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僕が買ったもの、観に行った映画・ライヴなど、要は金を払ったものに対して言いたい放題感想を言わせてもらおうというブログです。オチとかはないです。※ネタバレありまくりなので、注意!

「ハナレイ・ベイ」所収『東京奇譚集』ネタバレ有り読書感想。乱歩的タイトルだけど、村上春樹的都会的奇譚集!!


村上春樹の短編集が好きで、何冊かこのブログでも感想文書いてみたんですけど、今回も村上春樹の短編集です。

今回はこちら、「東京奇譚集」。

これはですねー、タイトルで買ったところもありますね。もちろん、村上春樹の短編というのは大きいのですが。

「奇譚」って、なんかいいですよね。どことなく乱歩っぽい雰囲気があって。

そこに加えて「東京」ですよ。これはまさに乱歩だろいう、って。

もちろん、村上春樹に乱歩っぽいケレン味とかは全く期待してないのですが、でもやはりこのタイトルは買ってしまいますねー。

しかも結構、粒ぞろいの短編集だったと思います。



映画「ハナレイ・ベイ」予告編

youtu.be

偶然の旅人

この短編集も冒頭は前書き的な文章から。

村上春樹は前書きは嫌いと言いながら書くことが多い気がします。本当は好きだと思う。

奇譚集というから不思議な話が多く、村上春樹自身、不思議な体験が多いのだと言います。

ただこの前書きは本人が言う通り、取るに足らない話ではあります。しかし、これがなかなか良いですよねー。

特に、音楽好きにとっては「あー、こういうの、いいですね」と思えるもので。ライヴ観てて「この曲、演ってくれないかなあ」と思ってたら演ってくれた時の嬉しさと言ったら半端ない。

それがこの話の村上春樹の場合は、割とそれが極端な形で起こったのだから、そりゃ何か運命的なものを感じてしまう。それは「勝手に運命的」なのだけど、ファンというものは常に身勝手なものですからね。音楽好きにとっての、ちょっとほっこりしてしまう、そんな話だと思います。

そしていよいよ本編。

本のタイトル通り、ちょっと不思議な話でもあると思うのですが、基本的には一人の男の長きに渡る心の旅路の一つの終着点、といった感じだったように思います。

「ピアニストになれなかった調律師」というのが、ゲイであることを認めた自分とリンクしていて、この主人公の人生とでもいうべきものを、更に印象強くしています。主人公の職業として、上手い作りだと思います。但し、これがフィクションであるならば。実話ベースの話、という触れ込みなんですけど、そこも含めてフィクションの可能性は捨てきれません。

フィクションであるならば、この主人公の、ショッピングモールを使ってるくせに、そこをディスってみたりするスノッブ感は、やはり村上春樹自身が投影されたもののように思います。

人は「ありのままの自分」と言う時、往々にして本当には解放されていないと思うんです。そこには一種の開き直り、強がりのようなものを感じてしまいます。

なぜなら、「ありのままの自分」というものを感じる、ということは、生きている世の中と齟齬があるからです。自分と外の世界との間に齟齬があるからこそ、「ありのままの自分」というものを感じざるを得ない。

齟齬がなければ、自分と外の世界とが「同一」であるならば、「ありのままの自分」というものをわざわざ感じなくて済むからです。「ありのままの自分」を感じた瞬間、人は強烈な孤独を感じるのかもしれない。

また、「ありのままの自分」を意識するということは、それまでの自分の否定でもあります。だから、そんな時、主人公の調律師は姉に無条件に抱きしめてもらいたかったのだと思います。そうされることが、それまで自分がいた世界と自分との齟齬を弱めてくれるから。

ハナレイ・ベイ

息子をなくした母親と、浜辺に現れる息子の幽霊の話、というと、どことなく能を思い出してしまいます。能には全然詳しくないけど。

若い日本人の男の子二人組に会ってから、主人公・サチのキャラクターの印象がガラリと変わります。それまでは、一人息子をなくした母親、ということで、どこか弱さというか、寄り添いたくなるような、そんな風に読む者は印象を抱きがちになると思うのですが、実はこのサチ、結構攻撃的な、一筋縄ではいかない人物であることがわかります。

サチの「一度覚えた曲は忘れない」という特性や、天才的なピアノの腕前、それでいて楽譜が読めなかったり、直情的且つ攻撃的な性格。それら、長所も短所もそれぞれに極端な点を考慮すると、サヴァン症候群なのかもしれません。それ故の生きにくさのようなものはあったのかもしれない。

サチとはやはり「幸」なのでしょうか? であれば、生きにくかったであろうサチの半生を逆に象徴しているとも言えます。

息子との接し方にも、その影響はあったかもしれない。若者二人に対する態度がそれを想像させます。若者二人は、サチにとっての息子との疑似的な再会というか、比喩のようにも見えました。

憎まれ口を叩くくせに世話を焼く。心配でしょうがないくせに憎まれ口を叩く。全く不器用です。

どことなく、人当りとしては若者二人に比べ、サチの方が子どもに見えます。

サチに口汚い言葉を吐かれても、こういう人間に対する対処の仕方は知っている、と言わんばかりにのらりくらりと、ひょうひょうとかわしていくように、若者二人は見えます。

一言で言ってしまうと、若者二人の方が世慣れている感があるんです。

確かにハワイではあまりに無防備すぎる若者二人よりもサチの方が比較の対象にならないくらい力強い。しかし、対人間に対しては、立場が逆転する印象があるのです。

実際、物語ラストでデブの若者はさっさとサーファーから足を洗い、就職活動をして、彼女候補とデートまでしている。サチからの『恋のアドバイス』もキッチリとメモしていてぬかりない。

で、この物語、息子の人間性が好きではなかったという母親が、その息子を失って、自分はどう感じていいのか、それを確かめる旅路だったように思います。

息子の幽霊(多分)はろくでもない若者二人には見えて自分には見えない、という事実を知り、息子の方でもサチを好きではなかったかもしれないことを知らされたような気持ちになったのかもしれません。

子供というものは、親の鏡です。人間は環境によって形成されます。環境を作るのは親です。だから、子は親そのものと言っても過言ではありません。

サチが息子を好きじゃなかったというのなら、それはとりも直さず、自分のことを好きではなかったということです。

また、息子の幽霊が誰にも見えないのなら、まだ納得もいったかもしれない。しかし、他人に見えて、母親である自分に見えないとなると理不尽のように思えてしまう。

しかし思うに、会わない、姿を見せない、というのはそれはそれで一つのメッセージと受け取ることもできます。なぜなら、若者二人には姿を見せ、10年もハワイに通ったサチには、ただの一度も姿を見せないのだから。とすれば、これもまた一つの死者との対話の形であり、やはり能を想起させます。

息子はまだ19歳でした。未成年です。その意味で、サチは、自分の子供が大人になって和解することができる、その前にいなくなってしまった。

和解できなかったのであれば、せめて幽霊でいいから見たかったのかもしれない。

いや、それよりも、なくしてしまった最愛の息子に最後一目でいいから会いたかったという、ただそれだけの、純粋な親の思いの話だったのかもしれない。

ちなみにこれは余談ですが、この物語のその当時、若者だった自分としては、若者言葉が上手く使えていない印象を受けました。下手に同時代性を出して失敗するよりは、普遍的な表現を試みるべきかな、と思います。

どこであれそれが見つかりそうな場所で

先ず、どういう状況なのか、それがわからない状況から始まるのがオシャレ感がありましたね。

主人公の几帳面な人物造形が、どういうわけか読んでいて小気味良い。こういう人物を作り上げるのが村上春樹はうまいと思います。

異様な失踪を遂げた夫を探して欲しい、という、言ってみればミステリー。しかし、主人公は探偵というわけではなさそう。あくまで趣味の範疇らしいのですが、趣味というには人生賭けてる感がありました。

おそらく、今回の場合のように「異様な失踪を遂げた人物」を探すことに心血を注いでいるのでしょう。だから、依頼料などは一切もらわない。そこも異様と言えば異様。

ただ、この物語に出てくる人物の全てが異様と言っても良い。

依頼人の夫が失踪を遂げたであろう階段を調査している最中、様々な人物と主人公は出会います。

ランナー、老人、女の子。

その誰もが異様なんです。異様と言うには大げさで、ちょっとズレているというか。ただ、そのちょっとのズレが異様さを醸し出しています。

依頼人の妻も攻撃的で冷たい印象を与えるのですが、その攻撃的で冷たい感じが、あからさまなものではないんですね。ジワジワと来る「攻撃的で冷たい」んです。その感じが異様さを加速させます。

そもそも主人公自身も癖があり、ちょっとズレています。メモに使う鉛筆を何本も揃え、その尖り具合にもこだわりを持っている。メモもさっさと書けばいいものを、いちいち丁寧に書く。いや、丁寧にしか書けない。

人物だけではなく「場」も異様です。そもそも三十階近くもあるマンションの階段に広々とした立派な階段があること自体異様です。しかも、回によってはソファと大きな鏡までが設えてある。そんなマンション聞いたことないですよ。

そしてラストは唐突に訪れます。主人公が解決したわけではありません。ひょっこり夫は現れたのです。しかも東京から遠く離れた仙台に。なぜそうなったのか、謎は明かされぬまま、誰も知らない。

