「ブレードランナー2049」を観たんですけど、僕は良かったと思います。
そもそも、映画館で予告編を見た時は上がりましたねぇ。大画面にあの銃が映された時、「ええぇー??!!!」っ驚いてしまいました。
しかも監督はドゥニ・ヴィルヌーヴ! 主演はライアン・ゴズリング! 好きだらけ!
もちろんハリソン・フォードも出演!! そして実際、本編でデッカードが出てきた時は、それはホントに上がりましたよ。相変わらず弱かったしw
人間になりたかったレプリカント
前情報なしで観たんですけど、主役のライアン・ゴズリング演じるジョーはもちろんブレードランナーだったんですけど、レプリカントだったんですね! これはいきなり意表を突かれましたねぇ。
年齢制限のない旧型(ネクサス8型)を新型が狩る、という構図。旧作を知る人間にとっては意外性があって、なかなか面白い設定だと思います。
また、意外性は全編に渡って存在していて、ライアン演じるジョーが辿ってきた人生は非常に数奇なものでした。
結局彼は「奇跡」を隠し、守るための当て馬でしかなかったんですね。彼の人生は非常に哀しいもので。
徐々に解き明かされていく自らの人生に、恐怖や期待が二転三転し、AIの恋人(らしきもの)も結局空の器でしかなかった(ように思う)。
そんなジョーが、全てが裏切られた果てにデッカードを娘に引き合わせたのはなぜだったんでしょう?
思うに、そうすることが人間らしさだと判断したからではないか、と僕は思います。
ジョーは人間になりたかったのではないか。
「大義のために死ぬのもまた人間らしさ」というようなことをジョーは言われ、結果としてはそうだったかもしれない。でも、そんなことのためにジョーは行動したのではないと思います。
一度親だと思ったデッカードの幸せ、望み、そのために行動したのではないでしょうか。
愛するならば時には他人になった方が良い場合もある、というようなことを言ったデッカードの寂しさ、本音、それらをジョーは感じたのだと思います。親だと思った人物のために行動すること、それが人間らしい行動だと思ったのではないでしょうか。
人間らしい、とは何か
じゃあ、人間らしい行動って何でしょう?
人間らしい行動、それは相手への思いやり、相手の立場、気持ちを推し量り、行動することではないしょうか。
であるならば、この 2049は非常に原作と近い精神性を有しているのではないかと思う。
原作で訴える人間の本質とは、感情移入である、と僕は思いました。登場「人物」は全て何らかの形で他者のために行動する面がありました。
この感情移入とは、他者の立場に立ってみる、ということだと思います。そしてそれは社会的生物としての人間にとって、欠いてはいけない大切な能力だと思います。ここにレプリカントと人間の決定的な差があります。
そして、ジョーはこの壁を越えようとしたのではないか、と思うのです。
前作には映像美の点では及ばず
ブレードランナーと言えばその世界観、映像美だと思うのですが、これに関しては一作目の方が良かったように思います。
技術的にはもちろん今作の方が上なんでしょうけど、あの混沌としたパワーは今作にはなかったですかねぇ。
やはり一作目から様々な未来感が創出され、そうして一周回った上での焼き直しなので、勢いも衰えてしまうのは致し方がないことなのかもしれません。
新しいことをやりたい面もあるんでしょうけど、いかんせん続編なので、当然のことながら世界観は踏襲しないといけない。
なんだけど、やはりブレードランナーには新しい世界観を求めてしまう。それは取りも直さず、一作目の偉大さの証明でもあるんですけどね。
また、あのパワーは時代性もあったと思うし、始祖の試行錯誤から生み出される時の特有のパワーもあったのだろうとも思います。