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僕が買ったもの、観に行った映画・ライヴなど、要は金を払ったものに対して言いたい放題感想を言わせてもらおうというブログです。オチとかはないです。※ネタバレありまくりなので、注意!

「君たちはどう生きるか」ネタバレ有り感想。『宮崎駿』てんこ盛り映画!!


長らく観に行きたくて行けてなかった「君たちはどう生きるか」をですねー、ようやく観てきましたよ!

いやー、でもツイッターで、ある日突然公開の情報が上がってきた時はびっくりしました。そもそもここ数年ちょっと映画から離れちゃって、全然映画そのものの情報も取ってなかったから、それはもうびっくりして。

もちろん、宮崎駿が新作作ってるって噂は聞いていたんですよ。でも、突然来たから、あれはびっくりしましたねー。で、界隈ではお祭りみたいになってて、なんとか情報シャットアウトして、映画鑑賞までこぎつけたんですけどね。

で、観たんですけど、ま、正直言っちゃうと、何だかよくわからなかったですが、面白くはありました!

ある意味で「宮崎駿」てんこ盛りの映画だったと思います。

駿祭りというか。駿カーニバル&フェスティバルというか。

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もののけ」以降の宮崎駿は怖い

まず冒頭で感じたのは、やはりもののけ以降の宮崎駿は怖い、ということですねw

もうね、絵が怖い。

いきなりの火事のシーンから始まるんですね。そういった、冒頭でいきない事件を起こす素早い展開は最近のトレンドを踏襲していると思います。

で、眞人が街中を駆けていくのですが、その時の人の顔がですねー、なんというか、崩れてるんですね。

この感じがですねー、非常に不気味だったんですよねー。なんとなく水木しげるのタッチに似ていたのも印象深いです。

あれは一体どういう意図で、何を表現しようとしていたのでしょうか。それはちょっとわからなかったのですが。

表現力が鬼

それで、やっぱりこの映画でもすごいなぁ、と思ったのが細やかな表現力ですね。動きの表現の確かさは健在ですね。

眞人が東京を離れて汽車に乗って田舎に引っ越すシーンがあるのですが、継母の夏子さんが出迎えてくれます。で、その夏子さん、リキシャに乗っています。

リキシャなんですねぇ。日本の人力車を参考に、人ではなくチャリンコに車を付けたタイの乗り物です。タクシーみたいなもんですね。多分日本にはないものです。なぜここで人力車ではなくリキシャを持ってきたのかはよくわからないのですが、おそらく「これはファンタジーなんだよ、日本じゃないんだよ」ということを印象づけるためなのかもしれません。違うかもしれません。

で、そのリキシャから夏子さん降りるのですが、ちょっとあやうく降りるんですね。あの感じ。あれがリアルだった。人力車乗ったことある人だったらわかると思うのですが、ああいう乗り物って降りにくいんですよね。ストンッなんてみがるにおりれない。夏子さんは着物を着ているので尚更です。そこをちゃんと描いている。

他には、大人と子供の歩幅がいちいち違うんですよね。石畳も、大人は一歩で渡っていくのですが、眞人は一歩では渡れません。しかも、二歩だったり一歩だったりと一定ではありません。大体大人の1.5倍くらい歩数を使うという手間のかけよう。

こういう、細かいところだけど、そういうところがキチンと描けている。

ここが重要で、アニメって結局絵じゃないですか。リアリティなんて何にもなくて、だから観客がスクリーンの中に入って行きづらいんですね。そこが実施に比べてアニメが圧倒的に負けているところです。

じゃ、どうするか。呆れるくらいに細かく表現していくんですね。そうすると完全絵空事のアニメの中に実存感を創出することができ、スクリーンの中に容易に入っていくことができるんです。

この手間を惜しむか惜しまないかが、作品の質、もっと言っちゃうと格を決めていくのだと思います。

その一方で、最初の方の青鷺が飛ぶシーンはなんとなく不自然な印象を受けてしまいました。宮崎駿特有の飛翔感を感じられなかったんですね。どうしちゃったんだろう?という感じ。

やはり、大型の鳥が近くを低く短い距離を飛ぶ、というその表現は難しいのかもしれません。逆にいうと、そういう飛び方に果敢にチャレンジした、とも言えるかもしれません。

日本を描いているようで西洋

あと、やはり宮崎駿は日本的な風景を描くのが苦手なのではないか、とやや思いました。

いや、基本的には上手いとは思いますよ。思うのだが…、西洋の作り方と混ぜてしまう(^^;;

というより、基本的には西洋の構造の考え方ですよね。「もののけ」の村でも、ああいう自然の一部を切り取って人間だけのテリトリーを作る、ていう村を作っていましたが、ああいう城塞都市的な発想は基本的には日本人の町づくりの概念にはないものだと思います。

もっと自然に対して自分たちのテリトリーをゆるやかに設定するようなところがあると思うんですよね、日本の町とか村作りって。

建築についても、宮崎駿って純然たる日本家屋を作ることって、あんまりない。「トトロ」の家とかも和洋折衷だったし(建物自体はめちゃオシャレで超憧れるけど)。「千と千尋」の旅館は日本的でしたが…。

で、今回も、日本家屋か、と思いきや家の中が石で作られている箇所もあったりして。基本的に日本の建築って石を使うことはないと思うんですけどね。

また、居住区行きはもう、開き直ったかのように洋館でしたねw これは、客をもてなす時は西洋建築、自分たち家族が住むところは日本家屋、という旧古河邸や旧岩崎邸などとはちょうど真逆の発送ですね。

そういったところ、宮崎駿の西洋文明への憧れが如実に顔を出しているのかもしれません。そういうところも、この映画が宮崎駿という人が前面に押し出ているところでもあるように思います。

臆面もなく自分をさらけ出す

そう、この映画って、宮崎駿という人間のほとんどをさらけ出しているようにも思えるんですよね。

「豚」や「風立ちぬ」なんかもそうだったらしいのですが、この作品こそ、宮崎駿が臆面もなく自分をさらけ出した初めての作品ではないだろうか、と思いました。

上記のような西洋への憧れもそうだし(コンプレックスと言えるかもしれない)、アクションシーンなんかは、「コナン」にまで遡る宮崎駿のほぼ全ての作品の要素がてんこ盛りになっているように感じました。

やっぱり、宮崎駿は冒険活劇が大好きなんですね。そして個人的には、そういう宮崎駿を観たかったりします。

君たちはこう生きろ

それに、彼のマザコン性をここまで暴露した作品はかつてなかったように思います。

この作品って、個々の事象は極めてわかりづらくて謎だらけなのですが、構造だけ抜き出せば割とわかりやすい。母親への愛情、及びそれに対する超克だと思います。

以前、高畑勲宮崎駿を称して、王子様がお姫様を助ける話しか書けない、と言っていたのですが、この映画はまさにそういった構造。しかも今回のお姫様は自分の母親です。しかも、実母と継母まとめて! ある意味では「究極の宮崎駿作品」です。

その意味で、男子にとっては、世の全て(それは理不尽と言い換えてもいいと思います)を受け入れること、だと思います。

また、世界(塔)を上手く作ることができなかった大叔父を宮崎駿の世代と解釈すると、その世界(塔)の行く末を託されそうになった眞人は若い世代、下の世代ということになるでしょう。

君たちはどう生きるか、とタイトルで言ってはいるけどそうではないと思います。君たちはこう生きろ、という、主に男の子に向けたメッセージであろうと思います。

あ、そもそもこの作品、あの本とは全然違うんですねw 僕は前情報一切入れたくない方なので全然知らなかったw 劇中にあの本が母親からのプレゼントとしてバッチリ出てきてましたし、何よりエンドテロップで「原作 宮崎駿」って書いてあったので。

ただまぁ、あの本が原作であったにしろ、違う感じになるんじゃないかなぁ、とは思ってましたが。

謎だらけだけどわかりやすい

で、まぁ、そんな感じで、ざっくりとどういう内容か、というとそれは多分わかりやすいのですが、上でも言った通り、個々の事象は謎だらけです。夢の中で夢落ちしてたりもしますからね。

