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僕が買ったもの、観に行った映画・ライヴなど、要は金を払ったものに対して言いたい放題感想を言わせてもらおうというブログです。オチとかはないです。※ネタバレありまくりなので、注意!

「飛ぶ教室」ネタバレ有り読書感想。男汁満載の少年文学!!


そろそろクリスマスですね。

僕はクリスマスファシズムに対しては敢然と異を唱える高邁の士であることを自認する者です。

しかし、今回はそのクリスマスの時期を舞台とした児童文学の名著「飛ぶ教室」の感想を書きたいと思います。

この作品の子供たちはクリスマス休暇を心待ちにしていますが、それはおそらく、家族でクリスマスを楽しめるからでしょう。

最近は随分勢いがなくなったとは申しましても、まだまだ日本にはクリスマスファシズムが根強い。

それに比べて、欧米の、しかもこの時代のクリスマスは実に健全です。まぁ、本場だから当然とも言えますが。かように日本のクリスマスは歪んでいるのであります。

ちなみに「飛ぶ教室」とは主人公たち生徒が作るオリジナルの劇の題名です。かなりSF色満載で、飛行機に乗って現地で現物を見ながら授業を行う、という未来スタイル。

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相変わらず前書きが長い

「エーミールと探偵たち」同様、なかなか始まりませんw

前書きが2つもある時点で異様な幕開けと言っていいでしょう。言ってみれば、本編の前にエッセイがあるようなものです。

この前書きが、またえらく言い訳がましく、なかなか書き進まない愚痴を書いているんです。なんとなくの後ろ向きなような前向きなようなところは太宰っぽくもありますかね。

ただ、この前書きの中で、子供にまつわるリアルを書きたい、と宣言しているところはなかなかだと思います。

とかく世の大人たちは子供を天使のように思いたがるところがありますが、あれらは小さい大人であります。

よくよく思い返してみれば、その人間性の根本にあるものはガキの頃から変わっていないはずではないでしょうか。KinKi Kidsが「30ってもっと大人かと思っていたら、何も変わらなかった」と発言していた通り、歳を重ねていっても大抵何も変わらないのです。下手すりゃ小学生のまま。

だから、子供時代は辛かったり悩んだりすることのオンパレードなのであります。今はそのことをわかっている人は多いと思いますが、この時代、つまり20世紀前後の時代は、まだまだそこらへんの事情は認識されていなかったのかもしれません。

飛ぶ教室」には道理さんと禁煙さんという、主人公の通う学校の先生がいますが、二人ともこの学校の元生徒です。彼らはその人生の中で、途中音信不通となってしまうのですが、物語の中で再開し、強い絆は時が分けても強いままでありました。そして二人はいつまでも子供時代のままの部分も多分に持っており、こういうところからも、大人とは子供時代と地続きであり、子供は小さな大人であることを描いていると思います。

そしてもう一つ、前書きで「知恵ある勇気」を解いています。

知恵のない勇気は乱暴で、勇気のない知恵は机上の空論に過ぎない、みたいなことを言うのです。これまでの歴史は、知恵のない勇気が横行し、知恵ある者は臆病で、その繰り返しだった、と言います。

ヘルマン・ヘッセが「デミアン」で描いたことをなんとなく思い出してしまいました。ケストナーもまた、世を憂い、若い世代に何とかそのことを伝えたい、と思っていたのではないでしょうか。

よくよくこの二人は根本にあるものは似ているような気がします。ただ、ケストナーの方は、より地に足をつけた形でそれを表現しようとしているように思うのですが。

ちなみに物語中で端的にそのことをわかりやすく描いているのが、ウーリが勇気を見せるシーンですね。ウーリとは背も小さく、大変臆病な生徒です。その彼が、まぁ、無茶なことをするんですね。大変危険な。で、怪我しちゃうんですけど。

で、みんな度肝を抜かれるんですけども、みんが関心するその勇気は違う、と友人のゼバスティアンが言及します。ウーリの見せた勇気は大したことはない。しかし、ウーリのすごいところは、自分に勇気がないことを恥じていたところだ、と言うんです。

多分、無茶は勇気じゃない、でも、勇気を持つことは必要、ということなんだと思います。何が勇気なのか、ということに、ケストナーは言及していたのだと思います。

その一方で、もう一人の友人ジョニーは「どんなにひどいことでも避けて通れないことがある。ああいうことをしなければ、ウーリはもっと苦しんでいた」と言います。やはりどこかで勇気は見せなきゃいけない、ということなのかもしれません。