思うに、この話においてはミステリーの解決などどうでもいいのかもしれない。どうでもいいとは言い過ぎだけど、さして重点を置かれていないのかもしれない。

おそらく、奇妙な主人公が出会う奇妙な人たちとの、奇妙な場所での会話こそがこの物語の肝なのかもしれない。

世間とはちょっとズレた人たちの、普通で異様な会話。

でも、世の中の人全ては、少しずつ、他人とはズレているので、そういったことの象徴かもしれない。みんなそれぞれ勝手にズレているというか。

そう思うと、実はミステリーではないのかもしれない。世間を描写し、それを極端な形で描いたある種の群像劇なのかもしれない。

日々移動する腎臓の形をした石

ネット上でたまに散見される、ステレオタイプな、言ってみれば「村上春樹構文」とでもいうような典型的な文章で綴られています。もちろん、中身はそんなアホな、退屈なものではありませんが。

自分にとって本当に意味のある女は三人しかいない、という父親からのある種哲学めいた、それでいて呪いのような言葉の呪縛に囚われた主人公が、キリエという女性に会うことによって、その呪縛から解かれる話、という感じだと思います。

主人公は学生時代に「自分にとって意味のある」と思われる女と既に一人出会っています。その意味ではキリエは二人目なのかもしれない。

でも、そんな風に女性をカウントする行為、つまりはモノとして捉えていた主人公が、言ってみれば初めて女性を女性として、人として見ることができる、そのきっかけをくれた人と捉えるならば「一人目」なのかもしれません。

というより、その呪縛から解かれた主人公にとってはもはや「何人目」という概念すら意味がないものなのでしょう。

また、キリエは主人公にとっては自分自身なのだと思います。

主人公は気鋭の小説家。キリエは高層ビル専門の綱渡り。

二人に共通しているのは、基本的には自分一人の世界、自分独特の世界、他人には理解できない世界を世界に向けて表現しようとしていることだと思うんです。

その意味で、二人の職業、二人という人間は似ていると思う。だから、主人公はキリエと話すことで、自分自身と対話をしているようなものだったのだろうと思います。

だからこそ、キリエと接した後の主人公は小説家としても一皮剥けたし、人間としても父親の呪縛から解き放たれた。

キリエの方としては、だからこそ、レストランのカウンターに一人座って酒を飲んでいた主人公が小説家と聞きつけて、声をかけたのだと思うのです。男と女の出会いとしては、一見実にご都合主義的に見えるけど、実は決してそんなことはなく、必然性があったんですね。

ここらへんの作りは実に上手いと思う。さすがである。

品川猿

いきなり主人公の女性・みずきが自分の名前「だけ」思い出せない、という地味ではあるけど、よく考えれば異様な幕開け。ある種のSF的な作品かと思わせます。

症状が、軽いといえば軽いからか、医者には相手にされず(それも酷い話だが)、困ったみずきは品川区役所のカウンセラーに相談しに行きます。

そこから、過去の話、みずきの高校時代に寮生活での出来事について語られるんですけど、ここから少しミステリー風味になります。

冒頭のSF色から一転して、作品が大きく舵を切る。でも、全然無理はなく自然な流れなのが上手いというか、面白い。

女子高の、学園のヒロインみたいな子・優子が突如みずきを訪ねてきて、寮の名札を預けていってしまう。その際、「猿に盗まれないように」という冗談めいた一言を残すんですけど、これがいわゆるタイトルの「品川猿」です。もちろん、みずきはその時は冗談だと解釈します。

そしてここで優子は「嫉妬をしたことがあるか?」とみずきに聞きます。そしてまた、おっそろしいことに、みずきは「ない」と答えるんです。

何か、みずきには人間らしいところが希薄なところがあるんですけど、ここに来てそれが「おかしい」レベルにまで達していることがわかります。

仙人じゃないんだから、一介の女子高生が嫉妬したことがないなんて、なかなかにして考えられないことです。

そしてその後、優子は自ら命を絶ってしまいます。みずきに名札を預けたまま。

結論から言うと、この時に預かった名札と自分の名札を一緒のダンボールに入れていたがために、優子のことが好きだった猿に名前を盗まれ、みずきは自分の名前を思い出せなくなっていたのです。

この猿に名札を盗まれると自分の名前の記憶まで盗まれるということらしい。原理はよくわからないですけど。

品川区役所の面々の活躍(?)で猿は捕まるのですが、この猿は名前と同時にその人物の心の闇のようなものまでも盗んでしまうらしい。だから今回、優子が実は心に深い闇を抱えていたことを知り、みずきの心の闇も知ってしまう。

猿曰く、みずきの母親と姉はみずきのことを嫌いだったらしく、みずき自身も薄々は母と姉のことに気がついていて、それを無理矢理意識の奥に押し込めていたらしいんです。

だから、みずきには人間らしさが希薄だったんです。それは嫉妬という感情すら湧かないほどに。

でも、それを自覚することで、みずきは前を向く、という話ではあります。

しかし、ひょっとしたら肝心なことは実は何一つ語られていない可能性もなくはないと思います。

それは、なぜ優子は自害したのか。そしてその原因は何か。更に、なぜ名札を託したのはみずきで、そしてなぜ優子は猿の存在を知っていたのか。

ここらへん、結構大事な点だと思うんですよね。でも、何一つ語られていない。

普通に考えれば、おそらく優子はみずきのことを好きだったんだと思うんです。でも、そんなことは言えない。学園のヒロインであるなら尚更です。

そしておそらく、流れからすると、優子はみずきに嫉妬してたのではないでしょうか。嫉妬するほどのものをみずきに見出し、それ故に好きになってしまった。って考えると、割と筋は通るのかな、って思うんですけど、どうでしょう。ベタすぎですかね。

でも、なぜ猿の存在を知ってたんですかね? それだけはさすがに想像できん。


 

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「ドライブ・マイ・カー」所収『女のいない男たち』ネタバレ有り読書感想。村上春樹のコンセプトアルバム!!

村上春樹の短編集が好きです。何冊か読んだんですけど、長編よりも好きかもしれません。

で、そんな村上春樹の短編集の中でも、特に好きなものの一つが、この「女のいない男たち」です。タイトルがまたいいですよねw

そしてこの短編集、一言で言ってしまうと、テーマは「コンセプトアルバム」です。これは前書きにも書いてあることなので、かなり意識的にそうやって作ったのでしょう。

それぞれの短編に、共通項がいくつも張り巡らされていて、全体を通して読むと非常に統一的であります。読んでる最中も、所収の他の作品のことを思い出してしまったり。

それでいて、作風はそれぞれ違うという。非常に面白い作りになっていると思います。

「言い訳がましいことは書きたくない」という、あいかわらずの言い訳がましい前書きの後から、本編は始まります。

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ドライブ・マイ・カー

映画化されて、それがかなり話題になってますね。

然もありなん、な女性ドライバー評から始まるのですが、大丈夫なんでしょうか、今これ?w 結構なミソジニー感な印象がなくはない。

そして、主人公の車についての描写が冒頭しばらく続きます。それはそのまま女性についての描写のようで。古くはロックンロールで車がモチーフとして使われる時、それは女の象徴であったらしいですね。そして、そんな自分の車をどこか亡き妻と重ねてるようなところがあります。

主人公・家福が免停を食らってしまい、車を使わないと仕事(俳優)ができないということで、ドライバーを雇うことから物語は本格的に始まります。

で、さっきも言ったように、この家福、妻を亡くしています。このことが物語の大きなキーとなるのですが、妻が存命の頃は専ら家福が運転していました。助手席には妻を乗せて。

しかし運転手を雇ったので、今は家福がその助手席に座っています。運転席にはもちろん運転手が座っています。しかも女性。しかも若い。しかも一つも可愛げがない。しかし巨乳。

状況がまぁ、真逆と言っていいくらいに変わってるんですね。この、まぁ、言ってみれば新鮮な状況が、気分転換的といいますか、そんな状況が家福に昔語りをさせた小道具というか。主人公に告白させるのに自然な状況作りなような気がします。

そしてこの「みさき」という若い女性ドライバーが巨乳ってのが、主人公の壮年めいた渋さとは裏腹の幼児性というか、男が終生持ち続ける特性を表しているようで、情けなくていいですね。

で、この家福、非常な後悔といいますか、疑問といいますか、そういうものを胸に抱えておりまして。

生前の妻が浮気してたんですね。

なんでだろう、と。もちろん、もうその答えはわかりようがないんですが、それがまた後悔や疑問に拍車をかけているようです。

そして、妻が浮気をするようになったのは、産まれたばかりの子供を数時間で失ってしまったことと関係があるのでは、と家福は思っています。

でも、その前に仕事の面で(妻は女優。しかもスター)、どうも年齢と共に夫の方が妻を逆転したことも、少なからず関係があるように、読んでて思いました。

それで、この子供というのが、生きていたらみさきと同じ年齢なんですね。そのことも、家福が自分語りをした大きな理由なのではないかと。娘の代わりというか。娘って、母親の分身的なところあるじゃないですか。だから、娘を通して、妻に語りかけると言うか、そういうところもあったような気がします。

それでドライブ中に二人の話の中で、家福に友人がいないように見える、という話題から唯一の友人らしき人物、高槻の話になります。ここからが話の本題中の本題と言いますか。

この高槻というのが家福の妻の浮気相手の一人(複数いたそうです)だったのです。だら、家福は高槻に近づいたんですね。

もちろん、そのことを高槻は言わないし、家福も知らないふりをする。

そしてこの高槻も役者なんですね。割と二枚目の俳優らしくて。でも、まぁ大根役者で。だから名優と誉れ高い家福とは色んな意味で真逆ですね。そしておそらく、この高槻は人間的にも、家福とは丁度真逆なんだと思います。全然人を疑うということを知らない感じで。

だから、「友人」に成り得たのかもしれません。

それで、この高槻が大根役者ってのが効いているんですね。芝居をさせないためなんです。大根役者で嘘を吐けないから、家福に言った言葉が本当に聞こえるんです。

高槻は、家福にとっては一つ救いとなるようなことを話すんですね。そして、その言葉は、やはり本当でなくてはいけない。だから、高槻は大根役者でないといけないんです。

一方、家福は名優である故に、実に上手く嘘をつけてしまうんです。これが逆に、高槻の言葉が本当である、ということの一つの証というか、そういうものになっているような気がします。

妻が浮気してた時も、本当は知ってたんだけど、実に上手く嘘をつき通したんです。全然知らない、っていう風に。なんせ家福は名優ですからね。

でも、本当にそうだったのでしょうか?