そもそも、なぜ夏子さんはあの塔に向かったのかわからない。

おそらくは、やはり夏子さんは夏子さんで心の底では眞人を受け入れられてなかったのでしょう。だから、あの塔に引きこもった。そう解釈すると、ややしっくり来ます。

一方、眞人はなぜ自分をああまでして傷つけたのかわからない。

それも、やはり継母である夏子さん、そして実母を失くして一年しか経ってないのに再婚して子供まで作る父親を受け入れることができなかった故の行動、と考えると、まぁ納得できる。

眞人と夏子さんは二人とも、それぞれに引きこもりになったのでしょう。

で、その引きこもりの状態を強引にこじ開けたのが青鷺です。

ただ、この青鷺も、なんでそんなことをしたのか、その動機はよくわからない。

そんな感じでですねー、他にも細かく挙げていくとキリがないくらい、この映画には謎が多いです。ほとんど説明してくれない。

ただ、種明かしも唐突だったりします。でも、そんな唐突な種明かしをされても「そうだよね」と納得してしまったりします。

塔の中の、あの火の女の子が実は眞人の母親であったり、眞人を助けてくれた船乗りの女が実はキリコさんの若かりし頃の姿であったりはその典型でしょう。まぁ、そうですよね、と思ってしまいました。

思うに、宮崎駿の強引力がすごいのである。もう、そんな細かいことはウムを言わさぬ強引力で突破して、なおかつなんとかしてしまうのである。その強引な説得力! さすが宮崎駿です。怖いです。普段から怒鳴り散らしているっぽいくらい怖いです。

つーか、キリコさん、めちゃカッコ良かった。若い頃、こんなにイケメンだったんですね。顔はほぼ第十三代石川五右衛門

宮崎駿異世界アニメ

そしてまた、基本的にはこの映画は異世界冒険アニメだと思いました。

宮崎駿異世界アニメ。

そういった意味では、ここでもまた最近のトレンドをしっかりと踏襲しているとも言えると思います。

でもその異世界は、そんじょそこらの凡百の異世界とはわけが違います。宮崎駿ならではの独特な玉手箱やカレイドスコープのような、何が飛び出してくるかわからないような、そんな独特の異世界である。これがまたスゴい! ああいう美的センスというか、世界センスとでも言いましょうか、それはも圧倒的ですよね。

しかも、そこの作りにもまた強引力が発揮されている感じ。西洋風の日本家屋がどうした?!という感じw そういったところも「宮崎駿」って感じで、まさに「宮崎駿」がてんこ盛りになっている。

ある意味では宮崎駿の集大成的な作品とも言えると思います。

ちなみに声優は、総じて言ってしまうと下手でしたねぇ。そこで失敗してる感じもまた、宮崎駿の総決算的とも言えてしまうような気がします。

後進からの影響

トレンドと言えば、あの塔は空から飛来したものらしいことが作中で判明します。

もしその空からというのが宇宙的なものだとしたら、どことなく「君の名は」を彷彿とさせます。

そもそも、あの塔の中では過去と未来が混在している。しかも、自分の未来を知りながら「眞人を産みたい」と言って元の世界に戻っていった実母の生き様は、やはり「あなたの人生の物語」を遠回しに彷彿とさせます。

それは「すずめの戸締まり」でも同様のテーマが描かれていました。

これは邪推ですが、やはり宮崎駿新海誠からも影響を受けているのではないか。


 

 

 

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是枝裕和監督作品「怪物」ネタバレ有り感想。音楽坂本龍一、脚本坂元裕二の超強力三人タッグはやっぱすごかった!!


先日、ずっと観たかった「怪物」をようやく観に行きました。

いやこれ、ホント観たかったんですよね。自分にとっては絶対に観なくてはいけない作品でした。

というのも、僕が大ファンである是枝裕和の作品に、僕が大ファンである坂本龍一の音楽が乗るからです。

もう、好きと好きがかけ合わさって、そりゃもう二乗倍どころの騒ぎじゃありません。無限大倍です。

そんな感じで、両者の大ファンな僕からすると、これはもう本当に待ち望んだ作品でした。

で、映画の方はというと、これがまたすごかった。坂元裕二もすごい脚本家ですね。さすがカンヌで脚本賞

予告編

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教授のピアノ曲

教授の曲は既発表曲と、新たに書き下ろされた2曲。全てがピアノ曲でした。

それがまた、非常に映像にハマッていたと思います。

確か是枝監督が、坂本さんの(既存の)曲を想定しながらシーンを作っていった、みたいなことを言っていたような気がしたのですが(確か聞いたと思う。未確認)、そういったこともあったと思います。さすがですね。

特に、主役二人の子どものシーンと教授のピアノの感じがハマッていたように感じました。是枝監督特有の映像美と、美しい子ども二人、そこに教授のピアノの音、響きが硬質な雰囲気を沿えていたようで。

元々、是枝監督の映画って、あんまりBGMが流れないのですが(それが良さでもあります)、そんな中に流れる音数の少ない教授のピアノ曲はすごく相性が良かったのかもしれません。もちろん、楽曲の良さもあると思います。

わかりやすい構成

基本的には三部構成の映画でした。

先ずは安藤サクラ演じる母親の視点、次に瑛太演じる担任教師の視点、最後に子供二人の視点。

第一階層、第二階層、第三階層、といった感じで視点が変わるごとに、より真実、本当は何が起こっていたのか、がわかっていく、という作りです。

視点が違うと、こうも見え方が違ってくるか、という人生の、あるいは生活、日常のありようの断片を切り取って見せられているような気分になりました。

第一層では事件が起こり、第二層では表面的な嘘、というよりは誤解がわかり、第三層では根本的な嘘が暴かれ、真実が明るみに出る。それも「真実の一端」と言うべきでしょうか。

ある面では非常にわかりやすい作りと言えるかと思います。

是枝裕和っぽくない

そういった「わかりやすい」という意味では、是枝監督にしては珍しい作風で、是枝監督っぽくないと言えば言えるかもしれません。

ただ、そこはやはり「監督」なので(映画は監督のものですから)、映画の全体的なテイストは是枝監督っぽさに覆われています。

ただ、是枝監督特有のユーモアが今回はほぼ完全に影を潜めていたようにも思います。

それまでの是枝監督だったら、何気ない普通の日常会話の中に随所にウィットに富んだ笑いが挿入されていたり、そして実はその面白会話の中に後に重大なエピソードが暗示されていたり引き金になっていたりしていたように思います。

でも今回は、そういった会話からはユーモアさがガッツリ差っ引かれていた印象でした。

やはりそれは脚本を坂元裕二に任せたからだろうと思います。おそらくそういったわかりやすさが、坂元裕二色なのかもしれません(他の作品、観たことないので断言はできませんが)。

そういったストーリー、セリフという点では、是枝監督は、監督でありながら、影武者に徹したように思います。

だからか、そういった点では、今回、是枝監督ではありえなかった、ある意味でベタな、ある意味ではわかりやすいセリフが多かったようにも思います。

例えば、病院からの車の帰り、安藤サクラに息子に向かって、やたら「結婚」だの「普通の生活」だのをこれみよがしに言わせていました。というよりほぼ「説明」のようにすら感じましたねー。

ここで「あ、この映画はいわゆるLGBTQ+のテーマも内包していくのだな」とわかりすぎるほどわかります。

また後のシーンでも、喧嘩した麦野くんと星川くんを担任の先生である瑛太が「『男らしく』仲直りの握手な」と言ったりもします。

なんというか、いずれのシーンも唐突なセリフなんですよね。それまでの是枝監督作品には絶対になかった要素のような気がします。

そんな感じで、今回の作品は比較的わかりやすかったようにも思います。

怪物な皆さん

この作品はタイトル通り、誰しもがその内に怪物性を持っている、怪物であることを隠している、そんな表のテーマで進んでいきます。

安藤サクラなら、まぁ、わかりやすく「モンスターペアレンツ(シングルマザーだからモンスターペアレントか)」ということになるのでしょう。

ただし、作中の彼女を「モンスターペアレンツ」というのは、なんか気が引けますねー。勘違いとはいえ、彼女の中ではそれが真実である以上、当たり前の行動だと思います。

瑛太は…いや、彼はただの被害者だったようにも思います。彼にはあまり怪物性は感じられなかったかなー。

あるとすれば、暴力教師としての自分の記事の載った週刊誌を集め、付箋を貼りまくっているところかな。これは彼の自己顕示欲の裏返しなのでしょうか。ちょっとよくわからなかったけど。