あと、前書きではわかりやすくケストナーがマザコンであることが露呈しますが、そこもヘッセとよく似ています。もちろん、この世の全ての男は理論上は全員すべからくマザコンなので、問題ありません。

キャラクターがやはり濃い

エーリッヒ・ケストナーのキャラは、濃いですねぇ、やっぱりw

先ずネーミング。道理先生、禁煙さんなど濃い。ちなみにこの道理さん、元のドイツ語では「正義さん」と訳した方が正確なのですが、訳者である池内紀氏の判断で、「正義」は使いたくない、ということで「道理」という言葉を引っ張ってきたそうです。

確かに、よく言われることですが、正義って言葉はなぜだか攻撃的で排他的な印象を与えます。あまり道理さんのイメージとは合わない気がします。でも、レ点を付けて「義を正す」と書き下すと、なんというか、静的なイメージになるような気がします。うん、そんだけ。

あとは、他校との抗争の原因となった書き取りノートの先生のキャラが濃すぎました。

この小説では生徒ばかりか、先生のキャラも濃く、実に愛すべき人ばかりです。

当然のことながら、主役の生徒たちも、頭が良かったり、芝居の脚本書いたり、やたら腕に自信がある食いしん坊だったり、小さくて臆病だけど、その食いしん坊とは妙にウマが合う奴がいたりと、非常に楽しい群像劇。

あと、そんな彼らの寮生活も楽しそう。

就寝の時間、上級生が幽霊に扮して下級生の部屋を練り歩き、それを見て下級生たちが怖がる、というのは子供達の寮生活ならでは、といったところ。

共同生活は辛く、嫌なことも多そうだけど、子供たちにしてみれば、毎日が修学旅行のようで、それはそれで楽しいのかもしれません。

ろくでなしブルース?!

ちなみにこの話、前半はケンカばっかしています。

演劇の練習前に上級生と一悶着あり、練習中には他校との抗争(!)が勃発したことを聞きつけ、作戦を立てたりと、次から次へと忙しく展開していきます。

そしてその展開がどれも学生らしいエピソードで、なんだかワクワクします。もちろん、そのワクワク感はキャラクターがあってのものでしょう。曲がったことは許さない、やられたらやり返す、という子供っぽい理屈が読んでて気持ちがいいです。

それが原因で、彼らは下校の規則を破ってしまい、監督生に怒られ、寮長のところに連行されてしまいます。

でも、子供には子供のルールがあります。今回の抗争の原因は、仲間を拉致監禁されたからなのですが、先生に報告すればいいじゃないか、という論もあるでしょう。

しかしそれではダメなのです。それは大人のルールだから。

子供の世界、特に男の子の世界では、大人に告げ口するのが一番のルール違反なのです。まぁだから、そのルールを簡単に破る女子は男子から嫌われていたのですが(最近の子はどうだか知らない)。

だから、今回の場合、寮の規則を破らねばならなかったのです。そして感動的なのは、怒られた主人公たちはそれぞれに責任を一人で被り、仲間を助けようとするんですね。かーっ、男の子!(嬉)

ちなみに、この小説には女性がほぼ出てきません。男子校だからか、生徒は男の子ばかりだし、教師も全員男。

やはりこれは少年の話であって、女は出てきてはいけないのでしょう。そういった意味では少年らしい男汁満載な小説と言えるかもしれません。

男と女は全く別の生き物で、まるで分かり合えない論理でそれぞれ生きています。それは子供も同じこと。女は友達や名誉のために戦うことはしない。見返りのない友情もない(言い切ってみました。異議はあるでしょう。しかし却下です)。

大人のための児童文学

で、寮長先生に怒られるのですがw

しかし、この寮長先生こと道理さんは、すごく話がわかる先生なのです。

自分の苦い経験を踏まえ、柔軟性のある寮長になろうと決意しただけのことはあります。

道理さんも、生徒だった頃、寮を抜け出すために、仲間が一人身代わりになって助けてくれました(それが禁煙さんらしい)。その仲間を守る自己犠牲という点でも、道理さんと主人公たちは共通しています。

そういった、自分の「のっぴきならない理由」で規則を破った話をする時、規則を破った主人公たちを得意満面に道理さんの前に突き出した監督生を帰さずに側で聞かせたのがまた素晴らしい。事情もわからず、規則を鵜呑みにするな、ということなのでしょう。

