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僕が買ったもの、観に行った映画・ライヴなど、要は金を払ったものに対して言いたい放題感想を言わせてもらおうというブログです。オチとかはないです。※ネタバレありまくりなので、注意!

「鬼滅の刃」第二十巻ネタバレ有り感想。少年漫画に一人称小説を持ち込む!!



鬼滅の刃」全巻感想、遂に大台に乗りましたー!

20!

20巻ですよ!

マイルストーンとしては、最大のものではないですかね。

いやー、長かった。全23巻だから、もうあとちょっと。ラストスパートといったところですね。

でも、読み始めてから一年経ったけど、まだ読み終わってないw

で、20巻なんですけど、先ず表紙がね…誰か?とw

風貌からするに、始まりの呼吸の人ですね。炭治郎と同じピアスしてますね(その当時、ピアスという文化があったかどうかは不問にしましょう)。

この人、今回鬼殺隊が対する上弦第1位の鬼・巌勝の弟、縁壱といいます。そりゃわからないはずです。だって、この巻が初登場なのですから。

というわけで、今巻もね、非常に読み応えのある巻でしたね。特に後半! なんかね、もう小説読んでるみたいでしたね。つーか、作りとしては小説ですね。一人称小説。

だから、前半はバトルマンガで後半はビジュアル的な一人称小説とでもいうような、非常に贅沢な作りの巻となっているかもしれません。

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文化の継承、人との繋がり

この巻では、いきなり悲鳴嶼さんと1位の鬼との間でお互いの思想のぶつかり合いがあります。で、これは煉獄さんと猗窩座との間で交わされた問答と本質的には同じだと思います。

ものすごく平たく言えば、個にこだわるのか、それとも人との繋がりを大事にするのか、ってことだと思うんです。

なんでこの問答をもう一度やり直すか、って言うと、後に出てくる1位の鬼のドラマに繋がって来るからだと思います。

1位の鬼にはやはり弟がいたんですね。それで、弟とは考え方がまるで逆だったんです。己が特別だと信じる、もしくはそうなりたい兄と、(天才なのに)自分を特別とは考えず、次の世代への継承を信じる弟。

ここに繋がってくるから、もう一度おさらいという意味で悲鳴嶼さんと1位の鬼に討論させたのだと思います。

弟や、煉獄さんや悲鳴嶼さんら柱の主張は、文化の継承と言ってもいいかもしれませんし、人との繋がりであると言っていいかもしれません。

で、もっと言ってしまうとこの作品では「人との繋がり=血の繋がり」でもあるんですね。

この作品に出てくる登場人物が抱える人との繋がりの問題はほぼ全て血縁関係にあります。

それは社会的「生物」としての人間を、より象徴的に表しているのかもしれません。

多分この作品で最も言いたいことは、社会が大事だよ、人との繋がりが大事だよ、ということなのかもしれません。そのことを言いたいがために、そうした考えとは真逆の存在である鬼を考えだしたのでは、とすら思ってしまいます。

だから、兄と弟の違いは、言ってみればこんな感じかもしれません。

兄→単独行動の生物
弟→群れを作る生物

考え方が真逆だから、兄は鬼となって弟と袂を分かち、そして時が経ってこうして鬼殺隊と戦っている。

一方弟の思想は、煉獄さんや悲鳴嶼さんら柱の思想と酷似している、というよりそのものだと思います。つまり、弟の願い通り、文化として受け継がれているんですね。

後に出てくる1位の鬼の兄弟の悲劇は、この思想の違いによるものだと思います。なんでそんなことになってしまったか、と言ったら、いわば「神様のちょっとしたボタンのかけ違い」だと思うんです。

弟は、とんでもない剣の天才なんですね。一方兄は、それなりの才に恵まれたものの、天才ではない。

これが逆だったら、何の問題もなかったと思うんですよ。

兄が己にこだわるようになったのは、弟よりも剣の才で劣っていたからだと思うんです。

元々、兄は弟想いの子だったと思うんです。そうでなければ、弟のために笛なんて作りませんよ。笛ですよ? 笛。作るのめちゃめちゃめんどくさいじゃないですか。

だから、兄の方も元々は「人との繋がり」を大事にするような子だったんです。

でも、弟に自分がなりたいものに成られてしまった。この嫉妬心たるや相当なものでしょう。

そうなってくると視野狭窄というか、周りが見えなくなっちゃうと思うんですよね。だから己の鍛錬にこだわるようになってしまうし、弟を憎んでしまう。

しかもこの弟、兄が大事にするものをことごとく否定していくんですね。兄が日本一の侍になりたいと願えば、弟は剣技にはまるで関心がない。むしろ嫌いだったりします。

兄が、自分たちの世代は特別だ、と言うと、弟は、今に我々よりも優れた剣士が出てくる、と言う。

とにかくこの弟は、兄の嫉妬心というか、神経を逆撫でするというかw そういう、兄の嫉妬心を照射するために様々な要素が与えられているようにすら思えます。

でももし、兄に天賦の才があったらどうだったでしょう?

おそらく、十になったら寺へ出される弟を家に呼び戻し、母の遺言にあったように分け隔てなく育っていくことを願い出たかもしれません。だって、嫉妬なんてしていないんですから。

先に言っちゃうけど、このお兄さん、本当は弟のことが大好きだったんですから。

だから、「神様のちょっとしたボタンのかけ違い」が全ての元凶だと思うんです。そして、その「神様」というのは吾峠呼世晴なんですけどねw

弟や、柱たちの考えを照射させるために、兄を個に生き、己にこだわる性格にさせたのではないでしょうか。

世代間闘争

あと、なんとなく世代間闘争とも見て取れるかな、と。

兄は、自分たちの技術は下の者には伝わらない、と嘆きます。更に、腹の中では自分たちの世代こそ最高だ、とも思っています。

これって、何やら勝ち逃げを決めた今の引退世代に通じるようなところがあります。

一方、弟は、我々はそう特別な存在ではない、と言い放ちます。天才なのに。そして、今こうしている間にも、我々より優れた者が産声を上げている、と言います。

これは下の世代にもチャンスを与え、期待し、育てようということなのかな、と思います。

勝ち逃げ世代は、努力を怠り、氷河期世代とかいうものを作り出してしまいました。自分たちは特別だった、後の世代のことは自分たちには関係ない、そういう意識もあったと思います。

そういった、批判めいたものも、透けて見えるような気がするのですが、どうでしょう?

バトルが凄惨

炭治郎は戦いの中で「透明な世界」を手に入れたのですが、それはこの1位の鬼のものだったんですね。

しかも、1位の鬼の弟が(おそらく)最初に見た世界でもありました。

それを炭治郎は日の神神楽として父から受け継ぎました。

また今巻では、他の柱たちも急速にその域に達しました。

こうして連面と技術が受け継がれてきたのですね。このように、とにかくこの漫画では、「引き継がれる」ことを至上としているように思います。

そして、強さを極めると、最後に待っていたのは自分だった、ということなのでしょう。1位の鬼はその象徴でもあるのですね。

で、今巻のバトルは壮絶。凄惨と言ってもいいでしょう。無一郎と玄弥は体をズタズタに引き裂かれてしまいます。言ってしまうと、非常に残酷な展開ですね。更に言ってしまうと、こういう展開はあまり好きではありません。

ただ、今回のバトルの中には面白いな、と思う展開もあって。炭治郎が玄弥に「一番弱い人が一番可能性を持っているんだよ」と教えるシーン。

強い人はもちろん警戒されますが、その一方で弱い人には警戒が緩むというのです。で、その警戒の弱さをかいくぐることができれば、逆に大きなチャンス、流れを一気に変えられるというのです。

なるほどなー、と。そういえば、野茂って結構並み居るメジャーの強打者を抑えてきたのですが、下位打線に一発を浴びるシーンを割とよく見ました。

松坂も、イチローを抑えた後は、割と後続に打たれてたりしました。

やはり、全員同じように警戒する、ってのは無理なんですね。弱者にこそ状況を変えられるチャンスがあり、弱者には弱者なりの戦い方がある。なるほどなぁ、と膝を打ってしまいました。