思うに、安藤サクラ瑛太、この二人は被害者であったと思います。

言ってみれば、子供の嘘に翻弄された被害者なんですよね、見方によれば。そして、この被害者二人が、謎を解き、真実に近づいていったのは、必然であったのかもしれません。

そして麦野くんは、親である安藤サクラや担任である瑛太に嘘の証言を繰り返したり、星川くんに「クラスの前では話しかけないで欲しい」と約束させたり、いじめを傍観していたり。

その星川くんはゲイであることを「怪物」と父から称されます。星川くんで言えば、冒頭のビル火災は彼がチャッカマンで放火したことがほのめかされています(但しこれはミスリードかもしれない)。

それぞれに内包する怪物には理由があったと思います。理由があるから怪物にもなる。そういった意味では、それぞれの人物をある程度把握、理解はできた気がします。

ただ一人、わからなかった人物がいました。校長です。

校長

この校長だけは全くわかりませんでした。

とにかくこの校長は物語全編を通じて「悪役」として描かれています(いたように思う)。一切「人間らしい」面を見せないんですね。

でも、刑務所での、おそらくは夫であろう囚人との面会のシーンで、少し印象が変わります。

そのシーンでの会話の中身はどういうことかはわからなかったのですが、ここで初めて彼女は素の自分を見せたように思います。

そしてある意味のクライマックス、自分が嘘をついたと校長の前でだけ告白した麦野くんに対し、自分と同じだね、と呟いた校長は、麦野くんにトロンボーンを吹かせます。

自分はお手本としてホルンを吹くのですが、その時「人に言えないことはこの(金管楽器)中で言えばいい」(だったような気がする)と言って、一緒に吹くのです。

昔は音楽の先生だったそうで、全国大会にも行くような部を受け持っていたのだとか。麦野くんに楽器を教える校長は実に「人間らしい」良い表情をしていた(そのように田中裕子は演じていたように思う)。

それまでの一貫していた、安藤サクラ曰く「死んだ目」とはえらい違いです。

食品売り場で駆け回る子供の足を引っ掛けてすっ転ばせてみたり、果ては孫を轢き殺したり(作中では真相は語られず)、子供が嫌いなのか、と思わせておいて、やはり子供、そして教育が好きなのだろうか、とも思わせます。

まぁ、おそらくはどっちも真実なのかもしれませんが。人間は矛盾したものです。それを最も「わかりやすく」体現していたのは、この最も「わかりにくい」校長だったのかもしれません。

多分本当に描きたかったこと?

是枝作品としては比較的わかりやすいこの作品ですが、わかりやすいという点では、日本の社会を学校という小道具を使ってミニチュア的に再現しているところもわかりやすいと思います。それも一つの大きなテーマだったかもしれません。

ですが、観終わった後、思うに、そういったテーマだとか何だとかいうものよりは、麦野くんと星川くんの、まだ性というものから未分化な故に瑞々しい、少年二人の純愛とも違う純粋性をこそ、一番描きたかったように思えてなりません。

とにかくこの二人のシーンが綺麗すぎるし、ファンタジーすぎる!

星川くんがもう、可愛いすぎる! 麦野くんがカッコ良すぎる! それにしても麦野くんは是枝監督の好きな少年の系譜にガッツリいますよね。言っちゃうと柳楽優弥

ラストシーンの雨上がりの山野を、泥だらけの二人が笑いながら叫んで駆け抜けていくシーンは、本当に美しかった。

それで、ちょっと思ったんですけど。やっぱり…最後の、嵐が過ぎた後の、あの抜けるような青空のシーン。あれってやっぱり常世なんでしょうか?

というのも、二人の「秘密基地」は廃トンネルの向こうの打ち捨てられた電車でした。電車と少年、と言えば思い出すのは「銀河鉄道の夜」です。

そしてまた、トンネルというのもまた、違う世界へと繋ぐメタファーとして使われることも多いと思います。

更に、電車を見つけたはずの瑛太安藤サクラは、最後のシーンではいませんでした。発見しておきながら、いないってことは考えられないですよね。

ということは…、やはりそういうことなのでしょうか?

あの、全てから解放されたかのような、明るい世界。二人にとっては、まるで天国のようでもありました。

多義的な「怪物」

劇中、星川くんは「ナマケモノは捕食される時、全身の力を抜く」と言います。なぜなら、「その方が食われる時、痛みを和らげられる」のだそうです。

それに対して麦野くんは「星川くんはナマケモノですか?」と聞ききます。

星川くんは、ゲイ(多分)ということで家では父親(一人親らしい)に、どうも「治療」と称して折檻を受けているらしいんです。そして学校ではいじめられている。

学校ではどんなにいじめられてもリアクションは薄く、受け流していました。おそらく家でも似たように対応しているのでしょう。

それはまさに捕食される時のナマケモノのようです。

力を抜いて受け流す。力を抜いて、食われても痛くないようにする。それは、いわば、ナマケモノの怪物的能力であり、同時に星川くんの怪物的能力でもあります。

おそらく、タイトルにもある「怪物」とは、多義的に使われているようにも思います。悪い意味合いばかりが与えられているわけではない。

様々な「怪物」

また、怪物と言えば、この作品に出てくる子どもたちも怪物的側面を見せます。

担任である瑛太を裏切り、皆で嘘の証言をするところなどは、実に子どもらしい怪物性を露わにしていると思います。

おそらくは先生に言われたのでしょうが、子どもってそういうの、敏感に察知します。ヤバいと思ったら、簡単に裏切る。それは未成熟な幼体である子どもが、弱い存在であるからでしょう。その点は星川くんに対する麦野くんのクラスでの態度とも共通しています。

更に怪物について言うなら、ひょっとしたら事の元凶は組織としての学校なのかもしれません。それは校長を始めとする一人一人の教師、人間ではなく、それら個々人が有機的に結合し、一つの生命体のようになった組織なのかもしれません。

学校がなければ、いじめもない。学校がなければ、麦野くんは星川くんにまつわる嘘を自分の母親に言わなくて済んだ。学校がなければ、教育熱心で実直だった瑛太も学校を追われることもなく、恋人に捨てられることもなかった。

人だけが怪物じゃない。おそらくは学校そのものも、組織そのものも、施設そのものも、怪物なのかもしれません。この映画で扱われる「怪物」とは多義的であり、概念も広いように思います。

理解不能なのが「怪物」

そしてまた、優れた作家は子供時代のことをよく覚えているように思います。

よくよく思い返せば、子供って、子供だけの社会があり、文化があります。

それは大人になると忘れてしまうもので、大人になったら全く理解不能なものです。それゆえ、子供も大人には本当のことは言えない。どうせ理解してくれないことをわかってるから。

だから、親に問い詰められた時、手段の限られた、手札のない子供はどうするか。嘘をつくしかない。

それが、この映画の全ての事の発端だと思います。それは、大人からすれば怪物なのかもしれません。怪物とは、理解不能な化け物なのだから。

 

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「メイドインアビス 烈日の黄金郷」第10話~最終話ネタバレ有り感想。どう感じたかわからないが心は動かされた!!


メイドインアビス 烈日の黄金郷」観終わりましたー!

