azzurriのショッピングレビュー

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僕が買ったもの、観に行った映画・ライヴなど、要は金を払ったものに対して言いたい放題感想を言わせてもらおうというブログです。オチとかはないです。※ネタバレありまくりなので、注意!

「われら」(ザミャーチン)の読書感想。実はタイトルからして怖い!

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ディストピア小説が好きです。

1984」とか「華氏451度」とかの定番を色々読んだんですけど、これも抑えておきたい作品です!

はい、「われら」!

この小説も極度に管理された社会を描いてて、全体主義は怖いぞー、という作品なんですが(ざっくり)、先ずこの「われら」というタイトルが怖いです。

なぜ「われら」か。

この作品の世界「単一国」には一人称単数は基本ないんですねー。常に自らを呼称する時は一人称複数です。だから「われら」。

なぜか?

この社会に「個」はないからです。常に全体の一部であることを求められてるからです。怖いですねー。

なぜ怖いか?

個人の権利や都合なんてのはまるで考えられてないからです。言ってみれば国民全体で一つの生命体。だから、宇宙船作ってる時の事故で何人か亡くなっても、気にされないんです。ふーん、てなもんで。怖くないですか?(^^;;

だから「われら」が存続すれば、「わたし」なんて要らないんです。そういう社会をこの作品は描いてるんですねー。

そんな感じの小説なのですが、非常に面白かったです。
僕が面白いと感じた点は以下の三つですかね。

『人称』の問題が上手い。

先ず小説の形式が主人公の「手記」である点が上手いと思います。

三浦しおんは「この文章は一体どういう状況で書かれたものか」という疑問符は小説を書く上で宿命的について回る問題だ、と言っていた記事を読んだことがあるんですけど、確かにそうだと思ったことがあって。

なぜなら、一人称で語りかけてくる小説あるじゃないですか? 当たり前のように読者に語りかけてくるの。あれ、どういう状況ですかね? 喫茶店で一緒にお茶飲んでるわけでもなく、手紙というわけでもない。そもそも俺、お前知らないし。何でしょうね、あれ?(^^;; よくよく考えたら不自然なんです。

ところが、この作品は「会ったことのない、でも会うであろう人」への手記として書かれています。こういう形式を取れば不自然感はかなり払拭できて、上手いやり方だなぁ、と読んでて思いました。

あしながおじさん」も割と似てますが、あれは手紙で特定の人宛てに書かれたものなので、どうしてもせせこましい感じは否めない。しかし、不特定多数の人に読まれることを前提としての手記ならば、情景描写もするだろうし、心情も綴る。せせこましい感じもぐっと広がる感じがするんですよね。

ディストピアはある種の理想郷?

この「単一国」の街作りなのですが、自然から人間の領分を切り離す、という典型的なヨーロッパの城塞都市の考え方に則ったものとなっております。

ディストピア小説と言いながら、この街の感じが結構良くてですね。基本建物に使われている素材は極度に硬質化されたガラスなんですね。ガラスで出来た街ってのがすごくクリアで清潔でお洒落な感じがして。そのシンプルで硬質なデザイン感がカッコいいなぁと。だけど、全面ガラス張りなんでプライベートなんてないんですが(^^;;

そんでまた、様々な災害を通した日本人の目からすると、自然とは最早敵でしかなく、人間の生活から自然を徹底排除することはある種の理想郷として映ってしまうんですね。

恐ろしい自然から切り離されて生活したい。たまにはそんな風に思ってしまいます。

ディストピア小説は、文明という点では極度に進化した社会を描いている場合が多く、時に人間の理想郷をも描いている側面があるのが面白いところだと思います。

地味にスリリングな展開

そんな風に徹底管理された社会が舞台なんですけど、当然恋愛や性行為も徹底管理されています。

先ず恋愛という感情がない。もうそういう社会倫理になってしまってるんですね。そして性行為は希望した相手との性行為許可カードみたいのを発行してもらって、15分で済ませるという…すごいですね(^^;; 当然勝手な出産も禁じられています。

ところが、主人公の心を乱す女性が登場して、この社会に「恋愛」という風穴が空いてしまいます。そして徐々に革命への機運が高まって行くところがスリリングでした。

なぜかと言うに、この女性が敵か味方かよくわからんのです。何を考えているのかわからない、美しくはあるけど非常に不気味な存在として描いているんですね。

だから、主人公もずーっと抗うんですが、彼女の魅力には抗いきれなくて、その綱引きがスリリングなんです。でも主人公にどんどんどんどん恋愛感情が芽生えていくんですね。二歩進んで一歩下がるみたいにして。どんどん「われら」から「わたし」になっていくんです。

そして物語終盤、革命は成功しそうに見えるんだけど、最後の最後で主人公は思想手術というべきものを施されてしまって、まぁ明記はしてないけど、おそらく失敗に終わる。

ここらへんは「1984」と割と似ていて、どうしてもディストピア小説は最後は体制側の勝利に終わらせないといけない、というような不文律があるように思われます。その方がより読者に鮮烈な恐怖や嫌悪感を与えられるからでしょうか。

でも、「1984」でもそうだったんですけど、この小説にも逃げ道はあって、主人公の子供を妊娠した女性が出てくるんですけど、彼女は「緑の壁」の外へ逃げたんです。

単一国の壁の外には街に入れなかった人たちが暮らしていて、そこはすごく自然が豊かなところで、彼女はその自然の中で獣人たちと共に主人公との子供を育てるのかなー、って思います。

そこが一つ、「単一国」の中のイレギュラーであり、ほころびで、この先まだわからないぞっていう要素かなー、って思います。

ちなみに「緑の壁」の外の世界に住んでる人は獣人です。そこは後の日本のアニメを先取りしているような感じで、この作品が書かれたのは1920年らしいんですけど、その時代にこの想像力はすごいですよね。

 

 

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