こうして、仲間からの助言があるのも、鬼と人の違うところでしょう。この助言というのも、一つの「文化の継承」と言っていいかもしれません。

それから、玄弥が鬼の力を取り込むのが面白いですね。グレンラガンを思い出してしまいましたw

敵の、異形の力を取り込むことで強くなり、それを生かす、というのはカッコいいですよね。何より力強いし、頼りになりそう。仮面ライダーもそうでした。元はショッカーの改造人間ですからね。

ある意味エヴァンゲリオンもそうですよね。あれ、確か拾った使途だし。デビルマンなんかも、考えようによっては、そうかもしれないですね。悪魔が人間の側につく、という。

後半は一人称小説

最後に、1位の鬼は自壊のような形で消えていきます。心が折れた、というか。

それは自分の姿を見たからでした。

まぁ正直、見た目かよ、と思ってしまいましたが、形や見た目から入る日本人ならでは感性、とも言えるかもしれません。

また、女性作家ならではとも言えると思います。女性は男性以上に見た目を重視すると思うからです。それは異性に対してだけではなく、同性、そして自分にも向けられているように思います。だから、女性はオシャレなんですねw

センスが良いとか悪いとかは別として、女の人って年齢を重ねても、着る服とかにこだわるじゃないですか。でも、おっさんって、もう、ひどいですよねw ホントは服着るのめんどくさくて嫌だけど捕まっちゃうから布巻いときゃいいんだろ?っていう思想が透けて見えるくらいひどいw

話を戻すと、そうやって自分の姿を見て自壊したのは、鬼となっても人の心があったからかもしれません。これは悲鳴嶼さんの言う、鬼は元は人だったもの、というセリフにも表れているように思います。そしてそれは、実は1位の鬼の言葉の、しかも弟に向けられた言葉の端々に見て取ることができました。

余談なんですが、自壊した鬼の姿は、どこかサモトラケのニケを思い起こさせました。また、無一郎が刺したのは左の脇腹、だから、崩れていくとき、左の脇腹も崩れています。鬼の母が悪かった箇所も左の脇腹。どこか、ロンギヌスの槍を思い起こさせます。

これは、何を表しているのかはわかりませんが、宗教的なことよりは、なんとなく、エヴァンゲリオンへのオマージュなのかな、と思ってしまいます。

で、ここから1位の鬼の回想になるのですが、まー、兄サゲ弟アゲの極みw まぁ、これはねー、日本エンタメの基本ですから仕方ないのですが、またかよ!って苦笑を禁じえませんでした…(苦笑)

主役の炭治郎は長男だったのでね、「長男だから耐えられた!」とかいう(笑える)台詞もあったりして、その時は「お!」と思ったんですけどねぇ…。吾峠呼世晴、お前もか!って、思ってしまいました。

そんな感じでね、兄サゲ弟アゲの典型的な展開にやや辟易とはしたんですが、面白かったです。しかも非常に!

というのも、ほとんど小説になっていたからです。一人称小説で、描写は絵でまかなう。語り手のモノローグが延々と続く。簡潔に、しかも自身の内面を赤裸々に綴る文章は非常に上手いと思いますし、文学的だし、迫力すらある。

思うに、文学的とは孤独な心を書き留めたものなのかな、って思います。誰に向かって喋ってるんだ?という感じも、一人称小説的ですよね。

で、この語りがですね、非常に文学的で。1位の鬼の、孤独な内面を吐露しているんですね。彼は多分、ずっと一人だったんです。なんせ、個に生きる男でしたから。

で、ですねー、なんというかですねー、この小説的モノローグがですね、色々と考えさせられます。どう感じていいのか、どう考えていいのか、どう思えばいいのか、っていうのがですねー、なかなか難しいといいますか。

でもちょっと、拙いながらも、ちょっと思ったことを書き連ねてみます。

兄である1位の鬼は、常に優秀な弟と自分とを比較して、悩み、自分を追いつめ、最後は鬼舞辻に魅入られてしまった。

その、弟に対する恨みつらみ憎しみは、あまりに一途で、それは恋愛にも等しいものでした。そう、言ってみれば、恋い焦がれていたんです。

兄は、お前になりたかった、と言います。

これって、恋愛ですよね。好きでもない人との同一化なんて、誰がしたいでしょうか。

兄はずっと弟のことが好きだったんです。

剣を振るうより、兄上と双六がしたい、という弟をどうして嫌いになれましょうか。

物置のような部屋に押し込まれた弟に、父の目を盗んで、手作りの笛を持って、遊びに行くわけないですよ、本当に嫌いだったら。

憎んだ、というのも、好きだったからですよ。どうでも良かったら、憎むこともできません。

何より、形見の笛を四百年も懐に入れていたのですから。

ただ一つ、本当に憎かったのは、弟が自分よりも母を気遣うことができていた、ということでしょう。


 

 

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「鬼滅の刃」第十九巻ネタバレ有り感想。ドラマのあるバトルシーン!!


鬼滅の刃」全巻感想というこのマラソン企画。遂に、第19巻まで辿り着きました!

19というと、もうほとんど20ですね。つまり、ほとんど20巻まで読んだことになります!(←)

そんな19巻なんですけどもね(どんな?)、今回もまた、なかなかの展開で。非常に読み応えありましたねー。

ここに来てちょっとね、物語上の疑問点も少し、浮かんで参りまして。ひょっとして伏線なんじゃ…?という感じで。まぁ、ほんのりと、ですけども。

いよいよもってこの続き、全23巻ですから、ラストスパートまでが気になります。

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三人の勝利

先ずこの巻では、はじめに上弦第二位との鬼の決着編となるわけですが、この倒し方がね、まさかまさかの大意表を突くもので(頭の良い人なら、かなり前から気づいていたかもしれませんが)。

ほぼ決定打となったのは、毒ですね。例の、鬼が苦手とする藤の花の毒。

これをですねー、どうやって服用させるかというと、しのぶさんです。何を言ってるのやら、という感じですが読んだ人なら納得でしょう。

高濃度の毒の塊(なんでも、鬼の致死量の70倍…、いや700倍の毒だそうです)となったしのぶさん自身を鬼に喰わせる、ということだったんです! いやー、この展開は驚いた。

だから、17巻でしのぶさんが喰われた時、我々読者は沈痛の思いだったのですが、その実、それはしのぶさんの作戦が成功した瞬間でもあったわけです。

これは作戦ですから、カナヲは知ってて戦っていたわけですね。なんというか、やるせない思いになってしまいます。

それで、作戦通り毒は功を奏するのですが、その毒が効いた時のコマがですね、怖いんです。

要は、鬼の顔が溶けて、眼球が落ちるんですけど、眼球が落ちてブランブランしてるもんですから、後ろの景色が見えちゃうんですね。だから、コマが斜めに分割されて、右は正面、左は後ろの景色が写っています。

しかもこれ、ページめくる前の左下の小さなコマなんですよ。そこにさりげなくね、描いてあった。読んでて、「あれ?」って思ったんですけど、ページめくると童磨の顔が溶けているというね。そこでわかるんです。あぁ、そういうことか、と。これは怖かったですよ。

でも、相手は上弦第二位の相手ですから、それでもなかなか倒せないんです。でも、なんとか倒します。カナヲは極限まで鍛え上げた目で動きを見切り(そのせいで片目を失明してしまいます)、伊之助は刃こぼれ刀を投げて、そのギザギザが最後カナヲの刀を「押す」ことで、鬼の首を斬ることに成功します。この連携の演出が素晴らしかったですね。

しのぶとカナヲだけではこの鬼を倒すことはできなかったでしょう。伊之助の助力がなければ倒せなかったと思います。だから、サブタイトルは「三人の白星」。

ここで「金星」としなかったのがポイントですよね。実力的に言えば金星かもしれないけど、三人が合わされば不可能ではない、それは当たり前の白星となる、というか。

回想でのしのぶの台詞が伏線になっていましたね。上弦の鬼は柱三人に匹敵するっていう。まさに「三人」の白星でした。

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上弦第一位はチート

そしてこの巻での壮絶なバトルと言えば、いよいよ上弦第一位が出てくることですよね。

無一郎、玄弥、実弥、悲鳴嶼さんが次々と挑んでいきます。しかし、無一郎、実弥は、その実力を認められはするものの一太刀も入れることができません。玄弥の奇襲も失敗してしまいます。しかし、悲鳴嶼さんが一太刀入れます。さすが、最強とも目される柱!