いやー、やっぱね、もちろん今回もすごかったですけど、なんていうかなー、感想を持ちづらいというかね。うまく言語化できないとでもいいましょうか。自分が何を感じたのか、自分でもよくわからないという不思議な体験をしました。

ただ、心は動いた。それは間違いないです。

やっぱ結構難しい作品だと思いますねー。描いてるテーマもデカいと思います。そのものズバリ「生きる」というか。

そして今回、また新たに仲間が増えました。映画も含め、一作品につき一人という感じ。そういうところは、ちょっと「ワンピース」に似てるかも。

「ワンピース」も主人公が非常に冒険を希求していますよね。未知の世界を突き進む感じとか、やっぱり似たところはあるかもしれないですね。

続編制作決定PV

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第10話

冒頭、いきなりべラフがナナチを解放します。おそらくはイルミューイの娘であるファプタがやってきたのを察したからでしょう。

イルミューイの娘にやられることが自身への贖罪だという思いがあったのかもしれません。それにナナチたちを付き合わせるわけにはいかない、という思いもあったろうと思います。

ただ、イルミューイの体(塔)の外へ出ると、形を保っていられなくなり、ミーティは消えてしまいました。このミーティの存在はなんだったのか。今一つよくわかりませんでした。

ただ、よくよく考えてみれば、ナナチは二度もミーティと別れなければならなくなかったのです。そういった意味では残酷です。

じゃあ、なぜナナチはミーティと二度も別れなくてはならなかったのか。それもまたよくわからないのですが、まだナナチはミーティとの別れを受け入れられてはいなかったのかもしれない。

レグの火葬砲でミーティを撃つことはナナチが望んだことかもしれないけど、やはりどこかで後悔していたのかもしれない。それを吹っ切るための儀礼のようなものだったのでしょうか。

その後も、やはりファプタが自分の文法で喋るので、何が言いたいのかよくわからなかったのですが、一つ判明したことがあります。ファプタの、語尾に「ソス」と付ける、あの独特の言い回し。あれは高貴な人の喋り方らしいですね。デカロボットがファプタに教えたそうです。日本でいうところの「ドスエ」みたいなものなのでしょう。

ただ、回想シーンで、レグとファプタとの間にどんな過去があったのか、それはわかった気がします。

デカロボットですら守れなかった相手から、レグはファプタを守ったのだそうです。ちなみに、その描写はありませんでした。何か、スゲエヤバい奴がいるそうです。

で、レグはその当時から「レグ」と名乗っていたのですが、レグとはリコの飼い犬の名です。深層からやってきたレグがそのように名乗ったということは、普通に考えればリコの母親がレグの名付け親なのでしょう。レグはやはり、リコの母親と会っているのです。

そして、その当時レグは、次に火葬砲を使うと(もちろん「火葬砲」とはリコが名付けたものなので、そうは呼んでいなかったのですが)どうなるかわからない、と言っていました。

レグがリコと出会った時は、おそらくはリコを守るために火葬砲をブッ放し、昏倒していました。レグの記憶がなくなったのは、その時の使用によるものと考えるのが妥当かもしれません。レグの言う「何が起こるかわからない」とは、このことだったのでしょう。

そしてレグは、一番大切なものを届けるために上の階層に行く、と言っていました。そのためにファプタと別れ、再会を約束します。しかしもちろん、レグの記憶はありません。

 

第11話

前回のラストで記憶が断片的に戻ったレグ(イルミューイの娘の当時の顔を映像として思い出す)でしたが、その隙を突かれ、ファプタに負けてしまいます。

それからファプタの怒涛の虐殺が始まるか、と思われたのですが、そこへベラフとナナチがやって来ます。

しかし、ファプタはベラフを食ってしまいます。その際、ベラフはイルミューイとの思い出をファプタに見せるのです。

それがどういうメカニズムなのかはよくわからなかったのですが、そのことによりファプタは、イルミューイがただ探検隊に食われたのではなく、仲間としての関係性もあったことを初めて知るのです。

復讐のために生まれた(と思っていた)ファプタでしたが、ここで初めて、その復讐が正しかったのかどうか、問われていたのかもしれません。実際、ここでファプタの動きが止まります。逡巡し、戸惑っていたのです。

ベラフはファプタに「自分の価値を自分で決めろ」と言います。ファプタがこれから先、どう生きるか、可能性を与え、そして肯定もしてくれたんだと思うのです。

その復讐が間違っていたとしても、次なる冒険が待っている。間違った復讐で自分たちを滅ぼしたとて気にするな、と言いたかったのかもしれない。もちろん、間違いとは思っていなかったかもしれませんが。それは、ベラフの(多分に自分勝手な)贖罪でもあったのかもしれません。

ここでちょっと思ったのは、イルミューイにとって探検隊は、初めて得ることができた家族的な関係だったのかもしれません。イルミューイは「子供を産むことができない」ということで、村八分にされていました。そんなイルミューイにとって、ブエコをはじめ、自分にやさしく接してくれる探検隊の面々は、まさに初めてできた仲間、家族だったように思えるのです。

そしてイルミューイは願いを叶えるという遺物を持たされました。イルミューイの願いとは、母となること、家族を作ることだったと思います。またその一方で、家族のように思っていた探検隊の窮地を助けることだったのかもしれない。

だとしたら、自分の子どもたちを、ひょっとしたら命をつなぐための糧として、探検隊に、実は与えていたのかもしれない。果たしてそれはどうなのか、もちろん、よくわからないのですが。

一方、ベラフと別行動となったナナチは、ひょっとしてワズキャンがリコを第二のイルミューイにしようとしているのではないか、という予測を立てます。しかし、それは違うかもしれない、と個人的には思います。なぜなら、ワズキャンの最終的な願いは、リコと共に『冒険を続けること』なのですから。

破壊されたイルミューイの体はもはや結界としての機能を失い、アビスの動物が次々住民を食いにやって来ます。住民たちは、どういう理屈かわからないのですが、イルミューイの体外へ出ると形を保っていられなくなります。だから、内へ内へと逃げるしかない。どんどん袋小路となっていき、食われまくってしまいます。

ファプタにしてみれば、住民たちは母を食い物にした復讐の相手です。彼らに復讐することがアイデンティティですらあります。そんな復讐の相手を、アビスの動物たちは食いまくってるのですから、ファプタはその動物たちに対して激怒します。自分の存在意義を奪うな!ということでしょう。

ファプタは動物たちを攻撃しますが、多勢に無勢、逆に体のそこかしこを食われてしまいます。ここの描写がグロくてですねー、そういうのが苦手な僕は見てられなかったですねー。まぁ、メイドインアビスの真骨頂といったところでしょうか。

そんな感じで身体中を食われたファプタはもう動けなくなり、もうダメか、と思わせたところに、なんと住人たちが自分の体をファプタに供物のごとく食わせていくのです。

それをファプタは「当然だ」と言わんばかりに食っていく。そしてそれは当然でもあると思います。しかし、イルミューイと探検隊の本当の関係性を思うと、当然ではないかもしれない。だが、この状況ではそうするのが最上の策かもしれないし、それしかできないかもしれない。

住民たちはイルミューイに与えられた命を、その娘であるファプタにお返ししたのかもしれない。

そしてファプタは復活し、どう出る? というところで、次回、最終話。

 

最終話

やはり、ファプタは相変わらず言葉遣いが独特すぎるので、何言ってるかわかりません。だから、細かいことはわかりません。

それに、登場人物たちが話している前提が視聴者には開示されていないように思います。だから、わかるわけない。

最終回は、なんというか、これまで以上に上手く感想が持てなかったですねー。しかし、心が動かされたことは確か。なかなか不思議なことだとは思いますが。

ただ、全体的に何が起こっているのかは、大体わかったつもりです。ファプタが住民を食うことによってパワーアップし、侵入してきた動物を返り討ち。ブエコと出会って、まだ人間だった頃の母を知り、リコさん隊に加わる。冒険を続ける、おそらくはそれがイルミューイの願いだったのかもしれない。

ただ、侵入してきた動物たちをやっつける必要性は、実はなかったようにも思います。

自分(ファプタ)の復讐の邪魔をするな、といった理由づけは、よくよく考えればかなり強引だったように思います。逆に言うと、そういう強引な理由づけが必要なくらい、無理があったようにも思います。

だって、よく考えればファプタが住民を食った段階で、ファプタには動物たちをやっつける理由はなくなっています。

アニメとして、最後にバトルがあった方が盛り上がる、というだけのような気もします。

個人的に言わせてもらえば、バトルシーンはなくても困らないかなぁw ある面ではいらないw というのも、基本的にバトルシーンではドラマが進まないから。ただ、ドラマを組み込んだバトルも多くあるので、それは好きです。