本当は妻は家福の嘘を見抜いていたのではないでしょうか。なんせ、女の人は鋭いですからね。直感的なところは動物的ですらある。そういった意味で、女性の方が野性に近いのかもしれません。

話を戻すと、その高槻の言葉で、家福と高槻は初めて「繋がった」のかもしれません。そして「繋がった」が故に家福は高槻に会うことをやめたのでしょう。

家福は本当は高槻に復讐しようとしていたんですね。そしてそんな自分を恥じたのかもしれない。そういう復讐心を抱えていたわけだから、「友達になってしまった」瞬間、それは高槻を「裏切ってしまった」ことになってしまうわけで。

だからもう会えなくなってしまったのかもしれない。

それで、家福があれこれ悩んで考えたことをですね、24の小娘がさらりと一言で言い当ててしまうんですね。多分言い当ててると思うんです。

こういうところ、女性というのは経験ではなく、本能で生きているようなところがある気がします。生まれながらに女は女というか。壮年の男が小娘にコロッと負けてしまう。

男って、立派な男を女性は好きになるであろう、という前提で生きるところあると思いますが、案外そうではないのかもしれないし、そうではないなぁ、ということに直面することもままあったりします。

現代日本の女性って、但しイケメンに限る、とか、年収600万以下はモブとか、色々言ってますが、その実、やはりそんな基準では男を見ていないのかもしれません。

そういう事例は、結構見ます。

それで、この作品は後に掲載されている「木野」という作品と対を成しているように思うんです。

妻を失い、悲しみと向き合おうとしなかった、残された男というか。

二つの作品の男に共通するのはそういう心情を隠すのが異常に上手いということだと思います。

浮気されて悲しい、捨てられて悲しい。そういう気持ちを隠すのが非常に上手くあってしまったというか。

しかも、こちらの主人公はプロの役者です。しかもかなり上手い部類の役者という設定です。

そこが仇となってしまったのかもしれないのかなと。良かれと思ってやったことが仇となった。そんな風に感じました。

でも、こちらの主人公の方が、悲しみに対しては攻めというか、妻がなぜ浮気していたのか、もう答えがわからなくなってしまった問いに対して、積極的に向き合おうとしている感じがします。

エスタデイ

この短編集の第一話が「ドライブ・マイ・カー」で、第二話が「イエスタデイ」。

ここまでの流れは完全にビートルズ

完璧な標準語を操る関西人で早大生の主人公・谷村と、完璧な大阪弁を操る東京人で二浪生の友人・木樽。

対照的な二人が「友達らしきもの」になるという設定は「ドライブ・マイ・カー」を思い出させます。

序盤はこの二人の織りなす奇妙でおかしみのある関係性と、モラトリアムにして、それでいてどこか楽しげな学生生活(というよりバイト生活)が描かれます。

しかし、木樽の「俺の彼女と付き合うてくれ」という奇妙極まりない提案が成され、さてどうなるか、という話です。僕これ、この短編集の中で一番好きですね。

それぞれの登場人物がすれ違いきっている寂しい話なのですが、この年代特有の瑞々しさみたいなものを描き切っていると思います。そういう感じが、すごい好きですね。

で、この木樽という男。その強烈なキャラクターから質実剛健的な強い男、かと思われたら、実は繊細で弱い人間であろうことが徐々に語られていきます。

一方、木樽の彼女(えりか)はもう強い女の象徴というか、まぁ猛牛みたいなところがあります。猪かなw 猪突猛進的な。

強度という点では木樽とは本当に対照的で、普遍的な男女の形が一つの象徴となっていて、面白いですね。

えりかは今で言う意識高い系女子なんでしょうね。現状にもがきつつも、どこか力の抜けている谷村とも対照的。この谷村とのデートのシーンは余計にえりかの強さを引きたたせます。

その一方で、木樽と彼女のやり取りが熟年のおしどり夫婦のようで、そこは幼馴染の恋人同士という雰囲気が上手く出せていると思います。時間という大きな要素というか。そんな二人の関係性もさもありなんといった感じ。

だけど、男の方は彼女をもはや親族的な視点でしか見れなくなってしまっています。対して、女の方は肉食なんですね。もう、ガッツリ男として見ている。ここらへんも対照的です。

男ってそういうところありますよね。仲良くなり過ぎちゃうと、相手を恋愛の対象として見ることが難しくなってしまうというか。変に大事に思うようになっちゃうんでしょうね。ある意味、恋愛の対象として見るよりも大事な存在になってしまうというか。

そうかと思うと、お互いに「違う世界を見てみたい」と思ってるところは共通していたりするんです。この根本的な志向性というか、そういうものが非常に似ている。だからこそ、二人は全く対照的な存在ながら、お互いを大切な存在、それはもう一番に大切な存在として認識しているのでしょう。

だけど、ここがまた男と女で違います。男は観念的で家に閉じこもっているのに対し、女は外に出てさっさと行動してしまっている。

ここらへんの関係性も、大学に受かった彼女と、落ち続けている男、という設定がそこらへんを象徴していてわかりやすい。

ところが唐突に木樽が物語から姿を消します。突然バイトを辞めてしまうんですね。谷村とも音信不通となってしまって。以降、谷村は木樽ともえりかとも会うことはなくなります。

そして舞台は16年後。えりかと谷村はワインの試飲会で偶然にも再会します。これ以降の二人の会話がまー、読んでるこっちが恥ずかしくなるくらいオシャレにしようとしていて、逆に笑えてしまうのですがw

案の定、えりかと木樽は別れてしまっていました。おまけに木樽は大学受験まで辞めて、大阪の調理師専門学校に通います。その後、二人は会っていないのですが、ただ、アメリカで寿司職人となった木樽はたまに思い出したようにえりかに絵葉書を送って来るそうです。

そして、えりかが浮気相手のサークルの先輩とヤってしまったのが、谷村とデートしてから割とすぐということが分かります(しかし谷村、すげーこと聞くな)。それが木樽がバイト、そして受験を辞めてしまった原因だったのではないか、と推測されます。

特に証拠はないものの、木樽はそれを分かってしまったらしいのです。弱い人間というものは鋭い、というのもさもありなんというか。鋭いからこそ弱くなるのか。どっちなんでしょう。

ここらへんが木樽のめんどくさいところで、自分が公認した谷村相手なら浮気(と言っていいのかはわかりませんが)はOKだけど、知らない奴との浮気はNGという。まぁ、自分に黙って、というところが裏切り的でもありますからね。そういうところが傷ついたのでしょう。それにしても、めんどくさいことには変わりない。

思うに、木樽とえりかが同性同士だったら、こんなにめんどくさいことにはならず、それこそ無二の親友に成りえたのかもしれない。根本的なところでは非常に共感的であるし、二人の相違はただ一点、男女というところに起因しているからです。

この二人が男女でなかったら……、小説にはなりませんね。

でも、木樽とえりかは、不幸にも男女という関係だったけど、お互いにお互いが居たんです。対して谷村はこの時期、誰も友達と呼べる人がいませんでした。それこそ、木樽だけだったんです。

この時期、えりかは氷でできた月を木樽と二人で見る夢をよく見ていました。でもそれは、朝になったらなくなってしまうような、そんなはかないものでしかなかったそうです。

そして偶然にも、谷村も同じ夢を見ていました。でも、谷村は一人でその月を見ていたそうです。

不確かな関係性でも、そういう相手すら谷村にはいなかったんですね。

そんな谷村にとって、木樽は殊の外重要な人間であったはずです。

でも、その木樽とは、この物語の中では永遠に会えていません。絵葉書も、谷村の元には届きません。

独立器官

ガツガツしてないようで、今の基準に照らし合わせるとガツガツしている、いかにもバブル的な男の話。

この、渡会という男について谷村というライターが綴った、という形式の小説になっています。

谷村、ということは、おそらく「イエスタデイ」の主人公・谷村と同一人物なのでしょう。彼はえりかと再会した時、ライターになっている、と言っていましたから。

こういう繋がりがあるのも、この短編集がコンセプトアルバムを意識しているところだと思います。

基本的に、この渡会という男は不倫しかしません。相手が独身の女性であっても本命は他にいます。浮気です。そういうところも、バブル感満載ですねw

時代設定はわからないのですが、設定年齢は50代だし、舞台が現代であっても、バブルの亡霊、といった感じ。

で、そういったことが細かく念入りに記されています。そういう細かい描写って、登場人物を立体的に浮き上がらせますよね。ここらへんのフェチ的とも言えるねちっこい描写は村上春樹上手いですね。持ち味でもあると思うし。

独身主義者で家庭と子供を持つことを嫌悪していると言って良い男。ただ、ここでの彼の主張(多分村上春樹の主張)は、なかなか納得させられるものがあるのもまた確か。ま、それはいいとして。