そうなんです。めちゃくちゃ強いんですよ、この上弦第一位。それもそのはず、この鬼、実は始まりの呼吸の人だったんですよね。それがどういうわけか鬼となってしまっていて。だから、鬼のくせに呼吸を使うんです。ただでさえバケモノなのにそれが呼吸使うってんだから、そりゃバカ強いはずです! チートと言われても反論する権利はないですよ、この鬼。

バトルはホント、壮絶で、無一郎はいきない腕を一本切り落とされてしまいます。この展開は衝撃的でしたね。もうなんか、ホント、無一郎のカラスじゃないけど、誰か助けてー!って読んでて思う、マジで。で、まぁ助けには来てくれるんですけども…。

ちなみに、無一郎が何もできなかったのは、天才ゆえということだったみたいですね。実弥曰く、経験がないと一位の鬼の攻撃は避けられないそう。無一郎は天才なので、経験を積まずに柱へと昇り詰めました。その才が、今回は徒となってしまったようです。

こういう展開も面白いですよね。細かいながらも、よく練られてんなぁ、って思います。逆に、こういう細かい丁寧さが、全体の面白さに繋がってくるんですよね。

それにしても悲鳴嶼さん強ぇw この巻最後の話はほとんど、悲鳴嶼さん無双の回、って感じでしたよね。第1位の上弦すら刮目する強さを見せつけます。

そんな感じで、この巻は全編バトルシーンと言ってもいいくらいだったんですけど、こういうバトルシーンが目白押しなのはいかにもジャンプ的演出ですね。

ただバトルの見せ方がね、グッと来るんですよね。

ドラマのあるバトルシーン

戦いの最中に、ちょいちょい回想シーンを絡めるんですよね。それがね、すごいグッと来て、バトルにこう、グッと引き込まれる最大の要因だと思います(擬態語ばかりでごめんなさいね)。

バトルシーンと回想シーンとのカットバックが、より感情的なバトルとなるんですね。こうすることでバトルにもドラマが生まれるのだと思います。だから、バトルも含めてのドラマというか。

「ワンピース」なんかでも、回想シーンがすごくグッとくるけど、「鬼滅の刃」の19巻の場合は、それをカットバックで使ってくるんですね。

だから、同じ一太刀でも、そこに想いを感じるというか、見ているこっちも、その一太刀一太刀にグッと、こう、気持ちを乗せてしまうというか。一太刀打つと、回想シーンが入り、回想が明けると、また一太刀打つ。

あぁ、彼女の、彼の一振りは、そんな想いがあっての一太刀なんだなぁ、と思えるわけです。だもんだから、こっちも、読んでて熱がこもってしまうんですよね。

童磨とカナヲ

童磨は結局、今際の際でも、何も感じることができませんでした。

しかし童磨は、最初から何も感じなかったのでしょうか?

童磨と最後に対決したのはカナヲでした。カナヲもまた、感情の起伏が少ない子です。しのぶのお姉さんが童磨にやられた時も、泣けなかったという描写がありました。

そしてその感情の起伏が少ない原因は、泣くと大人から暴力を受けてしまうからだそうです。カナヲは何かを感じることを制限することで、生き延びてきたんですね。つまり、感情を持つことを捨てた、もしくは諦めた子だったのだと思います。

童磨は生まれた時から感情がなかった、ということは書いていませんでした。逆に、昔は感情があった、という描写もなかったのですが。

そして童磨の家庭は、かなり殺伐としたものだったことが童磨の回想で語られています。ひょっとしたら童磨も、もっと幼い頃、ひょっとしたら物心つく前に、何かを感じるのを諦めた子だったのかもしれません。

童磨の最後の相手は、なぜカナヲでないといけなかったのか。多分、二人は似てたから、というような気がしてしまいます。同じものの表と裏というか。

カナヲはしのぶたちに拾われた。一方、童磨は鬼舞辻に拾われてしまったのです。

童磨が何かを感じるのをやめたのが物心つく前だとしたら、回想できません。回想シーンが描けないんですね。だから、カナヲに照射させることによって、童磨の過去をあぶり出そうとしたのかな、なんて思ってしまいます。

あと、童磨はやたらと女を喰ったらしいのですが、なぜなのかな、と。それは女好きだった父親の血がそうさせるのか、それとも母親との間に何かあったのか。童磨が女をやたらと好んで喰っていたのは、何か理由があるような気がしてなりません。もちろん、以前の巻で「女性は栄養がある」的なことを言っていましたが、それだけなのかなー?と思ってしまいます。

作者の考えは悪役から語られる

また、やはりこの作品世界では天国と地獄があるようですね。

童磨が「天国も地獄もない」というのは前フリで、童磨が死んだ時、しのぶと会っています。そして、しのぶは天国で姉、そして両親と再会します。

ただ、やはり作者・吾峠呼世晴の考え方としは、童磨から語られた「天国も地獄もない」という話だと思います。

それにより、この世の理不尽というか、やるせない思いを吐露しているというか。そういうものを作らなければ人は生きていけない、というのが作者の本心なのでしょう。

作者の本音は多く、悪役から語られると思います。

その一方で、この作品世界の設定は、作者・吾峠呼世晴の願いでもあるような気がします。

だから、童磨の「天国も地獄もない」という話を伊之助が一喝して打ち消してくれたのだと思います。伊之助は作者の願いなのかもしれません。

その他雑感

表情の表現

表情の表現が相変わらず素晴らしいですね。今巻ではしのぶがカナヲに、とどめを刺すように言うシーンの、なんとも言えない、希望のような、それでいて哀しいような、そういう微妙な表情が、ホントに素晴らしい。

甘露寺蜜梨は楽しい

今巻では、上弦2位、そして1位の他に、第4位との対戦があります。しかし、まだそれほど大きく展開せず、ほんの序盤が描かれたにすぎませんでした。

上弦第4位の鬼と相対するのは、我らが甘露寺蜜梨と蛇の人。

ただ、なんというか…この巻ではちょっと面白い雰囲気になっていますw

壮絶なバトルに挟まれているので、ちょっとした箸休めといったところなのでしょう。ただし、そこは「鬼滅の刃」。油断はできません。

一位の上弦には兄弟がいるのか

玄弥のピンチのところを、実弥が助けに来ます。そして、一位の鬼は兄弟で戦う二人のことを「懐かしい」と称します。

彼にも誰か、兄弟がいるのでしょうか。そして、その兄弟とはどうなったのでしょうか。

鬼殺隊は鬼になるのか?

そしてこの上弦第1位の鬼。さっきも申しましたが、元は鬼殺隊(違うかもしれないが)でありながら鬼へと転んでしまった人です。

善逸の兄弟子も、鬼殺隊でありながら、鬼となってしまいました。

ジェダイもそうですが、やはり強さを求めてしまう人は、ダークサイドに落ちてしまうのでしょうか。

或いは、鬼と鬼殺隊は、何か親和性があるのでしょうか。

或いは、一位の鬼が無一郎の痣を見て、何やら思うところがあるらしいのですが、痣と鬼とは何か関係があるのでしょうか。

このエピソードになってからの、鬼殺隊側からの鬼へと転んでしまう人がもう二人。何かありそうな気がしますが、どうなんでしょうか。


 

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「ドライブ・マイ・カー」所収『女のいない男たち』ネタバレ有り読書感想。村上春樹のコンセプトアルバム!!