で、今回アビスの動物たちがが塔の住民たちを食うシーンを見て思ったのは、やはりアビスとは深海をモデルとしているのかな、ということです。

崩れた壁から入ってきた動物たちが住人たちを貪り食う、その様は深海に落ちたクジラの死骸に群がる生物を想起させました。

確かにグロい描写ではあります。しかし、見ようによっては祝祭みたいなものに見えなくもない。アビスに生きる動物たちにとってはまたとない食事の機会だから。

そして、イルミューイの内部に入った人たち、慣れはて村の住民たちはみんないなくなってしまいました。ある者は食われ、ある者はイルミューイの外に出て消えた。

隊の長であり、ある意味、このシリーズの黒幕かもしれないワズキャンも消えてしまいます。神がかりとまで称されたワズキャンが、最後に何が見えていたのか、とナナチは思うのですが、ひょっとしたら何も見えていなかったのかもしれないのかな、とも思いました。

ただ、ワズキャンは「繋がり」こそが、冒険を続ける原動力になる、みたいなことを言ってました。この「繋がりこそが一番強い」というのは、どことなく「鬼滅の刃」を思い出してしまいます。

ブエコはファプタに会いに行こうとしたその途中、外に出てしまいます。しかし、消えません。消えはしなかったのですが、成り果てになってしまいます。いや、なりかける。いや、やはり「なった」のだろうか。

ブエコの左目は抜け落ち、形が崩れていって、口もミーティのように縦に開いていきます。この時の描写がなんとも言えず…。

ブエコはなぜこんな罰を受けなくてはならなかったのか。それはひょっとしたら唯一つのイルミューイのエゴだったのかもしれません。イルミューイはブエコに最後を看取ってもらいたかったのだそうです。

そういえば、塔の中に入った隊員たちは皆形を変えたけど、なんでブエコだけ人の形を保ったままだったんだろう?と疑問には思っていたのですが、イルミューイがそうさせていたらしいんです。

形を変えた人たちは、塔の外へ出ると消えてしまいます。逆に言うと、形を変えなければ、塔の外に出ても消えることはありません。ただし、深層の影響で成り果てになってしまいます。

ブエコを変えさせず人のままでいさせる。それはつまり、成り果てになったとしても塔の外に出られるということです。ブエコを成り果てにさせてまでも、イルミューイは自分の最後を看取って欲しかったのでしょう。

そして、ナナチのはからいで、ブエコはファプタに会うことが叶います。もう言葉を喋ることすらできないブエコですが、ファプタは何を言おうとしているのか正確にわかることができる。ファプタにはそういう能力があるようです。プルシュカの言葉もわかっていたそうです。

ファプタは在りし日のイルミューイの話をブエコから聞くことができたし、ブエコも伝えることができた。ブエコが知っていたイルミューイの姿をファプタに伝えることで、「忘れない」というブエコの誓いは、これで果たされたと思います。

そして、イルミューイにとってブエコは、ファプタにすら渡したくない大切な人だったのです。

あまりに大切だから、最後を看取って欲しかった。そしてブエコはイルミューイの願い通りにイルミューイを看取り、ブエコ自身はイルミューイの娘であるファプタに看取られた。

そしてファプタはブエコを看取り、初めて「かなしい」という感情を知ったのだと思います。

イルミューイ、ブエコ、ファプタの繋がりにより、自分は何をどう感じたのかわからない。しかし、心を動かされたことは確かだと思います。


 

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「ハナレイ・ベイ」所収『東京奇譚集』ネタバレ有り読書感想。乱歩的タイトルだけど、村上春樹的都会的奇譚集!!


村上春樹の短編集が好きで、何冊かこのブログでも感想文書いてみたんですけど、今回も村上春樹の短編集です。

今回はこちら、「東京奇譚集」。

これはですねー、タイトルで買ったところもありますね。もちろん、村上春樹の短編というのは大きいのですが。

「奇譚」って、なんかいいですよね。どことなく乱歩っぽい雰囲気があって。

そこに加えて「東京」ですよ。これはまさに乱歩だろいう、って。

もちろん、村上春樹に乱歩っぽいケレン味とかは全く期待してないのですが、でもやはりこのタイトルは買ってしまいますねー。

しかも結構、粒ぞろいの短編集だったと思います。



映画「ハナレイ・ベイ」予告編

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偶然の旅人

この短編集も冒頭は前書き的な文章から。

村上春樹は前書きは嫌いと言いながら書くことが多い気がします。本当は好きだと思う。

奇譚集というから不思議な話が多く、村上春樹自身、不思議な体験が多いのだと言います。

ただこの前書きは本人が言う通り、取るに足らない話ではあります。しかし、これがなかなか良いですよねー。

特に、音楽好きにとっては「あー、こういうの、いいですね」と思えるもので。ライヴ観てて「この曲、演ってくれないかなあ」と思ってたら演ってくれた時の嬉しさと言ったら半端ない。

それがこの話の村上春樹の場合は、割とそれが極端な形で起こったのだから、そりゃ何か運命的なものを感じてしまう。それは「勝手に運命的」なのだけど、ファンというものは常に身勝手なものですからね。音楽好きにとっての、ちょっとほっこりしてしまう、そんな話だと思います。

そしていよいよ本編。

本のタイトル通り、ちょっと不思議な話でもあると思うのですが、基本的には一人の男の長きに渡る心の旅路の一つの終着点、といった感じだったように思います。

「ピアニストになれなかった調律師」というのが、ゲイであることを認めた自分とリンクしていて、この主人公の人生とでもいうべきものを、更に印象強くしています。主人公の職業として、上手い作りだと思います。但し、これがフィクションであるならば。実話ベースの話、という触れ込みなんですけど、そこも含めてフィクションの可能性は捨てきれません。

フィクションであるならば、この主人公の、ショッピングモールを使ってるくせに、そこをディスってみたりするスノッブ感は、やはり村上春樹自身が投影されたもののように思います。

人は「ありのままの自分」と言う時、往々にして本当には解放されていないと思うんです。そこには一種の開き直り、強がりのようなものを感じてしまいます。

なぜなら、「ありのままの自分」というものを感じる、ということは、生きている世の中と齟齬があるからです。自分と外の世界との間に齟齬があるからこそ、「ありのままの自分」というものを感じざるを得ない。

齟齬がなければ、自分と外の世界とが「同一」であるならば、「ありのままの自分」というものをわざわざ感じなくて済むからです。「ありのままの自分」を感じた瞬間、人は強烈な孤独を感じるのかもしれない。

また、「ありのままの自分」を意識するということは、それまでの自分の否定でもあります。だから、そんな時、主人公の調律師は姉に無条件に抱きしめてもらいたかったのだと思います。そうされることが、それまで自分がいた世界と自分との齟齬を弱めてくれるから。

ハナレイ・ベイ

息子をなくした母親と、浜辺に現れる息子の幽霊の話、というと、どことなく能を思い出してしまいます。能には全然詳しくないけど。

若い日本人の男の子二人組に会ってから、主人公・サチのキャラクターの印象がガラリと変わります。それまでは、一人息子をなくした母親、ということで、どこか弱さというか、寄り添いたくなるような、そんな風に読む者は印象を抱きがちになると思うのですが、実はこのサチ、結構攻撃的な、一筋縄ではいかない人物であることがわかります。

サチの「一度覚えた曲は忘れない」という特性や、天才的なピアノの腕前、それでいて楽譜が読めなかったり、直情的且つ攻撃的な性格。それら、長所も短所もそれぞれに極端な点を考慮すると、サヴァン症候群なのかもしれません。それ故の生きにくさのようなものはあったのかもしれない。

サチとはやはり「幸」なのでしょうか? であれば、生きにくかったであろうサチの半生を逆に象徴しているとも言えます。

息子との接し方にも、その影響はあったかもしれない。若者二人に対する態度がそれを想像させます。若者二人は、サチにとっての息子との疑似的な再会というか、比喩のようにも見えました。