問題となるのは、渡会が人生で初めて恋に落ちる、というところですね。

最初は、ここを微妙にギャグっぽく書こうとしている雰囲気もあります。あるのですが、後の悲劇的な展開もあるので今ひとつ乗り切れず、といった感じでしょうか。

だったらかえってシリアスに振り切ってしまった方が良いのかもしれないけど、独身貴族のモテ男が生まれて初めて恋に落ちて悩む、というのはやはりどう考えてもおかしみがあるのは致し方のないところかもしれません。

そして、単なるコメディには持っていかないのが村上春樹。渡会が自殺同然に亡くなったのを境に、喜劇的な方向から悲劇的な方向に一気に舵を切ります。

また、渡会が惚れた女が夫と子供すら捨てて第三の男(まー、おそらくかなり危険な感じの男なのでしょう)の元へ行ってしまったというのだから、また状況は更に酷くなります。この展開はさすがに意表を突かれました。

生まれて初めて女に惚れた渡会は、その女の道具でしかなかったんです。状況は最悪と言っていいかもしれません。

またこの女が酷くて、「恋煩い」(こういう単語を入れて、まだ面白くしようとしている村上春樹は性格が悪い)で拒食症になり、苦しんでいる渡会に「私には関係ないから」と言わんばかりに、決して会おうともしない。むしろ嘲笑うかのように見殺しにしたとも言えるかもしれません。

そうやって自分のために死んでいく男を思うと、むしろこの女はそこに快感を覚えている可能性もあります。

これ、俺の完全に私見なんですけど、女性って自分のために苦しむ男の姿を見るの、好きじゃありません?w なんかそんな気がするんですよねー。もちろん、そこにグッと来て、惚れちゃう、なんてこともなきにしもあらず。

思うに、この女の詳細な描写はないけど、多分つまらない女なんだと思います。出来の良い男は得てしてそういうつまらない女に惚れてしまう、というのも然もありなん。

そして、そういうつまらない女が心底惚れるのが、よろしくない男だったりします。そう考えると、よくできた夫と子供すら捨て、つまらない男の元に逃げ、踏み台にした男を嘲笑う、そんなこの女の全体像が見えてきます。

しかも、その肝心の女は一行も登場しないんです。それでここまでわかってしまうのですから、これを上手いと言わずして何と言おう。

また、そんな騙された渡会のためにさめざめと泣く、部下のゲイである青年が、何か非常に清らかな存在のように見えてしまいます。涙を拭く時も、清潔な白のハンカチだったし。

やはり、男は純粋で、女は狡猾という、そういう「本当の真実」らしきもの(真実とは言いません)を、非常に繊細に抉り出してますねー。

しかしこの話、ドキュメント調で書いてあるのですが、事実を元にしているのでしょうか、それとも完全なフィクションなのでしょうか。

シェエラザード

これ読んでいた時、ちょうどFGO1.5部をやっててですね、シェヘラザード(表記は異なる)が出てくるんですよ。

1.5部アガルタ編の、言ってみれば主役はシェヘラザードだったので、だから、なんか必要以上に面白かったですw なんとなくシンクロするというか。もちろん、こっちの小説は現代が舞台で、千夜一夜物語のシェヘラザードとは直接的な関係はないのですが。

この物語のシェエラザードとは、ピロートークがめちゃくちゃ面白いということで、この名前の知らない女のことを主人公・羽原が便宜的にシェエラザードと名付けたんですけど、シャレているような気もしますが、大げさなような気もします。

で、この女の話が面白いという例として、前世がヤツメウナギであったことを挙げてて。それがまた確かに面白いんです。前世はヤツメウナギだったの、とかしゃあしゃあと語る感じがw 確かに話が面白い女だなぁ、と読者に思わせるにはうってつけのエピソードですね。

ヤツメウナギヤツメウナギ的なことを考えるので人間の言語には置き換えられない、というのがまたね、なるほど、って思いました。そもそも肉体はもちろんのこと、生態がまるで違うのだから、見えてる世界など、感覚も違う。それに「ヤツメウナギ的」と言うことで、むしろ読者に想像させて面白い。

で、この羽原、「ハウス」と呼ばれる家で生活しているのですが、なぜなんだろう? ニュースを見ない、とか言っていたし、かなり大掛かりな組織の下で隠れた生活をしているっぽいので、犯罪組織的な何かなんでしょう。そういう根本となるところを説明しないところは、読者にある種のミステリアスさ、不穏さを感じさせて良いですね。

シェエラザードはそんな「ハウス」に定期的にやってきて、食材やビデオなど、生活をしていく上で必要と思われるものを調達してくる、いわば世話係。ついでにベッドのお世話までやっちゃう、という設定。ちなみに割とくたびれたおばさんです。

で、ある日のシェエラザードの話なんですが、高校時代、好きな男の子の家に忍び込むんですね。何やってんだ、とw 確かに面白い。

で、この他人の家に忍び込む描写が妙にリアルで、シェエラザードの行動が生々しい。非常にフェチ的ですらあります。他人の家は静まり返っている、というのが、なんか妙に納得ですね。

また、ヤツメウナギの話が、単にシェエラザードの話が面白い、ということの象徴ではなくて、この、いわば本筋のエピソードに繋がってくるのが上手いですよね。忍び込んだ他人の家、しかも好きな人の家でじッと息を潜めているのは、なんだか実にヤツメウナギ的です。

そしてこのシェエラザード、色々と好きな子のモノを盗んでいくんですね、訪問する度に。でも、それだと窃盗になってしまうから代わりに自分のモノをわからないように置いていくんです。まぁ、窃盗は窃盗ですけどね。言い訳というか。

で、そういうことを繰り返していくうち、ある日、汗の滲みついたTシャツ盗んじゃって。これの代わりになるものは何か、っていうことで、まぁ結論から言うと、ふさわしいものがなくて何も置いていけなくて。もう言い逃れようがなく窃盗犯になってしまうんです。

シェエラザードは完全に空き巣に堕ちてしまうんですけど、でも、その堕落した感じが、何か良いんですよね。もう、言い逃れようがなく、完全に汚れてしまった感じが。

結局その後、シェエラザードはもう好きな子の家には忍び込めなくなってしまいます。罪の意識から、ではなく、母親が気づいちゃったらしいんですね。

そしてこの母親に対しては、一貫してシェエラザードはある意味憎しみのようなものに満ちて描写しているんですね。これがまたね、女性っぽくて。やはり女にとって好きな男の母親というものは天敵のようなものなんでしょうね。今回はまさに直接的な(会っていないので間接的とも言えるが)天敵となったわけです。

で、好きな子の家に忍び込めなくなると、だんだんとその子に対する興味を失ってしまうんです。シェエラザードの行動は病的ですらあったのですが、「おそらく実際に病だった」とシェエラザード自身言うんですね。

なんとなく「独立器官」を思い出させます。両者とも、恋の病の話なので。そして、実に対照的かもしれません。方や男、方や女。方や53歳、方や17歳。

ただ、女の恋は基本、上書き保存です。一旦消えた気持ちはそのまま本当になくなってしまうように思います。

シェエラザードは、この話をしている最中に羽原にセックスを持ちかけるんですね(村上春樹節炸裂ですね)。で、それまでは割と事務的に羽原とヤッてたのですが、今回は案の定激しくなるわけです。シェエラザードがあたかも17歳の頃に戻ったようで、好きだった子を想像しつつ、って感じで。

こんな風に、シェエラザードのように17歳の時に好きだった人を思い出して、17歳の自分に戻る、なんてことは女性にはないような気もするんですね。

実際、シェエラザード曰く「一旦潮が引くように消えてしまった」のだから、その後思い出す、ということになんだかすごく違和感を感じました。

これは男である村上春樹の妄想的理想論のような気がしないでもない。シェエラザードの考え方や行動が非常に男性的なんですね。

シェエラザードは好きな子の家で、かなりフェティッシュな行動を取ります。モノに異様なまでにこだわるんですね。そういうのって、男では割と聞くけど、女性でもそうなのでしょうか? なんか、違和感感じるんですよねー。

それでですね、この続きの話があるらしくて、それがまた面白そうなんです。なんですけど、そこでこの小説はおしまい。

そしてまた、羽原はシェエラザードと二度と会うことが出来ないことが示唆されています。

多分、二人が頂点まで上り詰めてしまったからだと思います。そうなると、後は下るだけなので、この物語の続きを書いても仕方ないと思うし、ひょっとしたら、どう書いても蛇足的になってしまうかもしれない。

だから、その、続きの面白い話は羽原と同じく読者も聞けないというのが、この物語が現実にまで少し侵食しているようで、そこもまたなんか面白い。

木野

最後まで読んでみると、割と怪奇的な小説なのですが、冒頭では全然そんな雰囲気はないですかねー。むしろ、どちらかというと生活をリアルめに淡々と描く、という感じ。

主人公・木野自身は実にありふれた男として描かれているし、彼の生い立ちも、まぁありふれています。実直ですらあり、現実的ですらある。

でも途中、神田の登場あたりから、段々と怪奇的な雰囲気を纏いだします。そんな「現実的」な木野と、怪奇的な雰囲気が強引に結び付けられていきます。なんだか不思議な作風です。

「木野」というのは、木野が経営するバーの名前です。ボン・ジョヴィみたいなものですね。で、その「木野」に集まる客が、なんだか怪しげなものばかり。半グレ風の二人組、謎の女とその連れの男。そして灰色の猫。そもそも神田が怪しい。