村上春樹の短編集が好きです。何冊か読んだんですけど、長編よりも好きかもしれません。

で、そんな村上春樹の短編集の中でも、特に好きなものの一つが、この「女のいない男たち」です。タイトルがまたいいですよねw

そしてこの短編集、一言で言ってしまうと、テーマは「コンセプトアルバム」です。これは前書きにも書いてあることなので、かなり意識的にそうやって作ったのでしょう。

それぞれの短編に、共通項がいくつも張り巡らされていて、全体を通して読むと非常に統一的であります。読んでる最中も、所収の他の作品のことを思い出してしまったり。

それでいて、作風はそれぞれ違うという。非常に面白い作りになっていると思います。

「言い訳がましいことは書きたくない」という、あいかわらずの言い訳がましい前書きの後から、本編は始まります。

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ドライブ・マイ・カー

映画化されて、それがかなり話題になってますね。

然もありなん、な女性ドライバー評から始まるのですが、大丈夫なんでしょうか、今これ?w 結構なミソジニー感な印象がなくはない。

そして、主人公の車についての描写が冒頭しばらく続きます。それはそのまま女性についての描写のようで。古くはロックンロールで車がモチーフとして使われる時、それは女の象徴であったらしいですね。そして、そんな自分の車をどこか亡き妻と重ねてるようなところがあります。

主人公・家福が免停を食らってしまい、車を使わないと仕事(俳優)ができないということで、ドライバーを雇うことから物語は本格的に始まります。

で、さっきも言ったように、この家福、妻を亡くしています。このことが物語の大きなキーとなるのですが、妻が存命の頃は専ら家福が運転していました。助手席には妻を乗せて。

しかし運転手を雇ったので、今は家福がその助手席に座っています。運転席にはもちろん運転手が座っています。しかも女性。しかも若い。しかも一つも可愛げがない。しかし巨乳。

状況がまぁ、真逆と言っていいくらいに変わってるんですね。この、まぁ、言ってみれば新鮮な状況が、気分転換的といいますか、そんな状況が家福に昔語りをさせた小道具というか。主人公に告白させるのに自然な状況作りなような気がします。

そしてこの「みさき」という若い女性ドライバーが巨乳ってのが、主人公の壮年めいた渋さとは裏腹の幼児性というか、男が終生持ち続ける特性を表しているようで、情けなくていいですね。

で、この家福、非常な後悔といいますか、疑問といいますか、そういうものを胸に抱えておりまして。

生前の妻が浮気してたんですね。

なんでだろう、と。もちろん、もうその答えはわかりようがないんですが、それがまた後悔や疑問に拍車をかけているようです。

そして、妻が浮気をするようになったのは、産まれたばかりの子供を数時間で失ってしまったことと関係があるのでは、と家福は思っています。

でも、その前に仕事の面で(妻は女優。しかもスター)、どうも年齢と共に夫の方が妻を逆転したことも、少なからず関係があるように、読んでて思いました。

それで、この子供というのが、生きていたらみさきと同じ年齢なんですね。そのことも、家福が自分語りをした大きな理由なのではないかと。娘の代わりというか。娘って、母親の分身的なところあるじゃないですか。だから、娘を通して、妻に語りかけると言うか、そういうところもあったような気がします。

それでドライブ中に二人の話の中で、家福に友人がいないように見える、という話題から唯一の友人らしき人物、高槻の話になります。ここからが話の本題中の本題と言いますか。

この高槻というのが家福の妻の浮気相手の一人(複数いたそうです)だったのです。だら、家福は高槻に近づいたんですね。

もちろん、そのことを高槻は言わないし、家福も知らないふりをする。

そしてこの高槻も役者なんですね。割と二枚目の俳優らしくて。でも、まぁ大根役者で。だから名優と誉れ高い家福とは色んな意味で真逆ですね。そしておそらく、この高槻は人間的にも、家福とは丁度真逆なんだと思います。全然人を疑うということを知らない感じで。

だから、「友人」に成り得たのかもしれません。

それで、この高槻が大根役者ってのが効いているんですね。芝居をさせないためなんです。大根役者で嘘を吐けないから、家福に言った言葉が本当に聞こえるんです。

高槻は、家福にとっては一つ救いとなるようなことを話すんですね。そして、その言葉は、やはり本当でなくてはいけない。だから、高槻は大根役者でないといけないんです。

一方、家福は名優である故に、実に上手く嘘をつけてしまうんです。これが逆に、高槻の言葉が本当である、ということの一つの証というか、そういうものになっているような気がします。

妻が浮気してた時も、本当は知ってたんだけど、実に上手く嘘をつき通したんです。全然知らない、っていう風に。なんせ家福は名優ですからね。

でも、本当にそうだったのでしょうか?

本当は妻は家福の嘘を見抜いていたのではないでしょうか。なんせ、女の人は鋭いですからね。直感的なところは動物的ですらある。そういった意味で、女性の方が野性に近いのかもしれません。

話を戻すと、その高槻の言葉で、家福と高槻は初めて「繋がった」のかもしれません。そして「繋がった」が故に家福は高槻に会うことをやめたのでしょう。

家福は本当は高槻に復讐しようとしていたんですね。そしてそんな自分を恥じたのかもしれない。そういう復讐心を抱えていたわけだから、「友達になってしまった」瞬間、それは高槻を「裏切ってしまった」ことになってしまうわけで。

だからもう会えなくなってしまったのかもしれない。

それで、家福があれこれ悩んで考えたことをですね、24の小娘がさらりと一言で言い当ててしまうんですね。多分言い当ててると思うんです。

こういうところ、女性というのは経験ではなく、本能で生きているようなところがある気がします。生まれながらに女は女というか。壮年の男が小娘にコロッと負けてしまう。

男って、立派な男を女性は好きになるであろう、という前提で生きるところあると思いますが、案外そうではないのかもしれないし、そうではないなぁ、ということに直面することもままあったりします。

現代日本の女性って、但しイケメンに限る、とか、年収600万以下はモブとか、色々言ってますが、その実、やはりそんな基準では男を見ていないのかもしれません。

そういう事例は、結構見ます。

それで、この作品は後に掲載されている「木野」という作品と対を成しているように思うんです。

妻を失い、悲しみと向き合おうとしなかった、残された男というか。

二つの作品の男に共通するのはそういう心情を隠すのが異常に上手いということだと思います。

浮気されて悲しい、捨てられて悲しい。そういう気持ちを隠すのが非常に上手くあってしまったというか。

しかも、こちらの主人公はプロの役者です。しかもかなり上手い部類の役者という設定です。

そこが仇となってしまったのかもしれないのかなと。良かれと思ってやったことが仇となった。そんな風に感じました。

でも、こちらの主人公の方が、悲しみに対しては攻めというか、妻がなぜ浮気していたのか、もう答えがわからなくなってしまった問いに対して、積極的に向き合おうとしている感じがします。

エスタデイ

この短編集の第一話が「ドライブ・マイ・カー」で、第二話が「イエスタデイ」。

ここまでの流れは完全にビートルズ

完璧な標準語を操る関西人で早大生の主人公・谷村と、完璧な大阪弁を操る東京人で二浪生の友人・木樽。

対照的な二人が「友達らしきもの」になるという設定は「ドライブ・マイ・カー」を思い出させます。

序盤はこの二人の織りなす奇妙でおかしみのある関係性と、モラトリアムにして、それでいてどこか楽しげな学生生活(というよりバイト生活)が描かれます。

しかし、木樽の「俺の彼女と付き合うてくれ」という奇妙極まりない提案が成され、さてどうなるか、という話です。僕これ、この短編集の中で一番好きですね。

それぞれの登場人物がすれ違いきっている寂しい話なのですが、この年代特有の瑞々しさみたいなものを描き切っていると思います。そういう感じが、すごい好きですね。

で、この木樽という男。その強烈なキャラクターから質実剛健的な強い男、かと思われたら、実は繊細で弱い人間であろうことが徐々に語られていきます。

一方、木樽の彼女(えりか)はもう強い女の象徴というか、まぁ猛牛みたいなところがあります。猪かなw 猪突猛進的な。

強度という点では木樽とは本当に対照的で、普遍的な男女の形が一つの象徴となっていて、面白いですね。

えりかは今で言う意識高い系女子なんでしょうね。現状にもがきつつも、どこか力の抜けている谷村とも対照的。この谷村とのデートのシーンは余計にえりかの強さを引きたたせます。

その一方で、木樽と彼女のやり取りが熟年のおしどり夫婦のようで、そこは幼馴染の恋人同士という雰囲気が上手く出せていると思います。時間という大きな要素というか。そんな二人の関係性もさもありなんといった感じ。

だけど、男の方は彼女をもはや親族的な視点でしか見れなくなってしまっています。対して、女の方は肉食なんですね。もう、ガッツリ男として見ている。ここらへんも対照的です。

男ってそういうところありますよね。仲良くなり過ぎちゃうと、相手を恋愛の対象として見ることが難しくなってしまうというか。変に大事に思うようになっちゃうんでしょうね。ある意味、恋愛の対象として見るよりも大事な存在になってしまうというか。