憎まれ口を叩くくせに世話を焼く。心配でしょうがないくせに憎まれ口を叩く。全く不器用です。

どことなく、人当りとしては若者二人に比べ、サチの方が子どもに見えます。

サチに口汚い言葉を吐かれても、こういう人間に対する対処の仕方は知っている、と言わんばかりにのらりくらりと、ひょうひょうとかわしていくように、若者二人は見えます。

一言で言ってしまうと、若者二人の方が世慣れている感があるんです。

確かにハワイではあまりに無防備すぎる若者二人よりもサチの方が比較の対象にならないくらい力強い。しかし、対人間に対しては、立場が逆転する印象があるのです。

実際、物語ラストでデブの若者はさっさとサーファーから足を洗い、就職活動をして、彼女候補とデートまでしている。サチからの『恋のアドバイス』もキッチリとメモしていてぬかりない。

で、この物語、息子の人間性が好きではなかったという母親が、その息子を失って、自分はどう感じていいのか、それを確かめる旅路だったように思います。

息子の幽霊(多分)はろくでもない若者二人には見えて自分には見えない、という事実を知り、息子の方でもサチを好きではなかったかもしれないことを知らされたような気持ちになったのかもしれません。

子供というものは、親の鏡です。人間は環境によって形成されます。環境を作るのは親です。だから、子は親そのものと言っても過言ではありません。

サチが息子を好きじゃなかったというのなら、それはとりも直さず、自分のことを好きではなかったということです。

また、息子の幽霊が誰にも見えないのなら、まだ納得もいったかもしれない。しかし、他人に見えて、母親である自分に見えないとなると理不尽のように思えてしまう。

しかし思うに、会わない、姿を見せない、というのはそれはそれで一つのメッセージと受け取ることもできます。なぜなら、若者二人には姿を見せ、10年もハワイに通ったサチには、ただの一度も姿を見せないのだから。とすれば、これもまた一つの死者との対話の形であり、やはり能を想起させます。

息子はまだ19歳でした。未成年です。その意味で、サチは、自分の子供が大人になって和解することができる、その前にいなくなってしまった。

和解できなかったのであれば、せめて幽霊でいいから見たかったのかもしれない。

いや、それよりも、なくしてしまった最愛の息子に最後一目でいいから会いたかったという、ただそれだけの、純粋な親の思いの話だったのかもしれない。

ちなみにこれは余談ですが、この物語のその当時、若者だった自分としては、若者言葉が上手く使えていない印象を受けました。下手に同時代性を出して失敗するよりは、普遍的な表現を試みるべきかな、と思います。

どこであれそれが見つかりそうな場所で

先ず、どういう状況なのか、それがわからない状況から始まるのがオシャレ感がありましたね。

主人公の几帳面な人物造形が、どういうわけか読んでいて小気味良い。こういう人物を作り上げるのが村上春樹はうまいと思います。

異様な失踪を遂げた夫を探して欲しい、という、言ってみればミステリー。しかし、主人公は探偵というわけではなさそう。あくまで趣味の範疇らしいのですが、趣味というには人生賭けてる感がありました。

おそらく、今回の場合のように「異様な失踪を遂げた人物」を探すことに心血を注いでいるのでしょう。だから、依頼料などは一切もらわない。そこも異様と言えば異様。

ただ、この物語に出てくる人物の全てが異様と言っても良い。

依頼人の夫が失踪を遂げたであろう階段を調査している最中、様々な人物と主人公は出会います。

ランナー、老人、女の子。

その誰もが異様なんです。異様と言うには大げさで、ちょっとズレているというか。ただ、そのちょっとのズレが異様さを醸し出しています。

依頼人の妻も攻撃的で冷たい印象を与えるのですが、その攻撃的で冷たい感じが、あからさまなものではないんですね。ジワジワと来る「攻撃的で冷たい」んです。その感じが異様さを加速させます。

そもそも主人公自身も癖があり、ちょっとズレています。メモに使う鉛筆を何本も揃え、その尖り具合にもこだわりを持っている。メモもさっさと書けばいいものを、いちいち丁寧に書く。いや、丁寧にしか書けない。

人物だけではなく「場」も異様です。そもそも三十階近くもあるマンションの階段に広々とした立派な階段があること自体異様です。しかも、回によってはソファと大きな鏡までが設えてある。そんなマンション聞いたことないですよ。

そしてラストは唐突に訪れます。主人公が解決したわけではありません。ひょっこり夫は現れたのです。しかも東京から遠く離れた仙台に。なぜそうなったのか、謎は明かされぬまま、誰も知らない。

思うに、この話においてはミステリーの解決などどうでもいいのかもしれない。どうでもいいとは言い過ぎだけど、さして重点を置かれていないのかもしれない。

おそらく、奇妙な主人公が出会う奇妙な人たちとの、奇妙な場所での会話こそがこの物語の肝なのかもしれない。

世間とはちょっとズレた人たちの、普通で異様な会話。

でも、世の中の人全ては、少しずつ、他人とはズレているので、そういったことの象徴かもしれない。みんなそれぞれ勝手にズレているというか。

そう思うと、実はミステリーではないのかもしれない。世間を描写し、それを極端な形で描いたある種の群像劇なのかもしれない。

日々移動する腎臓の形をした石

ネット上でたまに散見される、ステレオタイプな、言ってみれば「村上春樹構文」とでもいうような典型的な文章で綴られています。もちろん、中身はそんなアホな、退屈なものではありませんが。

自分にとって本当に意味のある女は三人しかいない、という父親からのある種哲学めいた、それでいて呪いのような言葉の呪縛に囚われた主人公が、キリエという女性に会うことによって、その呪縛から解かれる話、という感じだと思います。

主人公は学生時代に「自分にとって意味のある」と思われる女と既に一人出会っています。その意味ではキリエは二人目なのかもしれない。

でも、そんな風に女性をカウントする行為、つまりはモノとして捉えていた主人公が、言ってみれば初めて女性を女性として、人として見ることができる、そのきっかけをくれた人と捉えるならば「一人目」なのかもしれません。

というより、その呪縛から解かれた主人公にとってはもはや「何人目」という概念すら意味がないものなのでしょう。

また、キリエは主人公にとっては自分自身なのだと思います。

主人公は気鋭の小説家。キリエは高層ビル専門の綱渡り。

二人に共通しているのは、基本的には自分一人の世界、自分独特の世界、他人には理解できない世界を世界に向けて表現しようとしていることだと思うんです。

その意味で、二人の職業、二人という人間は似ていると思う。だから、主人公はキリエと話すことで、自分自身と対話をしているようなものだったのだろうと思います。

だからこそ、キリエと接した後の主人公は小説家としても一皮剥けたし、人間としても父親の呪縛から解き放たれた。

キリエの方としては、だからこそ、レストランのカウンターに一人座って酒を飲んでいた主人公が小説家と聞きつけて、声をかけたのだと思うのです。男と女の出会いとしては、一見実にご都合主義的に見えるけど、実は決してそんなことはなく、必然性があったんですね。

ここらへんの作りは実に上手いと思う。さすがである。

品川猿

いきなり主人公の女性・みずきが自分の名前「だけ」思い出せない、という地味ではあるけど、よく考えれば異様な幕開け。ある種のSF的な作品かと思わせます。

症状が、軽いといえば軽いからか、医者には相手にされず(それも酷い話だが)、困ったみずきは品川区役所のカウンセラーに相談しに行きます。

そこから、過去の話、みずきの高校時代に寮生活での出来事について語られるんですけど、ここから少しミステリー風味になります。

冒頭のSF色から一転して、作品が大きく舵を切る。でも、全然無理はなく自然な流れなのが上手いというか、面白い。

女子高の、学園のヒロインみたいな子・優子が突如みずきを訪ねてきて、寮の名札を預けていってしまう。その際、「猿に盗まれないように」という冗談めいた一言を残すんですけど、これがいわゆるタイトルの「品川猿」です。もちろん、みずきはその時は冗談だと解釈します。