皆、どこか人間離れした雰囲気です。まぁ、猫と神田は木野に悪さをするわけではないので「怪しく」はないかもしれませんが。

神田は、描写からすると、多分「木野」の前庭にある柳の木の精霊みたいなものなのでしょう。神田のレインコートが灰色なので、最初、店を訪れる灰色の猫かと思ったのですが、一緒に登場したりもしたので、それは違いますね。

そんな、人ではないような登場人物たちに徐々に徐々に現実っぽい木野が絡みとられていくのは、なんとも不気味。特に謎の女。この女が決定的に木野を怪奇の世界に引きずり込んでしまった気がします。

で、結局蛇が家の周りに集まって来てしまったことから、どうもおかしいということになり、神田の助言に従って、木野は家を離れる、つまり旅に出ることになります。

その際、木野は神田から定期的に木野のおばさんに絵葉書を出すように言われるのですが、文章を書いてはいけない、と念を押されます。そして案の定、木野は文章を書いてしまい、妖怪の類(だと思う)の急襲を受け、破滅に向かってしまいます。

「書いてはいけない」と言われた時点でフラグは立っていたのですが、やはり人間「やるな」と言われるとなぜかやりたくなってしまいます。おそらく、そこには生物としての進化の心理が働いているのかもしれません。「やってはいけない行為」とは即ち、「別の可能性」のことでもあります。仮にそこで失敗しても、可能性を探ることが生物の進化の基本であるから、「やるな」と言われるとかえってやりたくなってしまうのは自然なことなのかもしれません。

ちなみに、絵葉書は「イエスタデイ」でも登場しました。こういう小道具が一つの短編集の中に二度も印象的な使われ方をするあたり、上手いというか、やはり統一感のようなものが出てきます。

おそらく、「木野」というバーは、木野が理想とした引きこもるための心の隙間の象徴だったのかもしれません。

そもそも、木野がなぜ会社を辞めてバーを開いたかというと、妻が同僚と浮気をしていたからです。しかも、事の最中を目撃してしまいます。

で、本当は妻にめっぽう傷つけられたんですけど、悲しみと向き合うこともせず、それをごまかして自分の殻の中に閉じこもってしまったんですね。多分、そういう悲しみから自分を守るためだったんだと思います。そのための場所が「木野」だったのでしょう。そして、そんな居心地の良い場所を作ったこともあって、木野はそんな自分の気持ちを上手くごまかせてしまっていたのです。

ちなみに、この「木野」というバー、おそらくは村上春樹の作りたいバーではないかなぁ、と思います。作家になる前、実際にバーを経営していましたからね。その、未練ではないんでしょうけど、やりたかったことの一つとして、小説に登場させたように思います。なかなか良い感じのバーだと思います。

最後にやってきた妖怪の類は、よくわからないけど、多分引きこもった木野を糾弾する何か、傷ついた本当の木野自身だったのかもしれません。

だから、ちゃんと悲しめよ、引きこもってんじゃねーよ、という村上春樹のメッセージ的な話かもしれないし、ひょっとしたら村上自身に起こったことを自戒めいて書いた小説かもしれません。

神田とは、多分、木野を引きこもりから外へと導く存在なのかもしれません。木野が出た旅とは、引きこもった部屋から出る散歩のようなものかもしれません。

女のいない男たち

村上春樹の前書きから引用すると、タイトルナンバーとしての書き下ろし作品。

そういうこともあってか、多分急ごしらえ感はある気がします。

特に明確なストーリーもなく、とりとめもない感じで、村上春樹の独り言が延々続いていく感じ。

かつての恋人が命を絶ったと、会ったこともないその恋人の夫が深夜一時に電話で知らせてくる、しかも主人公の付き合った女で命を絶ったのはこれで3人目という不気味な出だし。

しかし途中から、その元カノの魅力を延々と村上春樹特有のあまりおもしろくもない、それでいてちょっとシャレたユーモアを交えて語ってくるので、本当にとりとめがない。

ただそこは村上春樹。そのとりとめのない独り言がなかなか面白かったりするんですよねー。

そして、そんなとりとめもない独り言こそが村上春樹の真骨頂な気がしないでもないです。


 

 

 

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「ロスト・ワールド/ジュラシック・パーク2」(下)ネタバレ有り読書感想。マルカム先生、恐竜絶滅の真相を解き明かす!?


えー、すっかり寒くなってしまいました。10月です。下旬です。寒いです。

そもそも、夏のクソ暑い時季に同じ季節を舞台にしたクソ暑い小説を読んだら臨場感マシマシだろう、ということで読んだこの「ロスト・ワールドージュラシック・パーク2」!

そう、読んだのは夏なんですよね。しかし、更新をサボりまくってもう冬将軍の雄叫びが聞こえてきそうなサムサムな季節となってしまいました。

というわけで、今回は下巻の感想をば、書きたいと思います。

ちなみにこの本を読んだ夏って、去年のことですよ。

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マルカム、大いに語る

いや、マルカム先生、下巻も舌好調!

この作品の肝でもあるマルカム先生の大講演。これですよ、これこれぇ。

科学の客観性

客観性というものは存在しない、という観点が面白かったですねぇ。

マルカム先生曰く、科学と、文学や宗教の間には大きな壁があるそうなんです。

その壁とは客観性なんですね。

文学などには、観察者の視点というものが重要です。確かにそうですよね。その作者が何を考えているのか、何を訴えたいのか、そこが大事じゃないですか。

視点なくてしては文学はありえない。

一方、科学は客観性を重視したんですね。そこには逆に観察者の主観なんてありえない。

物事のありのままの姿、理をつまびらかにする。

それが科学でした。

ところが、この客観性は幻想だって言うんです、マルカム先生。

物事を観察すれば、その対象物に影響を与えずにはいられないんですね。

こことは今や自明の理だと。まぁ、「今」っつっても、90年代なんですけど。

まー、確かにそうかもしれませんねー。不確定性原理なんか、モロにそうですもんね。

恐竜絶滅の原因

先ず始めに言っときますけど、2021年の今では恐竜は絶滅していないことになっています。なぜなら鳥が恐竜だからです。

という説もある、という方が正確でしょうか。いずれにせよ、恐竜が完全に絶滅した、という説は現在では割と危うくなっている、とは言えるかもしれません。

この本が書かれた時は、まだ鳥が恐竜だとはわかっていないんですね(多分)。だから、一応ここでは「恐竜は絶滅した」という時代の話として聞いてください。

で、恐竜の絶滅なんですけど、恐竜が絶滅したのは行動の変化によるものではないか、とマルカム先生は仰います。

生物の行動の変化というものは、進化による変化よりも大きいのだそうです。そしてそれ故、適応力に欠けるかもしれない、とも言います。

変化が大きいと、それだけ、いざ変わった時に修正するのが難しいんでしょうね。

複雑な生物は、「進化」、つまり体の変化による環境への適合を必要としないそうなんです。頭良いですからね。こういう時はこうしたらいい、って考えて、やり方、つまり行動ですね、それを変えられる、ということだと思います。

たとえば、道具の使用、学習、協力などなど、それらで適応していくことができる。なるほど、そうだと思います。

シャチなどのクジラ類なんかは狩りの仕方を子供に受け継いでいきますもんね。

最近ではシャチがホオジロザメの狩り方を「発明」したらしいですね。

何年か前、はらわただけ食いちぎられたサメが打ち上げられることが多くなったことがあって、人間の仕業だろうと当初は思われていたらしいんです。密漁的なものだろうと。

でも調べたら、犯人(というのも変な言い方ですが)はシャチだったらしいんです。シャチはえらいグルメらしくて、美味しくて栄養もあるサメのはらわただけを食うらしいんです。

で、サメの狩の仕方なんですけど、サメって軟骨魚だから内臓を守る肋骨がないんですね。それで、シャチがサメの横っ腹を体当たりして内臓を破裂させるそうです。

なんせシャチは哺乳類の中で一番速く泳げますし、あの巨体ですからねー。タックルされたらひとたまりもありません。

それで仕留めたサメをゆっくりと食事するという。怖いですねー。

これも、言ってみれば「行動の変化」ですよね。体を変化させることなく、行動を変化させることによって対応する。

教育のために社会はある

でも、そうすることによって、自らの身体を進化させるということができなくなるらしいんです。そうする必要がなくなる、というべきか。

複雑な動物にとって、適応とは行動の変化であって、それは社会的に決定されることだそうです。

社会が決めるんですね。その種の個としては社会に適応しなくてはならない。環境の変化の適応は、個の社会への適応、という側面も多分に含まれているのかもしれません。

だから、社会が決める、つまり後天的に獲得しなくてはならないわけですから、教育がなければ、その種としての正しい行動が取れない、というわけです。

往々にして動物園の動物が子育てできないのは、そのような教育をされていないから、他の個体の子育てを見たことがないから、ということに由来するらしいです。

つまりは、あるべき社会の姿、即ち種としての自分の似姿を見ることができない、というわけですね。

だから、この話でのラプトルは秩序だった行動が取れません。頭が良い、という触れ込みなのにおかしいな、とは思っていたんです。そしたら、そういうことを描いていたんですね。なるほど納得でした。

この「頭の良いはずのラプトルがなかなかにして野蛮な頭の悪い行動をする」というのは第一作からあることなので、多分作者は続編も念頭に置いていたのではないでしょうか。

以上のことが理由で、この本の舞台となっている島のラプトルは、最も下劣な個体の方が生き残りやすいという…。

なんだか…、人間の社会と似てるな、と思ってしまいましたw

それでですねー、この教育ということに関して、下巻の冒頭の、大体100ページくらいまでですかね、そこにですね、人間が社会を作るようになったのは教育のためだ、ということが書いてあって、非常に感銘を受けたんですけども。

ここ読むだけでも、非常に価値があると思いますんで、是非、冒頭の100ページだけでも読んでみてください。お勧めです!

