貴族であったそうなんです。なんとなく、意外な感じでした。

義勇さんの過去

そしてこの巻では、水柱・冨岡義勇の過去が語られます。

自分は鬼殺隊の選別試験には受かっていない、という衝撃告白。まぁ、実際には規定としては受かっているのですが、助けられて生き延びただけだ、というのです。それでは実質受かってないのと一緒だ、とこう言うわけです。

だから、義勇さんは自分は柱ではない、と言い、他の柱に対しても引け目があるそうなのです。

だから、なんとなく皆と交わらず、一歩引いたところにいたのですね。でも、どことなく偉そうな態度で、何人かから「バカにするな」と反感を買っていますが。どういうことなんでしょう。

で、しかも、義勇さんを助けたのは第1巻に登場した錆兎だというんです。ここで意外な繋がりが出てきました。

そして、痣騒動が起こる中、自分には関係ないとばかりにションボリ状態の義勇さんを元気づけるのが、もちろん炭治郎です。そして、炭治郎にそんなお願いをするのは産屋敷のお屋形様なのです。さすがに人の上に立つ人は目配り気配りが違います。

で、この炭治郎。相変わらずアホです。このアホアホ鈍感パワーが義勇さんみたいな人には効くんですよね。

呼びかけに無視し続ける義勇さんにも関わらず、ズカズカと家の中に入ってしまう炭治郎。

寡黙な義勇さんを勇気づけるには、ざるそば早食い競争がいいだろう(喋らなくていいから)、と勝負を持ちかける炭治郎(義勇さんは勝負を受けてくれます)。

アホです。

しかし、そんな天然ナチュラルアホパワーは時に、不意に、うっかり核心を突いてしまうことがあります。

錆兎から託されたものを繋いでいかないんですか、と問いかけます。

その問いかけは、かつて他ならぬ錆兎から問いかけられたものでした。

義勇のお姉さんが繋いでくれた命をお前が繋げ、と言われていたんです。

そのことを思い出したんですね。

姉と同じように、錆兎に命を託されたことを思い出すんです。それで、義勇さんは立ち直り、柱稽古に参加することを決意します。

その流れからのざるそば大食い対決です。

始終、炭治郎のペースに引きずられていた義勇さんでした。

すげえなあ、炭治郎。

柱の下で猛特訓

それで最後、柱稽古に入っていくわけなんですけど、稽古なんて生易しいものじゃ断じてないですね。特訓ですよ、特訓。いや、サバイバルかな(^^;;

そんな、辛い辛ぁーい特訓が鬼殺隊メンバーを待っているわけなのですが、炭治郎はかつて関わった柱の方々とはすっかり仲良しになっているのでした。

宇随天元とその一行(三人の嫁)には「久しぶり」と歓待されます。

かつてあれだけ冷たく、生意気だった時透無一郎はすっかり自分を取り戻し、元のやさしい無一郎として、炭治郎をひいきしすぎなのでは、というくらいの笑顔で接します。いや、「懐く」と表現した方が良いレベル。しかし無一郎、覚えの良くない他の鬼殺隊には元の冷酷な無一郎で接するのです。ここらへんはまだお兄さんの影響力にあるのかな?

そして甘露寺さんは、パンケーキでご歓待。しかし、稽古する鬼殺隊のメンバーに「レオタード」に着替えさせ(炭治郎も着ます)、サブミッションばりの柔軟体操をさせなす。

しかし、甘露寺さんに密かに恋心を抱いている(に違いない)蛇の人(名前忘れた)からは嫉妬120%の敵意を向けられ、しごきにしごかれます。

また、弦也の兄貴(名前忘れた)は獰猛極まりなく、弦也との兄弟喧嘩の仲裁に入るついでに大乱闘となり、接近禁止を命じられてしまいます。

この二人は相変わらず様子がおかしいですね。特に、弦也の兄貴! こいつはマジでやべー。でも、この人にも過去に色々あったんですよね。そのことは、弦也の過去話で垣間見られました。

いやー、この兄弟には幸あって欲しいですね。弦也の兄貴も更生(?)して欲しい。

そして次巻、あの入道の柱稽古に突入します。いやー、この入道柱、怖そうだ!

善逸再登場

そして、この巻で嬉しかったのは、善逸がひっさびさに登場し、相変わらずだったことです。いやあ、ブレねーなー、善逸。

日の光の中にいる禰豆子を見て狂喜したり、柱稽古の話を聞いて悪態つきまくったり、柱稽古に耐えきれずに逃げ出したり、相変わらず期待を裏切りません。

でも、鬼との戦いの際、炭治郎の回想の中で、打開のヒントを与えたのもまた善逸でした。

普段はなかなかにしてどうしようもないんだけど、いざという時に活躍する。

やっぱ善逸、いいなぁ。

でも最近、炭治郎にも似た魅力が出てきたんだよなあ。この巻で言うと、義勇さんとのやり取りはなかなかにして秀逸でした。

アホな炭治郎、好きだなあ。真面目で強い時とのギャップがいいですよね。

さてさて、次巻も更に楽しみです!

 

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