そうかと思うと、お互いに「違う世界を見てみたい」と思ってるところは共通していたりするんです。この根本的な志向性というか、そういうものが非常に似ている。だからこそ、二人は全く対照的な存在ながら、お互いを大切な存在、それはもう一番に大切な存在として認識しているのでしょう。

だけど、ここがまた男と女で違います。男は観念的で家に閉じこもっているのに対し、女は外に出てさっさと行動してしまっている。

ここらへんの関係性も、大学に受かった彼女と、落ち続けている男、という設定がそこらへんを象徴していてわかりやすい。

ところが唐突に木樽が物語から姿を消します。突然バイトを辞めてしまうんですね。谷村とも音信不通となってしまって。以降、谷村は木樽ともえりかとも会うことはなくなります。

そして舞台は16年後。えりかと谷村はワインの試飲会で偶然にも再会します。これ以降の二人の会話がまー、読んでるこっちが恥ずかしくなるくらいオシャレにしようとしていて、逆に笑えてしまうのですがw

案の定、えりかと木樽は別れてしまっていました。おまけに木樽は大学受験まで辞めて、大阪の調理師専門学校に通います。その後、二人は会っていないのですが、ただ、アメリカで寿司職人となった木樽はたまに思い出したようにえりかに絵葉書を送って来るそうです。

そして、えりかが浮気相手のサークルの先輩とヤってしまったのが、谷村とデートしてから割とすぐということが分かります(しかし谷村、すげーこと聞くな)。それが木樽がバイト、そして受験を辞めてしまった原因だったのではないか、と推測されます。

特に証拠はないものの、木樽はそれを分かってしまったらしいのです。弱い人間というものは鋭い、というのもさもありなんというか。鋭いからこそ弱くなるのか。どっちなんでしょう。

ここらへんが木樽のめんどくさいところで、自分が公認した谷村相手なら浮気(と言っていいのかはわかりませんが)はOKだけど、知らない奴との浮気はNGという。まぁ、自分に黙って、というところが裏切り的でもありますからね。そういうところが傷ついたのでしょう。それにしても、めんどくさいことには変わりない。

思うに、木樽とえりかが同性同士だったら、こんなにめんどくさいことにはならず、それこそ無二の親友に成りえたのかもしれない。根本的なところでは非常に共感的であるし、二人の相違はただ一点、男女というところに起因しているからです。

この二人が男女でなかったら……、小説にはなりませんね。

でも、木樽とえりかは、不幸にも男女という関係だったけど、お互いにお互いが居たんです。対して谷村はこの時期、誰も友達と呼べる人がいませんでした。それこそ、木樽だけだったんです。

この時期、えりかは氷でできた月を木樽と二人で見る夢をよく見ていました。でもそれは、朝になったらなくなってしまうような、そんなはかないものでしかなかったそうです。

そして偶然にも、谷村も同じ夢を見ていました。でも、谷村は一人でその月を見ていたそうです。

不確かな関係性でも、そういう相手すら谷村にはいなかったんですね。

そんな谷村にとって、木樽は殊の外重要な人間であったはずです。

でも、その木樽とは、この物語の中では永遠に会えていません。絵葉書も、谷村の元には届きません。

独立器官

ガツガツしてないようで、今の基準に照らし合わせるとガツガツしている、いかにもバブル的な男の話。

この、渡会という男について谷村というライターが綴った、という形式の小説になっています。

谷村、ということは、おそらく「イエスタデイ」の主人公・谷村と同一人物なのでしょう。彼はえりかと再会した時、ライターになっている、と言っていましたから。

こういう繋がりがあるのも、この短編集がコンセプトアルバムを意識しているところだと思います。

基本的に、この渡会という男は不倫しかしません。相手が独身の女性であっても本命は他にいます。浮気です。そういうところも、バブル感満載ですねw

時代設定はわからないのですが、設定年齢は50代だし、舞台が現代であっても、バブルの亡霊、といった感じ。

で、そういったことが細かく念入りに記されています。そういう細かい描写って、登場人物を立体的に浮き上がらせますよね。ここらへんのフェチ的とも言えるねちっこい描写は村上春樹上手いですね。持ち味でもあると思うし。

独身主義者で家庭と子供を持つことを嫌悪していると言って良い男。ただ、ここでの彼の主張(多分村上春樹の主張)は、なかなか納得させられるものがあるのもまた確か。ま、それはいいとして。

問題となるのは、渡会が人生で初めて恋に落ちる、というところですね。

最初は、ここを微妙にギャグっぽく書こうとしている雰囲気もあります。あるのですが、後の悲劇的な展開もあるので今ひとつ乗り切れず、といった感じでしょうか。

だったらかえってシリアスに振り切ってしまった方が良いのかもしれないけど、独身貴族のモテ男が生まれて初めて恋に落ちて悩む、というのはやはりどう考えてもおかしみがあるのは致し方のないところかもしれません。

そして、単なるコメディには持っていかないのが村上春樹。渡会が自殺同然に亡くなったのを境に、喜劇的な方向から悲劇的な方向に一気に舵を切ります。

また、渡会が惚れた女が夫と子供すら捨てて第三の男(まー、おそらくかなり危険な感じの男なのでしょう)の元へ行ってしまったというのだから、また状況は更に酷くなります。この展開はさすがに意表を突かれました。

生まれて初めて女に惚れた渡会は、その女の道具でしかなかったんです。状況は最悪と言っていいかもしれません。

またこの女が酷くて、「恋煩い」(こういう単語を入れて、まだ面白くしようとしている村上春樹は性格が悪い)で拒食症になり、苦しんでいる渡会に「私には関係ないから」と言わんばかりに、決して会おうともしない。むしろ嘲笑うかのように見殺しにしたとも言えるかもしれません。

そうやって自分のために死んでいく男を思うと、むしろこの女はそこに快感を覚えている可能性もあります。

これ、俺の完全に私見なんですけど、女性って自分のために苦しむ男の姿を見るの、好きじゃありません?w なんかそんな気がするんですよねー。もちろん、そこにグッと来て、惚れちゃう、なんてこともなきにしもあらず。

思うに、この女の詳細な描写はないけど、多分つまらない女なんだと思います。出来の良い男は得てしてそういうつまらない女に惚れてしまう、というのも然もありなん。

そして、そういうつまらない女が心底惚れるのが、よろしくない男だったりします。そう考えると、よくできた夫と子供すら捨て、つまらない男の元に逃げ、踏み台にした男を嘲笑う、そんなこの女の全体像が見えてきます。

しかも、その肝心の女は一行も登場しないんです。それでここまでわかってしまうのですから、これを上手いと言わずして何と言おう。

また、そんな騙された渡会のためにさめざめと泣く、部下のゲイである青年が、何か非常に清らかな存在のように見えてしまいます。涙を拭く時も、清潔な白のハンカチだったし。

やはり、男は純粋で、女は狡猾という、そういう「本当の真実」らしきもの(真実とは言いません)を、非常に繊細に抉り出してますねー。

しかしこの話、ドキュメント調で書いてあるのですが、事実を元にしているのでしょうか、それとも完全なフィクションなのでしょうか。

シェエラザード

これ読んでいた時、ちょうどFGO1.5部をやっててですね、シェヘラザード(表記は異なる)が出てくるんですよ。

1.5部アガルタ編の、言ってみれば主役はシェヘラザードだったので、だから、なんか必要以上に面白かったですw なんとなくシンクロするというか。もちろん、こっちの小説は現代が舞台で、千夜一夜物語のシェヘラザードとは直接的な関係はないのですが。

この物語のシェエラザードとは、ピロートークがめちゃくちゃ面白いということで、この名前の知らない女のことを主人公・羽原が便宜的にシェエラザードと名付けたんですけど、シャレているような気もしますが、大げさなような気もします。

で、この女の話が面白いという例として、前世がヤツメウナギであったことを挙げてて。それがまた確かに面白いんです。前世はヤツメウナギだったの、とかしゃあしゃあと語る感じがw 確かに話が面白い女だなぁ、と読者に思わせるにはうってつけのエピソードですね。

ヤツメウナギヤツメウナギ的なことを考えるので人間の言語には置き換えられない、というのがまたね、なるほど、って思いました。そもそも肉体はもちろんのこと、生態がまるで違うのだから、見えてる世界など、感覚も違う。それに「ヤツメウナギ的」と言うことで、むしろ読者に想像させて面白い。