インターネットは人類の終わり

かなり大胆なことが書いてありましたねー。しかも90年代に。

サイバースペース、つまり今で言うインターネットですね。これは、人類の終焉を意味する、とも言うんですねー、マルカム先生。

進化が起こりやすいのは少数の集団である、と言います。なるほど。小回り利きますからね。

大きくなればなるほど、何も為すことはできなくなる、と言います。確かに大企業なんかはそういうこと、よく言われがちですw まぁ、実際はどうだかわかんないですけど。

で、マスメディアがやっているのはそれであり、全世界を均一化させている、と言うんですねー。なんせ「マス(大きな塊)」のメディアですからね。そりゃ大きいです。

ここでマルカムに憂慮されているのは知的多様性の喪失ですね。

多様性がない、つまり可能性、選択肢がなくなるということです。

そういうものが失われると、ヒトという種が停滞する。なんせ可能性がない、選択肢がなくなるわけですから、そりゃ停滞もします。

そしてマルカムは、精神の大量絶滅、と言います。

昨今の状況を見れば、それは当たっているように思えてしまいますねー。まぁ、こうやってワタクシもネットを利用してしまっているわけですが…。

90年代中盤にこういうことを予測しているのだから、マイクル・クライトンさすがだなー、とも思うが、その頃からそのような兆候は既にあったのかもしれないですね。

現代に甦った恐竜を描く

そして今回、やはり恐竜の観察の描写が多く、その点では前作よりも現代に恐竜が甦った、という醍醐味がありました。

しかも、その甦った恐竜が、本当はこうだったんじゃないか、という感じでかなり説得力ある感じで描かれており、それを観察しているわけだから、読んでて非常に楽しい!

一作目の単行本の帯文に藤子F不二雄が、恐竜を見るという夢が半分叶った、と書いてあったと記憶していますが、それはこちらのロストワールドの方がよりふさわしいかもしれません。

前作は確かに恐竜を蘇らせはしましたが、描かれ方として、人を襲うモンスターという側面が非常に強かった印象を受けます。

今回はどちらかというと、草食恐竜をのんびり観察するとか、自然としての恐竜、そこには食物連鎖があり、攻撃と防御があり、子育てがあったり、そういう「生活」があることが、丹念に描かれています。

実はこれこそ読みたかった、現代の恐竜小説だったかもしれません。

子供嫌い

あと、やはりマイクル・クライトンは子供が大嫌いだったのではないかと思いますw

キングという、謂わば敵役の一人がラプトルに襲われるのですが、それを観察小屋から子供たちが目撃するシーンがあるんですね。

大人たちは、見るな!と制するんですけども。そりゃそうですよね。でも、その制止を振り切るんですね、子供たちは。

そうまでして、子供たちは残虐な殺人シーンを見たがる。

これはハッキリと子供の残酷性を表したシーンだと思います。

よく考えたら、一種、異様なシーンでもある。

子供って、知識はないのはもちろんのこと、感覚もまだ完成されてないですからね。だから、大人よりも、そういうスプラッターな、残酷なものに対しても、変に耐性があるように思います。

そういう、子供の持っている怖さ、残虐性というものを、マイクル・クライトンは察知していたのかもしれません。

物語的にはイマイチ

そうは言っても、やはり恐竜の強さというか、怖さというか、そういうものは健在です。ティラノサウルスに延々と襲われたりとかね。

あと印象的だったのが、保護色を使って狩りをする恐竜。これはなかなか面白かったですね。カルノタウルスという恐竜なんですけど、もちろん実際には保護色を使ったかどうかはわかりませんが、物語的にはそういう設定を加えられていました。

この「見えない敵」というのがスリリングでしたね。しかも、設定的には現生の動物では考えられないくらいの保護色。

もう、ほぼ完全に後ろの景色と同化してしまうんですよ。もう、ほとんど光学迷彩ですね! 攻殻機動隊じゃないんだからw

そいういう動物がいるとすればイカとかですかね。透明になっちゃうってのは。あと、サフィリナという甲殻類がいるんですけど(攻殻?!)、それはもうかなり透明になっちゃうらしくて、最初その動画見た時はびっくりしましたけどね。

まぁ、そんな感じで「透明になる恐竜」ってのも危険度MAXでスリリングですね。ちなみに体長は7メートルくらいです。デカッ! そんなデカブツが透明になるなんて…、怖っ!

しかも、そういう恐竜に襲われるシーンの描写がすごいんですよね。手に汗は握る感じで。次から次へと襲いくる展開はスピーディだし、目が離せません。

でも…、ですね。割と退屈かなw 延々と続きますからねw その間、物語的には何も展開しないですから。ちょっと、そういうシーンが長すぎだったかな、というきらいはありました。

しかも、いかんせん魅力的なキャラがいないし、逆にスゲエムカつくキャラがのうのうとしているので、なんだか読んでて正直どっちでもよくなっちゃった感じですねー。

あと、善人であるエディがラプトルにやられた、てのもデカかったですね。その時点で、この一行がどうなろうと、もう興味はなくなっちゃった。

しかもエディのやられ方が、あっさりしてたんですよ。劇的な感じならまだグッと来るものがあったのかもしれないけど…。こういう展開は非常につまらないですね。

やはり読者に感情移入させる魅力的なキャラがいないと、せっかくハラハラする展開でも他人事になってしまいます。だから、そういうシーン読んでても、ただひたすら冗長なだけでしかなくなってしまいます。

ムカつくキャラと言えば、実は生きていたドジスンが、主役側の一人、サラに殺されてしまうんですね。サラは自分が生き延びるためにドジスンをティラノサウルスの生贄にしたんですけど、この展開は微妙でしたねー。

確かにドジスンはこの作品一番の悪役なんですけど、一市民がほぼ殺人行為をするってのは、僕の感覚からするとちょっと納得するのは難しい。

それでは、結局サラはドジスンと同じ穴の狢になってしまいますし、事実、そうなってしまった印象は拭えません。やはり、キャラ作りという面では、この作品は今ひとつ…、って感じでしたねぇ。

今回は、加害者が特に酷い目に遭うこともなくのうのうと生き延び、被害者が酷い目に遭う、という、まぁ登場人物的には読んでいてつまらない感じでしたね。

それにラストのシーンも、なんだか随分あっさり島を脱出しちゃった感じだし。その後あの島はどうなったかの言及もなし。

前作のようなカタストロフィ的なものはなく、後日譚もなし。正直拍子抜けした感じでしたねー。

そんな感じで、登場人物の感情移入とか、ストーリー展開という点では、今回は今一つ、という印象でした。

マイクル・クライトンの分身二人

でも、恐竜の描写とか、マルカムの台詞を使ってのマイクル・クライトンの主張とかは、実に読み応えがありました。

最後のマルカムとソーンの対になるセリフも面白かったですねー。

マルカムは、過去5回地球では大量絶滅があったが、次回それを引き起こすのは人間ではないか、と言います。

人間はひどく破壊的で、しかも効率良く破壊する。人間は地球にとって掃除屋の役割を担っているのではないか、と言うんです。

地球は何億年かに一回、舞台を掃除して、生物を次の段階に進化させているのかもしれない、と。

なるほど。なかなかにしてペシミスティックですけど、昨今の状況を考えると、この作品が書かれた当時以上にマルカムの台詞が刺さります。

この先見性というか、予言性というか、怖いくらいですね。

それに対してソーンは、それは所詮仮説であり、理論だ、と反対するんです。

仮説や理論は空想でしかない。後の世の人からは笑われる可能性も高い。それよりも、手で触れられるリアルなものの方がずっと大事だ、と言います。

順序立てて考えていけば、おそらくマルカムの方が正しいんです。でも、それもまた全部ひっくるめて、「お前が予想しただけでしょ」とソーンは言い放ってるわけなんですね。まだ現実に起こっていないし、これから起こるかどうかは未知数。

そんな先の予想よりも、今目の前で起こっていることに目を向けよう、という。最後に悲観的な予測を提出しながら、それを笑い飛ばすかのように希望を与えてくれる。なんだかソーンという人物そのもののような台詞です。

この人物は、この物語唯一の、そして本当に魅力的な登場人物だったと思います。

とまあ、最後に述べられた二人の論は両極端な話ですがが、二つともマイクル・クライトンの考えのように思います。

前者は警鐘、後者は科学や机上の空論に対する批判。

やはりこの話の本当の主役はマルカムとソーンなのかもしれません。

ただ、ソーンはそれなりに活躍したけど、マルカムは何も活躍できなかった…。まぁ、マルカムに語らせるにはモルヒネを打たないといけないらしいので、仕方のない展開だったのかもしれませんが。

 

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「ロスト・ワールド/ジュラシック・パーク2」(上)ネタバレ有り読書感想。映画は酷評されたけど、小説は面白い!!


やはり夏のクソ暑い時期には、クソ暑い設定の小説の読むのが臨場感も増し増しで良かろう、ということで読んだのがこの「ロスト・ワールドージュラシック・パーク2」!