道理さんは自分の経験もあり、生徒に寄り添った寮長であろうとする。この下からの目線を持っているという点で、この道理さんは人の上に立つべき人間の資質を持っていると思います。

人の痛みが分かる人こそが人の上に立つべきなのだ、と僕は思っています。おそらく、監督生にはそれはなかったのでしょう(つーかまるでなかったと思う)。だから、側で聞かせたのでしょう。

この9年生の監督制・いろおとこテオドールはこの一件以来、人が変わったように柔軟な対応を見せるようになりました。勉強や規律を教えるのも、それはそれでもちろん大事だと思います。

でも、人にはそれぞれにのっぴきならぬ事情があること、それに応じて柔軟な対応を見せること、人の話をちゃんと聞くこと、弱者の目線に立つこと、などなどもっと重要で教えなくてはいけないことはたくさんあります。

それを、道理先生はテオドールを帰さずに、横で聞かせ、教えたのです。監督生という、人の上に立つ者はどう考えなくてはならないか、それを横で聞かせることで「それとなく」教えたのです(ここ重要)。

これが教育というやつです。日本の教育者のほとんどが、それがまるで出来ていないと思うんですけどねー。どうなんでしょ?

また、この小説は基本児童文学なんですけど、大人のシーンも結構あります。

校長先生のクリスマス休暇前の演説で、子供達に対する愛情を吐露するシーンがあったり、禁煙さんや道理さんなど、子供の見本となる大人が多数登場します。ダメな大人は基本いません。

ここらへんは、多分に児童文学たることを意識しているからではないかとも思います。

児童文学、ということは親が子供に買い与えるものです。その際、親も読む可能性が高い。その親に向けての、良き大人たれ、というメッセージが多分にあると思うのです。

訳者のあとがきにあったのですが、ケストナーは「8歳から80歳の読者がいる作家」と言われていたそうで、それを考えると、やはり本作も大人の読者を想定していたと言えるのではないでしょうか。

貧しても、清貧であれ

主人公軍団の一人、マルティンは実家が貧乏であるため、行き帰りのお金を工面できずに、クリスマスは実家に帰ることができなくなってしまいます。

それこそ勇気のあるマルティンが一人泣く姿は哀しい。この作品でも親子、とりわけ子の母親への愛情が強く描かれています。マルティンの落ち込み具合は読んでて、本当に可哀想なくらい。よほど親子の絆が強いのでしょう。エーミール・ティッシュバインを彷彿とさせます。

マルティンの父親がダメオヤジかというと、決してそんなことはないと言います。この小説でも資本主義の構造的な欠陥を訴えているように思います。ケストナーにしろ、ヘッセにしろ、同じようなことを書いていたことから、この時代から社会は行き詰まっていたのでしょう。こんなところにも、小説とはその当時の社会を映す鏡である、ということが伺えます。

で、そんなマルティンを救うのが道理さんなのですが、この助け方がもう、ホントに男前! カッコ良かったなぁ。やはりこの話は「大人たるものかくあるべし」を描いています。

マルティンが帰って来られることを知らない両親は悲しみのドン底にいました。でも、確かに逃げようのない貧困の中、やり場のない怒りのようなものもあり、本当に悲しいものであるのですが、どこか清貧という言葉を想起させます。

そしてマルティンが帰ってきた時、一気に幸せに駆け上がる感じが素晴らしい。確かに貧乏かもしれないけど、親子三人、それぞれに愛し合っていれば、それだけで先ずは幸せなのかもしれない、と素直に思わせます。

マルティンは貧乏など物ともせず、家に帰って両親の顔を見るだけで幸せの絶頂にいたように見えるんです。

そして、両親からのプレゼントの中に、高級な色鉛筆が入っています。絵の好きなマルティンには、単に色鉛筆というだけで最高のプレゼントだと思うけど、しかもそれが高級品なんです。貧しくはあるけど、子供には最高のものを贈りたい、という気持ちが、親だなぁ、と思い、泣かせます。

このドン底からの跳躍、下げて上げる感じがなんとも。

後書きはフリーダム

で、最後は作者・エーリッヒ・ケストナーのあとがきで余韻を締める、といった感じなのですが、そこにジョニーと、育ての親の船長さんが出てくるという超展開。

なんというか、非常に80年代の漫画的ではありますw

しかもジョニーは現在7年生。作者と登場人物の関係性はなんだか超越感が半端なく、どういった設定なのかもよくわからないくらいフリーダムでした。

しかし、そういうところがまた面白い。

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