で、この羽原、「ハウス」と呼ばれる家で生活しているのですが、なぜなんだろう? ニュースを見ない、とか言っていたし、かなり大掛かりな組織の下で隠れた生活をしているっぽいので、犯罪組織的な何かなんでしょう。そういう根本となるところを説明しないところは、読者にある種のミステリアスさ、不穏さを感じさせて良いですね。

シェエラザードはそんな「ハウス」に定期的にやってきて、食材やビデオなど、生活をしていく上で必要と思われるものを調達してくる、いわば世話係。ついでにベッドのお世話までやっちゃう、という設定。ちなみに割とくたびれたおばさんです。

で、ある日のシェエラザードの話なんですが、高校時代、好きな男の子の家に忍び込むんですね。何やってんだ、とw 確かに面白い。

で、この他人の家に忍び込む描写が妙にリアルで、シェエラザードの行動が生々しい。非常にフェチ的ですらあります。他人の家は静まり返っている、というのが、なんか妙に納得ですね。

また、ヤツメウナギの話が、単にシェエラザードの話が面白い、ということの象徴ではなくて、この、いわば本筋のエピソードに繋がってくるのが上手いですよね。忍び込んだ他人の家、しかも好きな人の家でじッと息を潜めているのは、なんだか実にヤツメウナギ的です。

そしてこのシェエラザード、色々と好きな子のモノを盗んでいくんですね、訪問する度に。でも、それだと窃盗になってしまうから代わりに自分のモノをわからないように置いていくんです。まぁ、窃盗は窃盗ですけどね。言い訳というか。

で、そういうことを繰り返していくうち、ある日、汗の滲みついたTシャツ盗んじゃって。これの代わりになるものは何か、っていうことで、まぁ結論から言うと、ふさわしいものがなくて何も置いていけなくて。もう言い逃れようがなく窃盗犯になってしまうんです。

シェエラザードは完全に空き巣に堕ちてしまうんですけど、でも、その堕落した感じが、何か良いんですよね。もう、言い逃れようがなく、完全に汚れてしまった感じが。

結局その後、シェエラザードはもう好きな子の家には忍び込めなくなってしまいます。罪の意識から、ではなく、母親が気づいちゃったらしいんですね。

そしてこの母親に対しては、一貫してシェエラザードはある意味憎しみのようなものに満ちて描写しているんですね。これがまたね、女性っぽくて。やはり女にとって好きな男の母親というものは天敵のようなものなんでしょうね。今回はまさに直接的な(会っていないので間接的とも言えるが)天敵となったわけです。

で、好きな子の家に忍び込めなくなると、だんだんとその子に対する興味を失ってしまうんです。シェエラザードの行動は病的ですらあったのですが、「おそらく実際に病だった」とシェエラザード自身言うんですね。

なんとなく「独立器官」を思い出させます。両者とも、恋の病の話なので。そして、実に対照的かもしれません。方や男、方や女。方や53歳、方や17歳。

ただ、女の恋は基本、上書き保存です。一旦消えた気持ちはそのまま本当になくなってしまうように思います。

シェエラザードは、この話をしている最中に羽原にセックスを持ちかけるんですね(村上春樹節炸裂ですね)。で、それまでは割と事務的に羽原とヤッてたのですが、今回は案の定激しくなるわけです。シェエラザードがあたかも17歳の頃に戻ったようで、好きだった子を想像しつつ、って感じで。

こんな風に、シェエラザードのように17歳の時に好きだった人を思い出して、17歳の自分に戻る、なんてことは女性にはないような気もするんですね。

実際、シェエラザード曰く「一旦潮が引くように消えてしまった」のだから、その後思い出す、ということになんだかすごく違和感を感じました。

これは男である村上春樹の妄想的理想論のような気がしないでもない。シェエラザードの考え方や行動が非常に男性的なんですね。

シェエラザードは好きな子の家で、かなりフェティッシュな行動を取ります。モノに異様なまでにこだわるんですね。そういうのって、男では割と聞くけど、女性でもそうなのでしょうか? なんか、違和感感じるんですよねー。

それでですね、この続きの話があるらしくて、それがまた面白そうなんです。なんですけど、そこでこの小説はおしまい。

そしてまた、羽原はシェエラザードと二度と会うことが出来ないことが示唆されています。

多分、二人が頂点まで上り詰めてしまったからだと思います。そうなると、後は下るだけなので、この物語の続きを書いても仕方ないと思うし、ひょっとしたら、どう書いても蛇足的になってしまうかもしれない。

だから、その、続きの面白い話は羽原と同じく読者も聞けないというのが、この物語が現実にまで少し侵食しているようで、そこもまたなんか面白い。

木野

最後まで読んでみると、割と怪奇的な小説なのですが、冒頭では全然そんな雰囲気はないですかねー。むしろ、どちらかというと生活をリアルめに淡々と描く、という感じ。

主人公・木野自身は実にありふれた男として描かれているし、彼の生い立ちも、まぁありふれています。実直ですらあり、現実的ですらある。

でも途中、神田の登場あたりから、段々と怪奇的な雰囲気を纏いだします。そんな「現実的」な木野と、怪奇的な雰囲気が強引に結び付けられていきます。なんだか不思議な作風です。

「木野」というのは、木野が経営するバーの名前です。ボン・ジョヴィみたいなものですね。で、その「木野」に集まる客が、なんだか怪しげなものばかり。半グレ風の二人組、謎の女とその連れの男。そして灰色の猫。そもそも神田が怪しい。

皆、どこか人間離れした雰囲気です。まぁ、猫と神田は木野に悪さをするわけではないので「怪しく」はないかもしれませんが。

神田は、描写からすると、多分「木野」の前庭にある柳の木の精霊みたいなものなのでしょう。神田のレインコートが灰色なので、最初、店を訪れる灰色の猫かと思ったのですが、一緒に登場したりもしたので、それは違いますね。

そんな、人ではないような登場人物たちに徐々に徐々に現実っぽい木野が絡みとられていくのは、なんとも不気味。特に謎の女。この女が決定的に木野を怪奇の世界に引きずり込んでしまった気がします。

で、結局蛇が家の周りに集まって来てしまったことから、どうもおかしいということになり、神田の助言に従って、木野は家を離れる、つまり旅に出ることになります。

その際、木野は神田から定期的に木野のおばさんに絵葉書を出すように言われるのですが、文章を書いてはいけない、と念を押されます。そして案の定、木野は文章を書いてしまい、妖怪の類(だと思う)の急襲を受け、破滅に向かってしまいます。

「書いてはいけない」と言われた時点でフラグは立っていたのですが、やはり人間「やるな」と言われるとなぜかやりたくなってしまいます。おそらく、そこには生物としての進化の心理が働いているのかもしれません。「やってはいけない行為」とは即ち、「別の可能性」のことでもあります。仮にそこで失敗しても、可能性を探ることが生物の進化の基本であるから、「やるな」と言われるとかえってやりたくなってしまうのは自然なことなのかもしれません。

ちなみに、絵葉書は「イエスタデイ」でも登場しました。こういう小道具が一つの短編集の中に二度も印象的な使われ方をするあたり、上手いというか、やはり統一感のようなものが出てきます。

おそらく、「木野」というバーは、木野が理想とした引きこもるための心の隙間の象徴だったのかもしれません。

そもそも、木野がなぜ会社を辞めてバーを開いたかというと、妻が同僚と浮気をしていたからです。しかも、事の最中を目撃してしまいます。

で、本当は妻にめっぽう傷つけられたんですけど、悲しみと向き合うこともせず、それをごまかして自分の殻の中に閉じこもってしまったんですね。多分、そういう悲しみから自分を守るためだったんだと思います。そのための場所が「木野」だったのでしょう。そして、そんな居心地の良い場所を作ったこともあって、木野はそんな自分の気持ちを上手くごまかせてしまっていたのです。

ちなみに、この「木野」というバー、おそらくは村上春樹の作りたいバーではないかなぁ、と思います。作家になる前、実際にバーを経営していましたからね。その、未練ではないんでしょうけど、やりたかったことの一つとして、小説に登場させたように思います。なかなか良い感じのバーだと思います。