マイクル・クライトンの名作「ジュラシック・パーク」の続編であります。

ジュラシック・パーク」は映画も公開されてバンバン大入り超満員。今日まで語り継がれる名作となったわけですが、原作小説の方も傑作でありました。まぁ、原作が良いから映画になったんだけど。

そんなわけでヒットが出れば当然の如く続編が作られるのがハリウッドの自然の摂理。御多分に漏れず、この「ジュラシック・パーク」も続編が作られ、それがこの「ロスト・ワールド」なわけです。

しかしこの続編、映画と小説、両方共観たり読んだりしたことのある人ならわかると思うのですが、「映画原作」と謳ってはいるものの、この小説、映画とは結構違ってます。

それもそのはず、この続編、映画は映画、小説は小説で、同時進行で各々別個に作っていったらしいのです。

随分変わった企画の通し方ですが、残念ながら映画の評価は散々(俺は好きだけど)。でも、こちらの小説の方は個人的にはなかなか面白いと思っています。

またこの小説中の登場人物・レヴィンが、白亜紀の生物が生き残っていてもおかしくない、と言うくだりがあるのですが、この小説の更に後の現代の視点から見ると、実は鳥は恐竜であることを知ってるので、なんというか、感慨深い。

時の流れを感じますねー。

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登場人物

今回も前回の「ジュラシック・パーク」同様、非魅力的なキャラが大挙して出てきますw

このシリーズは本当に非魅力的なキャラばっかり出てきますね。

今作品のガキどもも、前作のレックスに比べればはるかにマシだけど、やはりクソガキであることには変わりないです。

やっぱティムはよくできた子だったんだなぁ、ということが逆に浮き彫りになる感じですかね。

レヴィン

というわけで、先ずはレヴィンですかね。古生物学者の新キャラで、一応主人公格なんですけど、まー魅力ないw

本当にマジクソ野郎で、読んでて呆れるほど。トラブルメーカーのくせに(トラブルメーカーだから?w)心配してくれた仲間(と言ってよいかはわからないが)が助けに来ても「なんで来たの?」と感謝するどころか、むしろ馬鹿呼ばわりするくらいの勢い。

まぁ、レヴィンにはレヴィンなりの言い分があるんだろうけど、お前が連絡もなしに突然消えるからだろう!ということをわかっていない。やはり親しき仲にも報連相有りという感じですかね。そこらへんの人間関係のイロハのイが理解できない、そんな人。

相当優秀な人らしいんですが、異常に優秀な人って、えてして何かが欠けている場合が多いけど、その典型かもしれませんね。

また、描写として、レヴィンの病的なまでの綺麗好きが明るみに出たりもして、さもありなん、といった感じ。

やっぱりどこか異常な感じがする、という、こういう性格づけ的な生活レベルでの細かな描写はさすがですね。

ケリーとアービー

で、次は子供たちかな。今回登場する子供は秀才少女のケリーと天才少年のアービー。出だしは、前回と違って二人ともなかなか可愛らしいのかなー、と思ったんですけど、やっぱりそんなことはなかったですねw

二人とも少なからず問題がある子で、アービーは天才故か世間とのズレがある感じです。また、計画が狂うと思考停止になってしまいます。この性格付けも然もありなん、といった感じで妙にリアルなところが上手い人物造形ですね。

優れすぎてる人は何かが足りない、というのはレヴィンと共通しているところかもしれません。

もう一人の子供であるケリーも、勤勉な、なかなか頭の良い子ですが、いかんせん自己中心的で、自分が絶対的に正しいと思い込んでるやっかいなガキです。

アービーはまだ可愛げがありますが、ケリーの方は物語が進むにつれ、徐々に読んでてウザくなってきますw ああ、やはりティムはよく出来た子だった。

ドジスン

そして極め付けの非魅力的登場人物はドジスンですかね。まぁこの物語の悪役なので当り前なのですが。もう、殺人未遂とかしちゃったりしますからね。もう悪い悪い。

実は前作でも、悪事の手を裏で引いていたのはこの男で、事の発端を起こしたハモンドよりも、より直接的な悪であったように思います。

ドジスンの手引きがなければパークもあそこまでひどいことにはならなかったかもしれません。それだけに、物語にとっては重要人物ということになるんですけど。

でも、本来、それ故に物語的には粛清されなくてはいけない人物だったですが、のうのうと生き延びたんですよね、「ジュラシック・パーク」では。

ひょっとしたら、続編を書くのは既定路線で、その時にドジスンを粛清しよう、と構想していたのではないか、と邪推してしまいます。それくらいの悪党ですね。

ドック・ソーン

ひょっとしたらこのシリーズ初の魅力的なキャラかもしれません。それがドック・ソーンです。

まぁ、マルカムも相当魅力的だと思いますけど、ちょっと態度が尊大すぎるきらいがあり、残念ながら人好きのする感じではないですかねー(そこがカッコよくもあるのですが)。

しかし、このドック・ソーンという工学博士は、荒々しくもさっぱりとした、このシリーズにはいなかった魅力的な好漢です。

彼曰く、歴史も心理学も知らなければ、人のためになる設計はできない、いくら理論が完璧でも人が絡むとめちゃくちゃになる。

机上の空論ではなく、実践の重要性、総合的な、全人的な教育を重視している姿勢がよくわかります。

また、今回の子供達やレヴィンの弱点をも登場早々に看破している点もカッコいいですねぇ。彼もまた、マルカム同様、マイクル・クライトンの分身的キャラなのかもしれません。

で、今回もまたイアン・マルカムが登場するのですが、前回も出てきたし、割愛させていただきます。

描写

とにかく細部の描写が細かく、具体的!

そこは流してもいいんじゃない?と思うところも、これでもか、とばかりに描写してきます。そこがリアリティというか、実存感が表れているところかもしれません。

やはり恐竜を甦らせるという突拍子もないフィクションなのだから、小説世界の作りは細かくなくてはいけないのでしょう。

この細かい描写、設定が「恐竜が現代に甦る」ことに説得力が出るのですね。

そういうところは前回の「ジュラシック・パーク」を引き継いでいる点だと思うのですが、一転前回とは異なるところがあって、それは最初の恐竜出現シーンのところです。

あんまりもったいぶった感じはないんですね。しかも、グラント博士やティム君のような恐竜マニアはいないので、それほどの感動もありません。

今回は2回目だからなのでしょうかね。前回はもっと、こう、「練りに練った」感がありました。

なんせ、いるはずのない恐竜が出現するわけですから、謂わばこの小説の最も大切なシーンです。でも、割とあっさり。

2回目である今回の「ロスト・ワールド」は、「恐竜ありき」だからでしょうか。もう一回もったいぶっても意味はないのかもしれませんね。

ただ、島の全景を見る場面は、サバンナを見渡すような美しさと壮大さを感じさせます。今回は恐竜を、太古の、ある意味ロマンティックな存在というよりは、「動物」として描こうとしているのかもしれません。

そんなこともあってか、今回は恐竜を観察するシーンが面白い。

「こうだったんじゃないかな」を非常に理詰でリアルにシミュレートしています。それも実際のサバンナの動物の行動を参考にしてるっぽいので、説得力もある。

また、化石から推測することは連続写真を見てるようなものなのに、いつしかそれが現実のものと錯覚してしまう、という記述があるのですが、古生物研究が陥りそうなことかもな、と思いました。と言って、他にじゃあどうすればいいんじゃ、という感じですが…。

あとはですねー、今回は「ちょっとだけ近未来」の技術を投入した、秘密兵器的なマシンが登場。ちょっとだけだけど、来たるべき近未来SF、といった感じもあるところが、前回とはまたちょっと違うエッセンスですね。

マルカム先生、今回も大活躍

やはり、今回もまたマルカムのセリフが面白い!

しかも今回はいきなり始まるんですよねぇ。恐竜の絶滅は行動の変化が原因ではないか、とブチかまします。

曰く、カオスの縁より遠いとシステムは硬直化し、画一化する。近ければ、縁から落ちてしまう。

カオスの縁とは、適度に革新性を持ちつつ、適度に安定性を持っている状態らしいです。

いやあ、なんだかよくわかんないけど、なんとなく納得します。このマルカム先生の不思議な説得力。なんとなく分かった気になって、なんとなく頭が良くなった気分に浸れるので、気分いいですw

また、マルカムは絶滅のメカニズムについて、外的な要因よりも生物の行動の変化が絶滅に関与するのではないか、と言います。

マルカムは化石からは想像もできない「事実」を目の当たりにして(フィクションだけど)、恐竜はあれだけ複雑な行動をするのだから、やはりその考えは正しいのではないか、との結論に至ります。

例えば、氷河期の渦中にあっては絶滅は少ないんだそうです。でも、氷河期が終わりに入り、氷が溶ける時、つまり「二度目の変化」が起こる時、絶滅が起きるというんです。

二度の変化は相当な負担になる、ということですね。なるほど(←多分、よくわかってない)。今回も面白い論がいっぱいです。

マルカムの元カノ、恥をかく

それとは別に、ちょっと苦笑してしまう思想もありまして。

今回、サラ・ハーディングという、マルカムの元カノが出てくるんですけど、まぁなかなか、マルカムと違ってワイルドで肉体派な面もある、知的で、まぁなかなか魅力的な女性なのですが、ちょっと鼻持ちならない思想傾向があるのも事実。

どういうことかというと、この人、ハイエナを主に研究してるらしいんですけど、その研究対象の好きさ余って、あまりにもハイエナ上げにするためにライオン下げにするんですね。これが苦笑もので(笑)。

俺やっぱり、単純にハイエナは汚い下劣な肉食動物、っていうことでいいと思うんです。それが正当な評価だと思います。

ライオンがハイエナの仕留めた獲物を横取りすることを称して「下劣」と毒づく場面があるんですけど、それを言うなら、ハイエナなんかはチーターその他の肉食動物から獲物を横取りします。