そしてここで優子は「嫉妬をしたことがあるか?」とみずきに聞きます。そしてまた、おっそろしいことに、みずきは「ない」と答えるんです。

何か、みずきには人間らしいところが希薄なところがあるんですけど、ここに来てそれが「おかしい」レベルにまで達していることがわかります。

仙人じゃないんだから、一介の女子高生が嫉妬したことがないなんて、なかなかにして考えられないことです。

そしてその後、優子は自ら命を絶ってしまいます。みずきに名札を預けたまま。

結論から言うと、この時に預かった名札と自分の名札を一緒のダンボールに入れていたがために、優子のことが好きだった猿に名前を盗まれ、みずきは自分の名前を思い出せなくなっていたのです。

この猿に名札を盗まれると自分の名前の記憶まで盗まれるということらしい。原理はよくわからないですけど。

品川区役所の面々の活躍(?)で猿は捕まるのですが、この猿は名前と同時にその人物の心の闇のようなものまでも盗んでしまうらしい。だから今回、優子が実は心に深い闇を抱えていたことを知り、みずきの心の闇も知ってしまう。

猿曰く、みずきの母親と姉はみずきのことを嫌いだったらしく、みずき自身も薄々は母と姉のことに気がついていて、それを無理矢理意識の奥に押し込めていたらしいんです。

だから、みずきには人間らしさが希薄だったんです。それは嫉妬という感情すら湧かないほどに。

でも、それを自覚することで、みずきは前を向く、という話ではあります。

しかし、ひょっとしたら肝心なことは実は何一つ語られていない可能性もなくはないと思います。

それは、なぜ優子は自害したのか。そしてその原因は何か。更に、なぜ名札を託したのはみずきで、そしてなぜ優子は猿の存在を知っていたのか。

ここらへん、結構大事な点だと思うんですよね。でも、何一つ語られていない。

普通に考えれば、おそらく優子はみずきのことを好きだったんだと思うんです。でも、そんなことは言えない。学園のヒロインであるなら尚更です。

そしておそらく、流れからすると、優子はみずきに嫉妬してたのではないでしょうか。嫉妬するほどのものをみずきに見出し、それ故に好きになってしまった。って考えると、割と筋は通るのかな、って思うんですけど、どうでしょう。ベタすぎですかね。

でも、なぜ猿の存在を知ってたんですかね? それだけはさすがに想像できん。


 

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「Ryuichi Sakamoto Playing the Piano : 2022+」ネタバレ有り感想。

先日、絶対に観たかった「Ryuichi Sakamoto Playing the Piano : 2022+」を観に行ってきましたー!

故あって、昨年末の配信ライヴを観ることは叶いませんでした。だから、YouTubeで「Merry Christmas, Mr.Lawrence」が特別公開された時はイチもニもなく飛びつきました。

その後、NHKでもダイジェスト版が放送! いやもう、ホンット、NHKにはありがとうございますと言いたいです。

そしてその放送内で、映画公開の予定もあることを教授が仰って、それ聞いた時はもう、本当嬉しくて、楽しみにしていたのですが。

その映画が、遂に公開されました! しかも、配信ライヴでは未公開の曲まであるという…!

というわけで行って参りました。場所はもちろん109シネマズプレミアム新宿。教授が音響を監修したという映画館での上映ということで、その点でも楽しみでした。

そして、やはり最高でした。

 

teaser

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久々の歌舞伎町

先ずは104シネマズビル屋上のゴジラを記念撮影しながら、久々の歌舞伎町を進んでいきます。

徐々に写真を撮りながら近づいていき、最後にゴジラの真下でカメラを構えたら、トラックにクラクションを鳴らされてしまいました(^^;;

夢中になって道路の真ん中で撮影しちゃダメですよw

ちなみに、歌舞伎町へ行ったのは実に久々だったのですが、割と小綺麗にはなっていましたねー。とはいえ、そこは歌舞伎町w 相変わらずの雰囲気は保ったままでありました。さすが歌舞伎町。かぶいてるね。

そして! いよいよ初の109シネマズプレミアム新宿へ。

しかしなんつーか、そのビル内部にある飲み街がねー…なんというか、下品w 電飾の感じとか、もー、ホンット、なんとかして欲しい感じでしたが。

教授はこんなところの映画館の音響を担当したのか…、となんだか勝手に気の毒な気分になってしまいました(←)。しかし、階をエスカレーターで上がっていって映画館に着くと、そこはちゃんと小綺麗なスペースであったのです。

物販とチケット購入

先ずは物販へ。入るといきなり教授の挨拶と略歴のボードがお出迎え。

そしてすぐに教授のスペースが! CDや本、Tシャツはもちろん、スコラシリーズなどが博物館のように陳列されていました。ちょっと細野観光を思い出してしまいましたね。

他にはガイナックス関連の映画グッズもたくさん。教授が音楽を担当した、かの名作「王立宇宙軍 オネアミスの翼」の限定版もありました。この作品、実は超ウルトラスーパー大好きな作品なので、正直ちょっと心を引かれました。しかし、今日の所は我慢(正直ちょっと高かったし)。

あと、ネルフのマグカップもありました! こちらもちょっと欲しかったけど、ウチに三つ四つあるので、さすがにちょっともういいだろう、と思い、こちらも断念(でもまだちょっと欲しいけど)。

ちなみに、観劇後に「12」のマスキングテープを買いました。

そしていよいよチケットを購入。しかあーし! なんと現金不可! マジかよ。後でマスキングテープを買った時もそうだったのですが、この映画館フロアでは完全に電子的な決済に移行した模様。使う側からすれば、かなり不便ですが、仕方がないのでクレジットカードで購入しました。

ちなみに座席代はAクラス4,500円、Sクラス6,500円。なかなかです。「この映画館、すぐに廃館になるんじゃなかろうか?」と勝手にいらぬ心配をしてしまいました。

しかし購入を進めていくと、途中、画面で「ドリンクとポップコーン込みなので、是非ご利用ください」みたいなメッセージが。なるほど、とちょっと思いました。そういうサービス込みなのね。でも、その値段分安くしていただいた方が嬉しいかも…。

ラグジュアリー映画館

そしていざ映画館へ! 中に入ると、かなりなラグジュアリー空間。さすが4,500円!

そしていきなりのレセプションカウンター! 本当はイの一番にトイレに行こうと思っていたのですが、そのトイレに行くのも忘れ、思わずカウンターに歩を進めてしまいました。

カウンターに行くと、購入画面にあった通りウェルカムドリンクと『ウェルカムポップコーン』が! すげえなぁ。こんな映画館初めてだよ。さすが4,500円。

で、カウンター内部のおねいさんにドリンクを選ぶよう言われたので、アイスコーヒーを所望。更におねいさんはポップコーンの種類を問うてきたので、塩を選びました。他にはキャラメルと、その二つのミックスがありました。

ウェルカムアイスコーヒーとウェルカム塩ポップコーンを両手にラウンジを奥に進んでいくと、運良く窓際の席が空いていたので確保。

外を見ると、眼下にはなんと、さっき撮影した104のゴジラ

東宝の映画館を見下すように作った東急の意地の悪さを感じなくもないですがw、眺めは最高! 実にリッチな気分でアイスコーヒーとポップコーンを食しました。アイスコーヒーもポップコーンもうまかったです。昼メシ食ってなかったので、実は正直助かりました。

そういえば、J-WAVEの教授特番でクリス・ペプラーが、教授とゴジラ話で盛り上がったことを話していて、その話の中で、教授は伊福部昭が好きだった、と言っていたのを思い出しました。そういった意味でも、なんとなく縁も感じてしまいます。

そんな風にしてゴジラを見ていたら、途中、カラスがビルの谷間を飛んで横切りました。

「12」制作中、録音中にカラスの鳴き声が入って良かった、みたいな教授のコメントがあって、それを思い出しました。そんなこともあり、なんとなく、「楽しんでね」と教授に声をかけられたようにも思いました。

そして時間が来たので、いよいよスクリーンへ。ポップコーンとアイスコーヒーは全部食い切れなかったので、トイレはもう我慢です。

中へ入るとこれまたラグジュアリー。座席も肘掛スペースもゆったりで、もちろんドリンクを入れるところもバッチリ。めちゃくちゃ良い座席でした。音響は教授監修だし、こりゃ確かに4,500円だなあ、と改めて思いました。もはや文句はありません。賞賛あるのみ。

最高の座席!