最後にやってきた妖怪の類は、よくわからないけど、多分引きこもった木野を糾弾する何か、傷ついた本当の木野自身だったのかもしれません。

だから、ちゃんと悲しめよ、引きこもってんじゃねーよ、という村上春樹のメッセージ的な話かもしれないし、ひょっとしたら村上自身に起こったことを自戒めいて書いた小説かもしれません。

神田とは、多分、木野を引きこもりから外へと導く存在なのかもしれません。木野が出た旅とは、引きこもった部屋から出る散歩のようなものかもしれません。

女のいない男たち

村上春樹の前書きから引用すると、タイトルナンバーとしての書き下ろし作品。

そういうこともあってか、多分急ごしらえ感はある気がします。

特に明確なストーリーもなく、とりとめもない感じで、村上春樹の独り言が延々続いていく感じ。

かつての恋人が命を絶ったと、会ったこともないその恋人の夫が深夜一時に電話で知らせてくる、しかも主人公の付き合った女で命を絶ったのはこれで3人目という不気味な出だし。

しかし途中から、その元カノの魅力を延々と村上春樹特有のあまりおもしろくもない、それでいてちょっとシャレたユーモアを交えて語ってくるので、本当にとりとめがない。

ただそこは村上春樹。そのとりとめのない独り言がなかなか面白かったりするんですよねー。

そして、そんなとりとめもない独り言こそが村上春樹の真骨頂な気がしないでもないです。


 

 

 

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「鬼滅の刃」第十八巻ネタバレ有り感想。猗窩座のドラマが深すぎる!!



いやー、久々、「鬼滅の刃」全巻感想というマラソン企画。今回は第18巻!

遂に18まで来ました。なんとなく、「18」って言うと20まであとちょっと感がありますよね。ほとんど20巻というか。全23巻なので、いよいよラストスパートといったところでしょうか。

ところでこの18巻…ヤバいです。

もうね、ホント色々と見所満載!

個人的には、これまでのところ最高傑作の巻だと思います。

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猗窩座はなぜ鬼になったのか

猗窩座がなぜ鬼になったのか、その話がめちゃくちゃ良かったように思います。そこには深いドラマがあったんですね。

漫画に描き切れなかったエピソードが扉絵にも綴ってあって、全てを総合すると、この猗窩座との戦い、裏にある深度が、もう深すぎる!

猗窩座はなぜ鬼にならねばならなかったのか。こういう深みがあるから表面に表れてくるもの、この場合だとバトルシーンなんですけど、それが面白くなるんだと思います。

猗窩座は、犯罪を繰り返していたので、もちろん悪人ではあると思います。

でも、その犯罪は本当に罪だろうか、という作者の「レ・ミゼラブル」的問いかけがそこにはあると思うんです。

猗窩座を犯罪にまで追い込んだ社会にも罪はないのか、という。

猗窩座のエピソードはややステレオタイプなきらいはありますけど、でもそれだけに、人間の社会が普遍的に内包する問題を表してもいると思います。

思うに、結局、猗窩座はやさしすぎたが故に罪を犯したのではないでしょうか。

やさしすぎた彼が、社会に絶望したから、暴力を振るってしまった、そして強くなりすぎてしまった。

そしてそういうところに、鬼舞辻はつけこむんですね。そういう鼻がものすごく利く。さすが鬼というべきか、そうじゃないと物語が作れないというべきかw

また、そんなやさしい猗窩座に育てた、猗窩座の父はいかなる人物だったか、推して計るべしですね。

肉体が進化しない人間の強み

猗窩座が何百年かけても辿り着けなかった「至高の領域」に、炭治郎がこの戦いの中でやすやすと辿り着いてしまったのは、一見、いかにも「天才が好き」な少年漫画っぽいですけど、その実炭治郎が辿り着けたのは、父親まで至る脈々と受け継がれた先祖からの「日の神神楽」の伝承があったからだと思います。

確かに鬼に寿命はなく、その意味で何百年となく研鑽を積むことができます。しかし、一人という限界もあると思うんです。

一方、人の一生は鬼に比べればそりゃ短いですが、その技術は何百人となく多くの人を通っています。

その過程で、技術は改良もされれば、新たな発見もあったでしょう。その先端にいるのが、炭治郎なんです。

だから、一見やすやすと手に良いれた「透明な世界」なんだけど、そこには鬼以上の時間、そして試行錯誤が積み上げられているんですね。

そしてまた、それは炭治郎の後にも続いていくものなんです。

それは、この物語のテーマの一つでもあると思います。この「繋がっていく」というテーマは、煉獄さんが炭治郎に鬼殺隊を繋げたことでも描かれていたように思う。

この「繋がっていく」、「受け継がれていく」ということは、肉体が進化しない高度な社会的動物たる人間の最大の武器、進化でもあるわけですね。

ここの感じ、以前読んだ「ロスト・ワールド」とも繋がっているような気がします。

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自己犠牲

また、猗窩座の物語は、自己犠牲の物語でもあるように思いました。

確かに猗窩座は犯罪を犯しまくってしまいました。しかしそれは、父親のために体を張って罪を犯し、汚れ者になっていった過程でもあったと思うんです。

いわば自己犠牲ですね。

そしてまた、猗窩座へ挑む、炭治郎と義勇の戦いもまた、二人がお互いを助け合った自己犠牲の戦いでもあったように思います。

最後に猗窩座は自らを攻撃して散っていきましたが、これもまた自己犠牲と考えることもできると思うんです。自らを攻撃することで炭治郎と義勇の二人を「自分から」守ったわけですから。

と同時にまた、自己救済とも言えるようにも思います。自らの魂をも救済したように見えるんです。

そしてそうさせたのはかつての恋人の恋雪でした。ここでも、人との繋がりを感じることができました。

そしてまた猗窩座は、自らを消滅させることで、鬼舞辻にも勝ったと言えるかもしれません。なぜなら、鬼舞辻の思い通りにならなかったからです。

この瞬間、猗窩座は鬼舞辻の支配から逃れられたのかもしれません。

カナヲさん、怖ぇ

また、次のエピソード、カナヲさんの戦いなんですけども、カナヲさんが相手を挑発し、芯を食うのが上手すぎたw

そして強い!

久々、頼もしい「味方」を感じましたねぇ。

ああいう普段大人しい人は、よく周りを観察しているので(だから大人しいのかもしれない)、いざ怒ると怖い。

そしてまた、カナヲさん自身が弱いからこそ、上弦第二位の鬼を「何も感じることができない」と看破できたのではないでしょうか。

弱い人間はその弱さゆえ、敏感、センシティブであるように思います。

からしか見えない視線というか。

弱いゆえにカナヲは孤独であった。だからこそ、カナヲは鬼の「孤独さ」を看破できたのかもしれません。

空気を読まない伊之助の存在感

しかしそこはやはり上弦第二位。やはりカナヲさんも苦戦してしまいます。

そこに乱入してきたのが、伊之助です。

やはり、鬼一匹に対して隊士は複数で対決する、という構造のよう。どことなく新撰組を彷彿とさせます。

それにしても、(最後はシリアスになるものの)伊之助の空気を読まない滅茶苦茶さは、どこか作品に救いのようなものを与えているように思います。

伊之助が乱入したことで、一気に雰囲気を変えてしまう。こういうところがさすが伊之助ですよね。

ややもすると、暗くなるだけの展開になってしまうところを、楽しみ、可笑しみを与えてくれるというか。そのバランスが上手い。

かと思いきや、上弦二位の鬼と突然の因縁。ここにきていきなりの伊之助の過去が明かされます。

この急転直下な展開がすごいと思うんです。こう行くのか、と思わせといてそうはさせないというか。

伊之助の助っ人登場はちゃんと意味があったんですね。

こういう、いきなりに見せかけて用意周到、という演出が光ります。後から思いついたとしても、それはそれですごい発想力ですからね。

そんな感じで、隊士二人の憎しみが上弦第二位の鬼にどう向かっていくか。続きは次巻!



 

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iPhone12miniこそ正統なiPhoneSEの後継機!!