更に言うなら、「下劣な」ライオンからも横取りしようとさえします。その事実をわかっていない(テレビで見たことがあります)。

思うに「人気者のライオンよりも、嫌われ者のハイエナの魅力がわかっちゃう自分スゲー」アピールをしたかったのでしょう。

しかし、狙い過ぎが見え見えで、失笑ものなんですね(笑) むしろ哀れというか…。

ストーリー

前回は「ジュラシック・パーク」という謎のテーマパークは何か、というのが物語前半の肝だったのですが、今回は「サイトB」がそれに当たります。

「サイトB」という施設が何なのか、それを中心にこの上巻は物語が進んでいきます。

そしてそのサイトBは、かなり闇の深い施設らしく、実はジュラシック・パークはその上澄みでしかなく、その暗部が今回の話っぽく進んでいきます。

そして今作では子供が活躍する場面が多いですね。

子供が大人に黙ってついて来てしまうというジュブナイルの王道的展開でもあるし、加えて上巻はあまりグロ描写が多くありません。

それを考えると、映画の成功もあってか、今回は多分に子供が読むことを想定して書かれているような気もします。

アービーなど、大人の能力を凌駕する子供の存在も、いかにも子供が好きそうな要素です。

だから、ある意味今回は「子供向け」と言って言えなくもないと思います。とはいえ、子供向けと言うには難しい話がいっぱい出てきますが(^^;;

また、マルカムが、前回あれほどまでにパークの建設に反対していたのに、なぜ今作でまた恐竜の島に来たのか、初めは理解に苦しみました。

しかしそれは、「絶滅」の謎を解くためだったのです。絶滅はなぜ起こるのか。

よく考えれば、そのメカニズムについては議論が喧しいですし、恐竜の絶滅ともなれば、更に議論は激化します。

よく言われる隕石(小惑星という説もある)衝突説も、有力ではあるらしいですが、決定的かというと、そうとも言い切れないものであるらしいです。

現代に蘇った恐竜を見れば、その謎が解けるかもしれない。マルカムはその一念で恐怖に打ち勝って「しまった」のです。

純粋な科学的興味は時に危険を顧みることができなくなるんですね。誰かが言ってたけど、勇気とは過大評価された価値観念、ということを思い出してしまいます。

そして、サイトBの恐竜は成体がいない、と妙なことに気付きます。

さあこれからどうなるか?! 次回下巻、乞うご期待!


 

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「華氏451度」ネタバレ有り読書感想。異質なディストピア小説?!


ディストピアを描いた作品が好きです。

映画とか小説とか、漫画とかでもですね、結構観たり読んだりしてるんですけども。

その中で、「華氏451度」という、名作との誉も高い小説があります。

フランソワ・トリュフォーによって映画化もされ(その時のタイトルは「華氏451」)、おそらくは有川浩の「図書館戦争」にも多大なる影響を与えたと思われます。

でもこの作品、ディストピア小説としては割と異質な小説なのではないか、と思います。

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全体を説明しない

この小説で行われている「出来事」に関しては、割とわかりやすくはあると思います。話の筋としては単純だし、人間関係も割と単純。

でも、具体的な状況の説明がほとんどないんですね。

ディストピア小説って、割と設定が重要じゃないですか。

時代は現在よりも過去か未来か(だいたい未来なんですけど)、場所はどこなのか。そして最も重要なのは、どのような社会形態でどのような暮らしが営まれているのか。

そういうのが、割と長い尺を取られて説明されたりします。設定厨の僕としては、そういうの読むのが大好きなんですけど、人によっては「説明が長い」と敬遠したりもして、まぁ、そこらへんは賛否両論なのですが。まぁ、ディストピア小説の醍醐味の一つではあると思います。

ところがこの小説では、舞台となる国の社会状況の詳細、全体像はほぼ語られていません。

大統領選挙があるらしいことは、会話の中からわかるのですが、その大統領がどれくらいの権力を持っているのか、どういう政治体制なのか、ハッキリと語られませんし、正確にはわかりません。

戦時中であるらしいのですが、どこの国と交戦中で、今現在どういう戦況なのかもわかりません。徴兵制があるのかどうかは、もちろんわかりません。

とにかく、どういう社会なのか、その詳細は語られていないんです。

というのもですねー、三人称小説ではあるのですが、小説全体を通して主人公・モンターグ個人の目線を徹底して追っているから、というのがその主な理由の一つであると思います。

個人の目線でしか描写しないから、全体的な状況がわからないんですね。

三人称小説だったら、パッと視点が変わって、例えば政府高官たちの会議の場面になって、今現在どんな状況か、彼らの思惑はどうか、などなど全体的な状況を説明することできるじゃないですか。

でもこの小説は、それしないんです。三人称でありながら、徹底してモンターグの周囲のことしか描かないんですね。

この「全体を描かない」という点で、ディストピア小説としては異質だと思うんです。

ディストピアものって、その主人公が置かれている状況、全体が、先ずは何よりも大事じゃないですか。でも、この「華氏451度」では個人を延々とフォーカスしていくっていうのが、非常に特徴的だと思います。

なぜそんな作りをしたのかっていうと、個人的な予想としましては、この作品のテーマの一つが「本」だからだと思うんです。

本を読む、ってすごい個人的な行為じゃないですか。例えば、テレビとかだと家族とか友達とかと一緒に見れますよね。でも、本は…やってできないことはないですけど(笑)結構厳しいですよね、同時間的にシェアするの。

だから作品の形態としても個をひたすら追っていくというスタイルを取ったのかな、と。

あとは知識と思考ですね。知識と思考を取り戻す、ってのもこの作品のテーマの一つだと思うんですけど、これらも個人的なことですよね。だからやっぱり、個を追っていくスタイルじゃないと成立し得ない作品だったのかな、と思ってしまいます。

強力な管理がない

ディストピアものって、大体徹底的な管理体制があって、その息苦しさ、出口の見えなさから、主人公が逃げ出したい、っていうのが醍醐味だと思うんです。

でも、「華氏451度」では、そこまで強力な管理はされていないみたいなんですね(なんせ全体がわからないので「みたい」としか言えない)。

確かに、本を持ってると、徹底的に家探しされて、本を燃やされて、逮捕されてしまいます。

でも、それ以外は、特段管理されている感じはありません。現在の民主国家とあまり変わりがないように見えます。

でも、ゆるーく管理されてるんですね。これが怖い。

学校は詰め込み式の記憶させる科目ばかりで、思考力を伸ばすものはないみたいです。

「余暇」の時間がなくなっているようです。仕事後の時間はあるのですが、プライベートな時間ではゲームをしたり、「壁」と呼ばれている(多分)テレビを見たり、とにかく自ら思考するような時間を持たなくなっています。

家の建築には、ポーチがいつのまにかなくなり、庭もどんどん狭くなっていっているようです。なぜなら、ポーチに座ってると、色々考えるじゃないですか。同じように広い庭で佇んでると、やっぱり考え事に耽るじゃないですか。

てなことを、モンターグが出会う登場人物たちが言うんですね。要するに、人々から考える力、考える習慣を奪ってしまおう、という、多分「政策」らしいんですね。

これらの政策って、別に特段強要してるわけでもないですよね。管理されてるといえばそうですけど、割とゆるいですよね。

でも、これが怖いんですよね。なぜなら、ゆるいから自分たちが管理されてることがわからないんでしょうね。

ここが、他のディストピア小説と違うところで、他のディストピア小説と比べて怖いところだと思います。

だから、みんな知らず知らずのうちに、自分たちを縛っていくように行動していってるんです。夫と話をするより「壁」(多分テレビ)を見たり、一生懸命詰め込みの勉強してみたり。

あとは密告ですね。モンターグが本を持ってる、ってことを密告したのは妻なんですね。

多分これは、お互いがお互いを監視してるんでしょうね。信頼していたはずの人間が実は政府の手先として振舞ってしまうという。

ゆるーく支配されて、人々も知らず知らずのうちに自ら支配されることを望んでいくという。

非常に怖いですね。

昇火士隊長が不可解

主人公・モンターグの上司のベイティーという人がいるんですけどね。この人が不可解で。

先ず、焚書を行う昇火士のくせに、やたら本に詳しい。実は本を読みたがっている、本を所持しているモンターグなんかよりも全然詳しい。まさに博覧強記という感じ。

そのくせ「本なんて下らないし、悪だ」みたいなことを言うのですが、本は素晴らしいと言っているように聞こえてしまうんです。

また、政府の政策をかいつまんで説明したりもするのですが、これは相当ヤベー政策してやがんな、ということがわかる感じなんです。

作者の言いたいことを悪役に言わせる、という手法は割と王道だと思うのですが、このベイティーもまさにそんな感じなんですね。

ただ不可解なのは、ベイティーが言ってることは主人公が薄ぼんやりと思ってる本の魅力について、明確な形を与えるようなことなんです。つまり、昇火士という立場の人間が言ってはいけないような内容なんですね。もちろん、本を否定してはいるのですが、取ってつけたように否定しているというか。

思うんですけど、ベイティーは実はモンターグになりたかった人だったのではないかと。

本当は本を焼きたくはなくて、本の読める社会にしたい。でも、それを諦めてしまって、その思いをモンターグに託したのではないかと。

モンターグは逃げるためにベイティーを焼き殺してしまうのですが、後になってモンターグは、ベイティーが自分に焼き殺させようとしたのではないか、と気付くんです。

ベイティーはこの世界に絶望し、そしてモンターグを逃すために焼き殺させたのではないかと。

ひいてはベイティーはモンターグのように逃げて、本をつなげていきたかったのではないかと、思うのです。


 

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