いくつかの予告編の後(「怪物」もありました!)、いよいよ本編スタート。

先ずは教授からのご挨拶。だったのですが、なんと!主に教授は画面左側から語りかけていたのです。

このことのどこいらへんが「なんと!」かと申しますと、僕が座っていたのが左側の方の最後列だったんですね。つまり、画面の教授のド真っ正面だったんです!(ややズレてはいましたが)

なんとなくここらへんがいいなあ、と特に何の考えもなく選んだ座席だったのですが、それが最高の席だったわけです。あの時の俺ナイス!

思えば、教授のステージはピアノを横に置いて左側が定位置でした。YMOでも立ち位置は向かって左でした。この構図は、そういうのもあったのかもしれないですね。教授といえばステージ左という。

だから、ほぼ俺の真正面だったので、教授に話しかけられているようでした。目線の高さはバッチリだったと思います。

そんなサプライズ(←?)の後、いよいよ演奏開始。

教授監修の音響

この映画館の売りの一つでもある、音に関してなのですが(やはり先ずはそこが気になりました)、正直、他の映画館との違いは明確には感じられませんでした。

そもそも、最近の映画館はどこも音が良い。逆に言うと、全体的にレベルが上がっていると思うのです。

ただ、J-WAVE特番で言われていた「正しく無音」というのはバッチリ感じられました。何も音がしないんです。無音を作り出すってのが結構難しいらしくて、どうしてもホワイトノイズとの戦いになりますからね。そしてまたホワイトノイズが結構な強敵。そこに打ち勝って無音を作り出すというのは、やはりさすがだと思います。

そういうこともあってか、ピアノの極小さい音も細かく聴こえました。特にダンパーペダルの音が生々しい。さらに言ってしまうと、ダンパーを離す時、少しハーモニクスがかかるのです。やはりピアノは弦楽器なのだなぁ、と改めて思わされました。

ちなみに、小学校の頃のピアノの先生には「ピアノは打楽器だから思い切りぶっ叩きなさい」(ウロ覚え)と言われました。大学のバンドサークルの先輩には「鍵盤楽器は歴史的にリズム楽器だったことを知った方がいい」とも言われました。

ピアノという楽器は、弦楽器や打楽器などなど、様々な楽器の要素から複雑に構成された総合体なのかもしれません。

あと、教授の息遣いも聴こえてきました。なんとなく、グレン・グールドを思い出しました。グールドのレコードには演奏中の彼の癖でもある鼻歌がよく入っているのです。グールドは、教授が敬愛するピアニストでもあります。

そういう、ピアノ演奏の音以外の様々な音の要素が聴き取れました。そういうのは、もちろん録音する際に、意識的に採取された音であると思います。

それを思うと、やはり教授はベルトルッチの影響も大きかったのだと思います。教授は最初、作った音楽をベルトルッチにプレゼンした時、シンセを使った録音だったそうです。そりゃそうだ。その当時、教授と言えばシンセだったわけですから。

しかしベルトルッチは「これは音楽じゃない」(ウロ覚え)みたいなことを言ったとか言わなかったとか。なぜなら「椅子の軋みや、息遣いが聞こえないじゃないか」。

それに対して教授は「だったら、椅子の音をサンプリングしましょうか」と言い放ったそうです。いやあ、トンガってたんだなぁw

ただその後、確か教授自身もそんなベルトルッチの影響を受けたって何かのインタビューで言ってたような気がします。

あとは、そういう「ノイズ」みたいなものを意識的に入れるのは、やっぱりジョン・ケージの影響もあっただろうし、20世紀の現代音楽にも町の音を入れたオーケストラもあったみたいなので(「スコラ」で紹介してました)、そういった素養は元々教授の中にあったのでしょう。

だから、ベルトルッチの「文句」も、最終的には受け入れられたのではないでしょうか。

ただ、そういったノイズを拾う録音技師の技術がすごいのか、それを再現する館内音響が良いのか、どっちだろう?とは思いました。両方かもしれない。

優しい演奏

曲で言うと、最近はあまり演奏しなかった良い曲を演奏してくれたのが、個人的には特に嬉しかったですね。

例えば、「嵐が丘」と「Happy End」がそんな感じ。この2曲、めちゃくちゃ良い曲ですからねぇ。特に「嵐が丘は」「The Last Emperor」や「The Sheltering Sky」に並ぶくらいの名曲だと思っています。

演奏で言うと、YouTubeで特別配信された「戦メリ」を聴いた時と同じように、やっぱり「優しい」と思いました。

もちろん、教授の音楽の中には攻撃性というか、先進性というか、前衛性みたいなものはあると思うし、それは演奏の中にも最後まであったと思います。でも、優しいんです。

攻撃性の中にやさしさが出てきた感じ。教授自身、このライヴを終えた時「ここに来て新境地」と言ったインタビューを読んだことがあります。まさにそうだと思いました。

あと、何と言っても「東風」をソロピアノでアレンジしていたのも嬉しいポイント。で、この演奏、ゆったりしたテンポなのに、ビート感を感じさせたと思います。

アレンジもそうだし、演奏技術の妙でもあると思います。そもそも教授の曲は弾いてみるとわかるけど、リズムキープがめちゃめちゃ難しい。やはり教授はリズム感すごいと思います。

それに、教授自身言っているように技術は落ちたとは思います。もう昔みたいに速くは弾けないし。でも、音がいい。タッチがいい。そこはもう、センス、経験、思想とすら言ってもいいかもしれない。そういうものが、やはり抜群なんだと思うのです。

映画ライヴ

あと思ったのは、久々に映画館で観たら、やはり観客の咳とか、飲み物を飲む音とか聞こえてくるんです。

特にピアノコンサート映像だから、ちょっとした音でも聞こえてくる。

でもそれが、かえってライヴ感をかき立ててもいたと思うんですよねー。

元は配信ライヴとして作られた映像なのですが(より正確に言うなら、公開レコーディングを配信ライヴ仕立てに見せる)、こうして劇場公開することによって初めて「ライヴ」になったようにも思うのです。

また、個人的には、以前ならそういうノイズが許せなかったんですけど、今回は「ライヴ感」として、ちょっとテンションが上がってしまいましたw

あぁ、ライヴってこうだったな、ていう感じ。

今後は映画館で映画を見る自分の態度、姿勢も変わっていくかもしれない。

そういったこともあって、今回はまさにライヴを擬似体感できる、まさに「映画ライヴ」だったと思います。なんとなく、ビートルズの「Eight Days A Week」を思い出してしまいました。

エンドクレジットの「Opus」のカットはまさにコンサートに来ているようでしたねー。多分、この劇場のステージなどのことなども計算し、そういう風に見えるように撮ったのだと思います。教授も等身大に映っていたように感じました。

まさに映画ライヴ。

永久に残したい作品

この「Opus」も、さっき言った「最近はあまり演奏しなかった良い曲」の一つなのですが、まだまだ教授には良い曲があります。

例えば、「音楽図鑑」に入っている「マ・メール・ロワ」などは超名曲なのです、おそらくはコンサートでは演奏されたことはないのではないでしょうか。非常にもったいなく、残念でもあります。ただそれを思うと、やはり唯一無二の音楽家だったのだなぁ、と改めて思いますね。

そして、こういう演奏、ライヴ、映画を残してくれた教授は偉いと思いました。映像作品としても本当に素晴らしい。やっぱり教授はカッコいいと思う。永久に残したい作品ですね。

映画が終わって、ほとんどボーッとしながら帰り支度をしようとしたら、ウェルカムポップコーンを盛大にブチまけてしまいました。

落としたポップコーンを片付け、まだ残っているアイスコーヒーを飲もうとラウンジに出たら、まだ明るかったです。随分日が伸びたなぁ、と思いました。今が一年の中でも一番気候が良い時季かもしれない。

ゴジラを見下ろす窓際の席は埋まっていたので、反対側の奥に行ったら、そこもまたラグジュアリー空間でした。いや、本当に良い映画館だ。映画の余韻に浸りつつ残ったアイスコーヒーをおいしく飲みました。その後、ちゃんとトイレにも行きましたよ。

帰りのエスカレーターから見えた夕陽が見事でした。


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