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ずっとね、iPhone12miniが欲しかったんですけども。

何がいいって、iPhone SEを踏襲しているらしいからです。

小さく、角ばったデザイン。

これは欲しいな、と。

ぶっちゃけ、最近のiPhoneってダサいじゃないですか(言っちまったw でも本当のことですから)。

以前は機能面ではAndroidに劣ってるから「頭の悪いイケメン」とか言われてたけど(俺に)、最近じゃ頭も悪けりゃ顔も悪いという、普通に「ダメな人」に成り下がってましたからね。

肝心のSE2も角が、でろーん、とだらしなく丸い、最近のスマホ業界の悪習を踏襲した形になってしまいました。しかも、SEなのにデカい! これもうSEじゃねーよw

ところが、この12miniは、かつての「頭の悪いイケメン」に戻ったというじゃーありませんか!

しかも、全面液晶という、最近の(多分)良いトレンドに倣っているという。

しかもしかも、SEとほぼ変わらぬくらいに小さいらしい!

そういった意味で、まさにアップデートされた「正統なSEの後継者」がiPhone12miniなわけです。

しかし、欲しいなー、と思い、SEの電池もかなりヤバくなっても、「まだ使えるっしょ」と後回しにし続けていていました。すると、そうこうするうち、iPhone13が発売に。

やべー!12miniなくなっちまう!

と、思いましたが、

型落ちチャンスじゃね?!

と、意を決し、購入に至ったというわけです。

ハッキリ言おう。iPhone 12mini、最高!

 

色々駆使して5万円代で購入!

そうなんです! なぜ今回ワタクシが重い腰を上げたかというと、型落ちチャンスだったからです。

まぁ、そうでなくても買う意思はあったんです(ホントですよ)。

ところが今回iPhone13の発売のニュースが世間を駆け巡ってから、先ず何が話題になったかと言えば、12の型落ち価格です(俺調べ)。

大して機能は変わらんのだから、この機会に安くなった12を買ってしまおう、というわけです。これを期に、ワタクシのように購入の意思はあるものの、伸ばし伸ばしにしていた勢が一気に動き始めました。

で、案の定型落ちして安くなったのですが、どこで買うのがベストか、ということです。ショップで買うか、ネットで買うか、ネットならどこが安いか。

先ずショップ。そこらのショップは詐欺まがいに無駄に多くのサービスを売りつけようとする上、それらを全部断ったとしても謎の「手数料」を上乗せしてきやがるという噂があります(未確認)。ですので、ここはハナから却下。

ならばと、僕はauなので、直営店ならそんなことはないだろう、とも思ったのですが、いちいち遠くの直営店まで行くのはめんどくさい。店自体は悪くはないんでしょうけど、そういった意味でここはまぁちょっと保留。

となると、やはりオンラインショップです。先ほど申しました通り、僕はauなのでau online shopかアップルの公式サイトかの二択になります。

調べたところ、アップルの方が安かったのですが、auならポイントが使える。その時、まあまあの額が貯まっていたので、比較してみたらauの方が安くなる。それに、機種の引き継ぎとかはアップルだとちょっとめんどくさそうだったんですね。というわけで、au online shop購入と相成りました。

いやでもですねー、今回初めてオンラインで買ったんですけど、これは便利だ! 煩わしい店員とのやり取りもないし、色とか容量とか支払い方法とか、納得いくまで一人でじっくり考えられる。

しかし、機種の引き継ぎが面倒だったー!

これはですね、容量を128Gbから64Gbにした関係でめんどくさくなってしまったんですね。今後はデータはもうクラウド使えばいっかー、って思って少ないの選んだんです。今のところはそれで良かったのですが、引き継ぎがめんどくさかった。

少ないところから大きいところへ引っ越す分には何らの問題もないのでしょうが、大きい方から少ない方では「余剰分をどうしようか問題」が勃発しますからね。

こはちょっと、前もって準備しとくべきでしたね。まぁ、次回からは気をつけます。

で、そんな感じで色々駆使したら、元々9万円だった12miniを5万円代で買うことができましたー! 型落ち最高! Yeah!

こんな箱に入ってました。やはりアップル。どことなく洒落乙な雰囲気が。

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中はこんな感じ。中の方が洒落乙だったりします。

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Hola!!! ようこそ、iPhone12mini!

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画面がデカくてステレオ

そんで、12miniを使ってみたんですけども、最初画面見た時はびっくりしましたね。

デカい! そして綺麗!

大きさ的にはSEよりもややデカい程度なのですが、なんせ全面画面ですからね。そりゃもうデカいですよ。それに、液晶も進化していて微細なところまでよく見える!

FGOやった時が一番びっくりしましたね。おまえ、そんなんだったんか! いやー、実は芸が細かかったんだなーおまえ、ってな具合。

しかもですよ、iPhoneをこう、横にした時ですよ。それまでは右側からモノラルで聞こえてきたものが、今回なんとステレオですよ、ステレオ!

左の、電話の時に使うスピーカーからも音が出て、ステレオになってるわけですよこれが。YouTube観る時なんかもお気軽にステレオで聴けるわけですよ。こりゃー、進化だなぁ、おい。

いやー、お前のこと、「頭の悪いイケメン」なんて呼んでたけど、今じゃすっかり立派になっちまったなぁ…。

ちょっとデカいけど、SEっぽさを踏襲

そして、肝心要のデザインです。

最初持って見た時に思ったのは「SEだな」でした。

そう! SEなんです!

やはりあの角っこがカクカクしてるんですよ! これだよ、これこれ! これこそiPhoneだろおー!

いやあー、戻ってきたんだなあーお前なあー。相変わらずイケメンだよ、カッコいいよ。

このシャープさイケメンですよ、iPhoneですよ。

大きさはですねー、ちょっと12miniの方が、まぁ若干なんですけど、大きいですね。SEは片手で全面楽に届いたんですけど、12miniはちょっとキツいですかね。まぁ、許容範囲ですが。

あと、裏面の林檎のロゴ下の文字がなくなってしまいましたねー。あれが良かったんですけどね。「iPhone SE」とか、ちゃんと文字で書いてあるのが。そういうのって、なんとなくメカニックでいいじゃないですか。

12miniの背中。

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ちなみにSEはこんな感じでした。このiPhone SEって書いてあるのがね、なんというか、シグニチャーというか、そんな感じで好きだったんですけどね。

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まぁ、リンゴのマーク一個だけ、デン、って感じで置いてシンプルにしたってのが、スタイリッシュでいいんでしょうけど、個人的な好みでは文字があった方が嬉しかったかな。

それから、やっぱり物理ボタンはカッコ良かったですね。全面画面は見やすいし、便利で、もちろんナイスなんですけど、「かっこよさ」で言えば、物理ボタンがあった方が見栄えはあったかなー、と。

それに、純粋にデザインの点だけ切り取って言うと、全面画面よりも、少し「遊び」の要素、空間があった方が見栄えが良くなるんですね。全部機能一点張りにしちゃうと、せせこましいというか、なんか、質実剛健的ダサさが出てきてしまいますからね。余裕のなさといいますか。

そういう、余裕というか、無駄みたいなものが、デザインだと思うんですよね。ところがこの全面画面にはそれがない。まぁ、機能という点では優れていると思いますので、いいんですけどね。

ただまぁ、そういった意味で、「デザイン」的にはSEの方がよかったかな、と思います。SEの方が、そういった意味での「顔」が良かったかな、と思います。

12miniは顔は「フツメン」でも、スタイルが抜群、って感じなのかもしれません。

左が12mini、右がSE。全体の大きさは、ちょっと12miniの方がデカいですが、そんなに変わらず。しかし、ご覧の通り、液晶の大きさは全然違います。

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そしてこうして見ると、やはり「顔」はSEの方が良いかもなぁ。しかし、利便性は完全に12miniの方に軍配が上がりますね。

 

「頭悪い」卒業?!

あと、今まではiPhoneって「頭の悪いイケメン」だったと思うのですが、最近はちょっと賢くなってきてるみたいですね。

iOS14からウィジェットAndroidっぽく使えるようになったり、Documentsというエクスプローラっぽいアプリがあって、中身のデータをフォルダに分けて管理しやすくなったり。

そもそも、そういうアプリを安心して使えるのも、アップルのアプリの認可のハードルの高いからなんですよね。

そういう安心感が実はiPhoneの最大の頭の良いところかもしれません。

それに、相変わらずフリーズしないし。めちゃくちゃ快適。

Androidはまだフリーズしてんのかな?



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