埼玉県民の友達が多くてですねー。
で、またどういうわけか埼玉県というのは東京と国境を接している県の中では特に位が低いって言ったらアレですけど(笑)
でもまぁ、割とそういう立ち位置の県なんですね。
ここら辺の感覚は関東近辺に住んでいる人でないとわからない感覚だと思いますが。
それで、飲みの席とかでよくあるのが、埼玉ディスりw
海がないとか、池袋までしか出てこれないとか、色々あって、最終的にはダサい玉とか言われちゃったりして(^^;
そんでこの間「ちょっと言い過ぎちゃったかなあ」と思って「ナウい玉県」って持ち上げたら、どういうわけか余計に逆上しちゃって。全くめんどくさいですけども。
で、そんな埼玉ディスを映画化した全くアホな映画があって、それが「翔んで埼玉」というわけで、大ヒットしましたねー。
もちろん、僕も観たんですけど(埼玉県民と一緒に)、映画は期待通り、観終わった後「なんだこれ?」と思うような楽しい怪作でした。
すごく面白くて、そりゃヒットするなぁという感じなんですけど、しかしそれには製作者側の練りに練った本気の作りがあったからこそだと思います。
予告編
色んな要素がてんこ盛りのエンタテインメントムービー
非常に面白い、わかりやすいギャグ映画だったんですけど、作りの方はなかなか凝っています。
先ず、中盤までは埼玉をディスりにディスりまくってますw
東京は70年代少女漫画風非現実的王侯貴族的な過度にきらびやかな世界として描く一方、埼玉は時代劇で描かれるような貧しい農村やディストピア映画的原始的且つ荒廃した世界観で描かれてしまいます。
そのギャップが埼玉差別と埼玉人特有の被害妄想を極端に表していて、まぁ失礼ですけど笑ってしまいました(笑)
でも、俺思うんですけど、埼玉を一番ディスってるのって、実は埼玉県民だと思うんですよね。
関東の他の県の人たちはそこまで埼玉のこと考えてないです。ぶっちゃけ興味ないんで(笑)
僕の友達でも「もう埼玉県民じゃありません! 東京都民です!」って自慢してくる蒲田在住の女の子がいるんですけど、まーとにかく自分の生まれた土地をディスるディスるw
でも僕がディスると怒るんですよ(^^; 本音では埼玉のことが大好きなんですよね
で、この埼玉県人特有の二重性、つまり強烈な地元愛を持っている一方、地元をやたらとディスりたがるという傾向は、この映画では「埼玉脱出」を狙う婚前の娘とその両親との会話の中にリアルに凝縮されていて、そこもまた面白いです。
中盤以降はロードムービー的になって、主人公二人の心の交流がおかしくも丹念に描かれます。
一応、GACKTと二階堂ふみのラブロマンスなんですけど、二階堂ふみは男役、つまりBLなんですね。
女性が男性を演じていなががらBLであるという、この幾つもの性の倒錯がまた面白い。
そしてクライマックスでは時代劇とか、ヒーローもののSFみたいなアクション映画になって、最後は勧善懲悪の痛快さをもって幕を閉じる…かと思いきやそうではありません。
最終的には日本全土を埼玉が征服しようとする様をスターウォーズのエンディングのパクリ的に演出し、更には世界征服まで狙うという、原作では未完の物語を、誇大妄想的に締めくくったラストは実に見事でした。
エンタテインメントの要素をこれでもかと言わんばかりに詰め込んでる上、GACKTや伊勢谷友介、二階堂ふみ、京本政樹などクセがありつつも美しい俳優の個性をふんだんに生かした凝りに凝った画面作りをしています。
これだけではありません(笑)
更にエンドロールははなわの「埼玉の歌」で、最後の最後まで楽しませてくれます。
これでめでたしめでたしかな、と思わせといてまだ終わらせない。最後の最後まで搾り切る。
考えに考え抜いたエンタテインメント作品でした。
実はデリケートな題材を上手くかわしている上手い作り
そんな楽しいエンタメ作品の「翔んで埼玉」なのですが、地方差別というかなりデリケートな内容を扱っています。
実はもっとシリアスに扱ってもいいくらいの題材なんですよね。
でもそれをうまくかわして笑いに昇華する上手い作りになっています。
基本的な外枠のストーリーを「結納のために車で移動中の埼玉在住の親娘の話」にしています。
そして「中身」の話を彼らが聞くNack5(埼玉の地元ラジオ局)から流れる「都市伝説」ということにして、「これは現実の話ではない」ということを言っています。
つまり埼玉発信、自虐ディスりなのだ、ということで批判をかわす仕掛けにしようとしているのだと思います。(実は原作者の魔夜峰央がこの原作漫画を途中で辞めちゃったのは、執筆途中に埼玉県民でなくなっちゃったからなんです。地元民がディスる分には許されるけど、外部の人がディスるのは良くないんじゃないか、という理由らしいです)
この「現実パート」では道中の「普通の埼玉」が映され、都市伝説で描かれるような通行手形もなければひどい生活を送っているわけでもない、ということを(当り前ですが)表現します。
こうやって「シャレである」ことを強調してるんですね。
しかしもちろん、これだけでは終わりません。
実はこの「現実パート」でラジオから流れる都市伝説は「都市伝説の中の人物」であるはずの埼玉解放戦線のメンバーの洗脳放送であった、という謂わば、
(枠組み外から)埼玉解放戦線→現実→都市伝説
という三重構造になっていて、虚実入り乱れるかなり凝った構造になっているんです。
実はこの映画の中の埼玉の立ち位置は、
「ディスってるつもりらしいけど、実はお前らは俺たちの掌の上なんだぜ」
という絶対的な優位の上にあるのです。
ディスってはいるものの、最後まで観ると、実は非常に埼玉賛歌と言ってもいいスタンスで作られてるんですね。
それでいてメッセージ性のあるディストピア映画
そんな感じで、上手い具合に地方差別というデリケートな問題をかわしてはいるのですが、その実やはり差別意識に対しては意識的で、埼玉県人に対する差別シーンは真に迫るものがあり、観る者に感情移入と自己反省を促すような作りになっていると思います。
埼玉ディスシーンを見て「俺、こんなして笑ってるけど、これに似たこと言ったことあるんだよなぁ…」などと思ってしまうこともありました。
そして、果たしてそれは埼玉ディスだけでしょうか?
うがった見方をすると、埼玉ディスりやギャグエンタテインメントというのは巧妙な隠れ蓑であって、埼玉は比喩であって、本当は差別問題全体に対して警鐘を鳴らしている映画なのかもしれません。